#学術的マルクス主義はなぜ死んだのか? ロールズが放った止めの一撃――天才たちがマルクス主義を捨てた、ある時代の終焉について #思想史 #政治哲学 #経済学史ざっくり解説 #七07

学術的マルクス主義はなぜ死んだのか? ロールズが放った止めの一撃 #思想史 #政治哲学

――天才たちがマルクス主義を捨てた、ある時代の終焉について

目次

本書の目的と構成

さて、このお話は、かつて世界の半分を覆うかと思われた壮大な思想、マルクス主義が、なぜ静かに、そしてあっけなく学術の舞台から姿を消していったのか、そのニヒルでシニカルな物語です。特に、冷戦末期に英米の学術界で華々しく復活した「学術的マルクス主義」、その中でも分析的マルクス主義脚注1参照)と呼ばれる、やけに厳密ぶった連中が、いかにしてその牙を抜かれ、最終的にはかつてのライバル、リベラリズムの陣営へと寝返っていったのかを、冷たい筆致で描き出します。

本書は、この学術的な「地殻変動」を、当時の主要な論者たちの格闘や、マルクス理論の根幹にある理論的欠陥に焦点を当てて解剖していきます。第一部では、この衰退がどのように起こったのか、特に規範的な側面、すなわち「資本主義は道徳的にいけないのか?」という問いに対するマルクス主義者たちの迷走と、ロールズ主義という新たな磁場への引力について語ります。第二部では、マルクス理論のいわば「科学的」な土台、経済学や社会理論が、いかに現代の知見によって掘り崩されていったのか、その詳細を徹底的に、そして容赦なく明らかにします。

第三部の補足資料では、この衰退劇を取り巻く様々な要素や、そこから派生した面白い(あるいは滑稽な)現象を拾い上げ、多角的にこの思想史を読み解くためのヒントを散りばめます。巻末資料では、この物語の全体像を整理し、今後の研究の方向性など、少しだけ真面目な話もしつつ、最後に投げやりな免責事項で締めくくりたいと思います。

本書を読むことで、あなたには現代社会を理解する上で、かつて絶大な影響力を持ったマルクス主義が、学術的にはいかなる墓場に葬られたのか、そして代わりにどのような思想が覇権を握ったのか、その冷たい現実が見えてくるでしょう。まあ、知ったところで何かが劇的に変わるわけではありませんが、無知よりはマシ、という程度の慰めにはなるかもしれません。


要約

ええ、結局のところ、この論文で言いたかったことはシンプルです。かつて英米の学術界を賑わせた学術的マルクス主義、特に分析的マルクス主義者たちは、マルクスの理論を厳密に再構築しようと試みました。しかし、彼らは結局、マルクス理論の核心部分、例えば「資本主義に対する道徳的批判を行わない」という「でたらめ」や、経済理論(労働価値理論危機説)や社会理論(史的唯物論)の致命的な欠陥に直面しました。

同時に、ジョン・ロールズの『正義論』に代表されるリベラル平等主義が、社会の公正さを問うためのより整合性のある、そして学術的に扱いやすい枠組みを提供しました。特に、搾取を規範的批判の根拠とすることの困難さ(ノージックの批判など)が明らかになるにつれて、多くの元マルクス主義者は、搾取よりも不平等こそが主要な問題であると認識し、平等主義を掲げるリベラルな立場へと鞍替えしていったのです。

その結果、学術的な議論の場において、マルクス主義はもはや中心的な位置を占めることがなくなりました。現代においてマルクスの名を用いる人々も、その実、核となるマルクス理論からは離れた平等主義者であることが多い、と筆者は皮肉交じりに指摘します。学術的マルクス主義は、その理論的基盤が掘り崩された結果、公共的な議論においては「神学なき宗教」のような、学術的には「ペーパータイガー」のような存在になってしまった、というのがこの論文の冷たい結論です。


登場人物紹介

この冷たい物語に登場する主な面々をご紹介しましょう。かつて輝きを放ち、あるいはマルクス主義の墓掘り人となった、あるいは静かに新たな思想を築いた学者たちです(年齢は2025年時点での概算です)。

  • カール・マルクス (Karl Marx / Karl Heinrich Marx) (1818-1883): 言わずと知れた、この物語の主人公であり、同時に墓標となった人物。ドイツの哲学者、経済学者、社会学者、革命家。「資本論」などで資本主義の構造、運動法則、矛盾を分析し、労働者による革命と共産主義社会の到来を予言しました。学術的マルクス主義がその理論的基盤の脆さを露呈するまで、多くの学者を惹きつけました。享年65歳。
  • ユルゲン・ハーバーマス (Jürgen Habermas) (1929-): ドイツの哲学者、社会学者。フランクフルト学派の第二世代を代表する人物。コミュニケーション的行為論などを展開し、マルクスの資本主義批判を現代的なシステム理論の言葉で再活性化しようと試みましたが、最終的にはリベラルな立場へと接近しました。御年96歳。
  • ジェラルド・コーエン (Gerald Cohen / G. A. Cohen) (1941-2009): カナダ出身の哲学者。分析的マルクス主義の創始者の一人。「カール・マルクスの歴史理論擁護」で厳密な分析哲学の手法を用いて史的唯物論を擁護しました。しかし、ロバート・ノージックの批判などを受け、搾取論から平等主義へと転向。その思想的遍歴は、学術的マルクス主義の衰退を象徴しています。享年68歳。
  • フィリップ・ファン・パリス (Philippe Van Parijs) (1951-): ベルギーの哲学者、経済学者。分析的マルクス主義の主要メンバー。ベーシックインカム論などで知られます。コーエンらと共に、マルクス主義の理論的課題に取り組みましたが、最終的にはリベラルな枠組みで議論を展開しています。御年74歳。
  • ジョン・レーマー (John Roemer) (1945-): アメリカの経済学者、政治学者。分析的マルクス主義の主要メンバー。合理的選択論を用いてマルクス主義の概念を再構築しようと試み、「搾取と階級の一般理論」などを執筆。搾取論の理論的困難をいち早く認識し、平等主義へ傾倒しました。御年80歳。
  • アレン・ブキャナン (Allen Buchanan) (1948-): アメリカの哲学者。分析的マルクス主義に関連し、正義論や国際倫理などを研究。初期はマルクス主義的な視点も持ちましたが、現在はリベラルな正義論の枠組みで活動しています。御年77歳。
  • ジョン・エルスター (Jon Elster) (1940-): ノルウェーの社会科学者、哲学者。合理的選択論を用いて社会理論、特にマルクス理論の再構築を試みましたが、後にマルクス主義から距離を置きました。「現実主義的自由論」などを執筆。御年85歳。
  • ジョン・ロールズ (John Rawls) (1921-2002): アメリカの哲学者。この物語において、マルクス主義者たちの新たな「救済者」となった人物。「正義論」で公正としての正義というリベラル平等主義の強力な理論を構築し、20世紀後半の政治哲学に絶大な影響を与えました。享年81歳。
  • フレディ・デボア (Freddie deBoer) (生年不詳): 現代のアメリカのライター、ブロガー。現代におけるマルクス主義や左派の議論について、しばしば挑発的な言論を展開。論文中で、現代のマルクス主義を批判する論者として言及されています。
  • ロバート・ノージック (Robert Nozick) (1938-2002): アメリカの哲学者。リバタリアニズムの代表的人物。「アナーキー・国家、そしてユートピア」でロールズの正義論やマルクス主義の搾取論に対して鋭い批判を展開。特に「ウィルト・チェンバレンの議論」は、搾取論の規範的基礎に深刻な問いを投げかけました。享年63歳。
  • アルフレッド・マーシャル (Alfred Marshall) (1842-1924): イギリスの経済学者。新古典派経済学を大成。需要と供給の分析(限界分析)を用いて価格決定を説明し、労働価値理論に代わる強力な理論を提供しました。享年82歳。
  • ジョン・メイナード・ケインズ (John Maynard Keynes) (1883-1946): イギリスの経済学者。ケインズ経済学の創始者。「雇用・利子および貨幣の一般理論」で不況の原因を有効需要の不足と説明し、政府による財政政策や金融政策による景気調整の可能性を示唆。マルクス主義の危機説を理論的・実践的に時代遅れにしました。享年62歳。
  • ポール・クルーグマン (Paul Krugman) (1953-): アメリカの経済学者。ノーベル経済学賞受賞。現代の経済学者として、ケインズ的な視点から経済問題を解説。論文中で、不況に関するマルクスとケインズの違いをシンプルに説明した記事が参照されています。御年72歳。
  • マックス・ヴェーバー (Max Weber) (1864-1920): ドイツの社会学者、経済学者。社会学の基礎を築いた一人。宗教(プロテスタンティズムの倫理)が経済発展に与える影響などを論じ、経済的下部構造が上部構造(文化、思想など)を一方的に決定するというマルクスの史的唯物論に対して、異なる視点を提供しました。享年56歳。
  • アーサー・スティンチコム (Arthur Stinchcombe) (1933-2018): アメリカの社会学者。経済社会学の研究者。マルクスの史的唯物論の影響を受けつつも、より多様な要因(組織、文化など)を考慮した社会変動理論を展開しました。享年85歳。
  • マイケル・マン (Michael Mann) (1942-): イギリス出身の社会学者。歴史社会学、権力論の研究者。「社会権力の源泉」シリーズで、イデオロギー的、経済的、軍事的、政治的という四つの権力源泉の相互作用から社会変動を分析し、史的唯物論を一面的であると批判しました。御年83歳。
  • ソースティン・ヴェブレン (Thorstein Veblen) (1857-1929): アメリカの経済学者、社会学者。「有閑階級の理論」で、人間の消費行動が単なる必要の充足ではなく、顕示的消費(見せびらかし消費)や地位の獲得に強く影響されることを指摘。生産性向上によって希少性が完全に解消されるというマルクスの「希少性後社会」論に現実的な疑問符をつけました。享年72歳。
  • ジークムント・フロイト (Sigmund Freud) (1856-1939): オーストリアの精神科医。精神分析学の創始者。「文明とその不満」などで、人間の根源的な攻撃性や欲望の抑圧が文明の成立と維持に不可欠であることを論じました。この視点は、理性的な計画や生産性向上だけで理想社会が実現するというマルクス主義的な楽観論に冷や水を浴びせ、フランクフルト学派などの新マルクス主義に影響を与えました。享年83歳。
  • フリードリヒ・ハイエク (Friedrich Hayek) (1899-1992): オーストリア出身の経済学者、哲学者。ノーベル経済学賞受賞。社会主義計算論争において、分散された知識を効率的に活用する市場の価格メカニズムの優位性を強力に論じ、計画経済の根本的な困難さを指摘しました。「隷属への道」などで知られます。享年92歳。
  • 毛沢東 (Mao Zedong / 毛泽东) (1893-1976): 中華人民共和国の建国の父。政治家、思想家。論文中では、「ペーパータイガー」という言葉の出典元として、比喩的に言及されています。享年82歳。
  • アダム・スミス (Adam Smith) (1723-1790): スコットランドの経済学者、哲学者。「国富論」で「見えざる手」による市場メカニズムの効率性を論じ、近代経済学の父とされる人物。論文中で、市場の議論の出発点として言及されています。享年67歳。
  • トーマス・ピケティ (Thomas Piketty) (1971-): フランスの経済学者。「21世紀の資本」などで知られ、長期的なデータに基づいた資本主義における格差の拡大を分析。現代における「マルクス主義者」として名前を挙げられることもありますが、論文の筆者からは、その規範的立場は平等主義であり、古典的なマルクス主義とは異なると指摘されています。御年54歳。

疑問点・多角的視点

この論文、なかなかどうして面白い視点を提供してくれます。学術的な議論がどのように変遷してきたのか、その一端を垣間見せてくれるわけですが、もちろん、これで全てが語られたわけではありません。この冷たい論評を鵜呑みにする前に、いくつか立ち止まって考えてみたい「疑問点」や、別の角度からの「多角的視点」があります。知的好奇心というのは、常に疑いの目を持つことから始まりますからね。

マルクス主義、本当に死んだのか?

論文は、学術的な中心舞台からマルクス主義が去った、と断言しています。確かに、経済学のメインストリームで労働価値説や危機説が真剣に議論されることは稀でしょう。しかし、学術というのは広いものです。歴史学社会学文化研究文学理論地理学といった分野ではどうでしょうか? 階級分析、イデオロギー批判、資本の空間的展開、文化産業論といったマルクス主義的な概念は、形を変えつつも、未だに多くの研究者に影響を与え、活発な議論を生み出しているのではないでしょうか? 論文の焦点は政治哲学と経済学に偏りすぎているのかもしれません。

政治的現実の影響、どこまで無視できる?

筆者は、ソ連崩壊のような政治的出来事の影響は「脇に置く」と言っています。学術的な理論の純粋な発展や破綻に焦点を当てたい、という意図は理解できます。しかし、現実に社会主義国が次々と瓦解していく様を目の当たりにして、学術界の「空気」が変わらないはずがありません。研究資金の配分、ポストの減少、あるいは単に「クールではない」という感覚的な変化まで含めれば、政治的要因が学術的なトレンドに与える影響は、理論的な破綻と同じくらい、あるいはそれ以上に大きかったのではないでしょうか? 学問というのは、純粋な象牙の塔だけで成り立っているわけではない、という冷たい現実も見る必要があるでしょう。

リベラル平等主義はバラ色の未来か?

論文は、元マルクス主義者たちがロールズ主義へと転向したことを、ある種の理論的な「進歩」や「収束」のように描いている側面があります。確かに、ロールズの理論は非常に洗練されています。しかし、リベラル平等主義もまた、様々な批判に晒されてきました。コミュニタリアニズムからは共同体や伝統の軽視、リバタリアニズムからは個人の自由や財産権の侵害、フェミニズム批判的人種理論からはジェンダーや人種といった社会構造的な不平等の見落とし、といった具合です。ロールズ主義が新たな規範的な覇権を握ったとしても、それはまた別の新たな理論的課題と現実的な社会問題に直面しているのです。その意味で、思想史は常に流動的であり、「これで決着!」ということは決してないのでしょう。

現代資本主義への批判はどこから来るのか?

リーマンショック以降の金融危機、加速する格差、気候変動、そして巨大なGAFAのようなプラットフォーム企業による新たな支配。現代資本主義は、マルクスが生きた時代とは比べ物にならないほど複雑で、新たな矛盾を孕んでいます。論文は、古典的なマルクス理論のツールが錆びついたことを指摘しますが、これらの現代的な問題に対する鋭い批判的な視点はどこから来るのでしょうか? 古典的な枠組みに囚われず、マルクスの問題意識だけを引き継ぎ、他の理論と結合させた新たな批判理論こそが、今求められているのかもしれません。ピケティのような研究者が、たとえ「純粋な」マルクス主義者でなくとも、マルクスの問いを現代に引き継いでいると見ることもできるのではないでしょうか?

これらの疑問は、論文が提示する冷徹な学術史の背後にある、より複雑で、より混沌とした現実を私たちに突きつけます。思想というのは、決して綺麗な理論体系だけで完結するものではない。それは常に、社会の現実、権力関係、そして人間の欲望と切り離せないものなのです。


第一部 夢の終焉:学術マルクス主義、その華麗なる衰退

第1章 冷戦末期の怪奇現象:天才たちはなぜマルクスに群がったのか?

想像してみてください。冷戦がまだ冷え冷えとしていた時代、壁の向こうでは社会主義国家が威容を誇り(少なくとも外からはそう見え)、こちらの資本主義社会では様々な矛盾が噴出していました。そんな頃、英語圏の大学の政治哲学や経済学の教室で、驚くべき現象が起こっていたのです。それは、多くの、そしてとびきり頭の切れる若い学者たちが、「マルクス」に熱狂していたということです。

彼らは単なる活動家ではありませんでした。論理学、数学、経済学の最新理論武装した彼らは、マルクスの分厚い著作を手に、「これまでのマルクス主義は感傷的すぎた」「『でたらめ』を取り除いて、純粋な理論としてマルクス主義を再構築しよう」と意気込んでいました。これが、後に分析的マルクス主義と呼ばれる潮流の始まりです。ジェラルド・コーエン、ジョン・レーマー、フィリップ・ファン・パリスといった、後に思想界で名を馳せることになる人々が、この運動の中心にいました。

なぜマルクスだったのか? それは、彼が資本主義というシステムを、単なる個々の不正義の寄せ集めではなく、構造的な矛盾を抱えた、歴史的に必然的に衰退していくシステムとして捉えたからです。当時の多くの若いラディカルにとって、マルクスの理論は、目の前の社会の不平等や抑圧に対する、最も包括的で、最も知的な武器に見えたのでしょう。「資本論」を読み解くことは、まるで世界の隠された真理に触れるかのような興奮を伴ったに違いありません。政治哲学に携わる「最も賢く最も重要な人々の多くは、ある種のマルクス主義者だった」という筆者の言葉は、当時のアカデミアにおけるマルクス主義の熱気を如実に伝えています。まあ、その熱狂が、後にとんでもない冷水によって冷やされることになるのですが。

コラム:かつての輝き

私の師も、若い頃はマルクスにかぶれていたと言います。彼らは、徹夜で「資本論」を読み、居酒屋で経済学の数式を持ち出して議論し、世界の革命について語り合ったそうです。今の学生には想像もつかないような、熱病のような時代だったと懐かしそうに語っていました。まあ、結局その師も、今では政府の諮問会議でリベラルな政策提言をしていますけどね。若気の至り、と言ってしまえばそれまでですが、あの頃の彼らが信じた理論に、微塵も希望はなかったのでしょうか。知る由もありませんが。


第2章 「でたらめ」の定義:資本主義は不当か? マルクス最大の嘘

さて、学術的マルクス主義者たちが最初に挑んだ(あるいは暴いた)「でたらめ」、それはマルクス自身が頑なに主張していた奇妙な一点です。マルクスはしばしば、「私は資本主義システムに対していかなる道徳的批判も行っていない」と豪語していました。彼の仕事は、資本主義が「不当だ」と糾弾することではなく、歴史的発展の法則に基づいた「没落の予測」である、と。労働からの剰余価値の抽出を表す「搾取」という言葉も、道徳的な非難ではなく、単なる科学的な専門用語である、と。

…おやおや、これはどう聞いても「でたらめ」ではありませんか? 労働者が汗水垂らして生み出した価値の一部が、生産手段を持つ資本家の懐に吸い上げられる。そして、資本家はその剰余価値を再投資してさらに資本を蓄積し、労働者は賃金奴隷の状態に置かれる。これのどこが「道徳的批判ではない」と言えるのでしょうか? マルクスがこの主張をするたびに、彼はまるで「小便を受けている」ように聞こえた、という筆者の皮肉は、当時の学者たちの共通認識だったことでしょう。

しかし、初期のマルクス主義者やマルクス・レーニン主義者たちは、厄介な道徳論争に巻き込まれないために、あえてこの「でたらめ」を維持することが「有益」だと感じていたようです。「資本主義は不当だから打倒せよ」ではなく、「資本主義は歴史の法則によって必然的に崩壊するから、その手助けをせよ」という方が、科学的で、説得力があるように見えたのかもしれません。冷たい科学の名の下に、革命を正当化する。いかにもマルクス主義らしい、といえばそうですが。

ところが、20世紀が進むにつれて、資本主義の崩壊は一向に起こる気配がなく、むしろ労働者の生活は(相対的剥奪はあったにしても)絶対的には向上していきました。こうなると、「崩壊を予測する」というアングルだけでは、もはや革命の動機が見出せません。労働者は貧困化して革命を起こす私利私欲の理由を持つどころか、それなりに安定した生活を送るようになったのです。1970年代初頭には、「崩壊の予測」というフレームワークは完全にその有用性を失っていました。

こうして、学術的マルクス主義者たちは、マルクス最大の「でたらめ」を捨て去り、資本主義に対する「道徳的批判」の必要性を認めざるを得なくなりました。「でたらめ」のないマルクス主義の最初の仕事は、この道徳的批判の根拠を探ることでした。そして、その出発点として最も自然に見えたのが、かつて科学的な専門用語とされたはずの、あの言葉でした。そう、「搾取」です。

コラム:本音と建前

どの世界でも、本音と建前というのはありますよね。学問の世界も例外ではありません。マルクスが本当に「資本主義が不当だ」と思ってなかったなんて、誰が信じるというのでしょう。きっと彼も、目の前の貧困や労働者の苦境を見て、激しい義憤を感じていたはずです。でも、それを「科学」の言葉でコーティングしないと、当時の知的権威に太刀打ちできないと考えたのかもしれません。あるいは、道徳論争は水掛け論になりがちだから、もっと確実な「法則」に依拠したかったのか。どちらにせよ、彼の「建前」は、後の弟子たちにとって大きな足枷となったわけです。ご苦労なことです。


第3章 砂上の規範:搾取論はノージックの一撃に耐えられなかった

「よし、道徳的批判が必要だ! ならば、資本主義の不正義は搾取にある!」――こうして、学術的マルクス主義者たちは、搾取という概念を規範的なものとして位置づけ直し、その分析と擁護に全力を傾けました。「搾取とは何か?」「なぜ搾取は不当なのか?」「資本主義は必然的に労働者を搾取するのか?」「搾取のない経済システムは可能か?」といった問いが、彼らの研究の中心となりました。

中でも、搾取を不当とする最も直感的な根拠は、「労働者は自らの労働によって生み出された成果を受け取るに値する。それ以下しか受け取れないなら、不当である」というものでした。これはマルクス主義が労働価値理論と結びついている理由でもあります。商品価値は投下された労働量によって決まる、という考えは、「労働の成果を受け取る権利」という規範的主張と相性が良かったからです。

しかし、この「砂上の規範」は、たった一人のリバタリアン哲学者、ロバート・ノージックによって、あっけなく崩されてしまいます。ノージックは、その著書「アナーキー、国家、そしてユートピア」の中で、有名な「ウィルト・チェンバレンの議論」脚注2参照)を展開しました。簡単に言えば、もし人々が公正な手続き(例えば、好きなバスケットボール選手のプレイを見るためにお金を払うこと)を通じて自らの意思で資源を移転させた結果として不平等が生じるならば、それは不当ではない、とノージックは主張したのです。

そして、これが重要な点なのですが、もし「労働者は労働の成果を受け取るに値する」というのがあなたの規範的な見解であれば、稀有な才能を持つ個人が、その才能によって莫大な収入を得ること(例えば、大スター選手の高額年俸や、天才プログラマーの莫大な報酬)に対して、何も文句が言えなくなります。なぜなら、その収入は彼らの「労働の成果」だからです。さらに、その高額な収入の一部を税金として徴収することすら、彼らの労働の成果を奪う「搾取」のように見えてしまう、とノージックは皮肉りました。

この議論は、学術的マルクス主義者たちに壊滅的なダメージを与えました。特にG.A.コーエンは、この問題に10年近く苦悩し、ノージックに反論するために2冊もの本を書いたにもかかわらず、どれも決定的な説得力を持たなかったと言われています。搾取を規範的な武器にしようとした試みは、ノージックという鋭利なメスによって、その核心を抉り取られてしまったのです。マルクス主義者たちが築こうとした規範的な城は、あっけなく砂上の楼閣と化したのでした。なんとも空しい話ではありませんか。

コラム:理詰めのアカデミア

アカデミアというのは、恐ろしい場所です。どんなに熱い情熱や理想があっても、論理的に破綻していれば、あっという間に冷たい批判の前に崩れ去ります。ノージックの議論は、ある意味で極端ですが、論理的には非常に強力でした。「労働の成果を受け取る権利」という直感的に分かりやすい規範を持ち出されたマルクス主義者たちは、「しかしその権利を認めると、不平等が正当化されてしまう…」というジレンマに陥ったのです。理想を掲げるだけではダメ。その理想が、現実の、そして論理の厳しいチェックに耐えられるかどうかが問われる。それが学問の世界です。そして、多くのマルクス主義者の理想は、このチェックに耐えられなかったのです。


第4章 ダマスカスへの道ならぬもの:コーエン、屈辱の転向

搾取論の理論的困難、特にノージックからの手痛い批判に直面した分析的マルクス主義者たち。彼らは袋小路に迷い込んでいました。その中で、この潮流の最も重要な理論家の一人であったジェラルド・コーエンが経験したエピソードは、彼らの思想的遍歴、そして学術的マルクス主義の衰退を象徴的に物語っています。

コーエンは、ノージックの議論に何年も頭を悩ませていました。どうすれば、労働の成果を受け取る権利を否定せずに、資本主義下での莫大な不平等を批判できるのか? 彼は答えを見つけられず、苦悶の日々を送っていました。ある日、彼はオックスフォードを離れ、アメリカのプリンストン大学でしばらく過ごすことにしました。そこで彼が見た光景は、彼にとって一種の「ダマスカスへの道」脚注3参照)のような衝撃だった、と彼は後に語っています。

コーエンがプリンストンで出会ったのは、彼と同じ左派系の政治哲学者たちでした。しかし、驚くべきことに、彼らの誰もノージックの議論で夜も眠れなくなるほど悩んでいなかったのです。なぜか? 答えはシンプルでした。彼らはリベラル平等主義者だったからです。

リベラル平等主義者たちは、最初から「労働の成果を受け取る権利」や「自己所有権」(ノージックの議論の根幹)といった概念に、マルクス主義者ほど強い思い入れを持っていませんでした。彼らが何よりも重視したのは、社会の基本構造における平等です。だから、ノージックが「労働の成果を受け取る権利を認めれば、不平等は正当化される」と指摘しても、彼らは肩をすくめるだけでした。「ええ、だから平等の方が大事なんですよ?」とでも言うかのように。

コーエンは、この光景に衝撃を受けました。そして、自分自身に根本的な問いを投げかけざるを得なくなりました。「私が資本主義について最も嫌いなことは何なのか? ある難解な公式(搾取論)によれば、皆が自分が生産したものの価値を全額支払われていないということなのか? それとも、富があふれる社会の真ん中で、尊厳ある生活を送るための必需品すら買えない人々がいるという不平等なのか?」

ノージックの議論が皮肉にも明らかにしたのは、搾取の問題を解決しても、必ずしも不平等の問題は解決しない、ということでした。ジョン・レーマーは、貧しい人々が体系的に富裕層を搾取しながらも貧しいままであるようなモデル経済ですら構築できることを証明し、この点をさらに強力に示しました。こうして、コーエンは、追い詰められた結果、自分にとって本当に重要なのは搾取ではなく不平等だった、という冷たい事実に気づいたのです。人間としてお互いにどう関わるか、という根本的な問いが、個々人が何かを所有する権利よりも重要である、と。

こうして、ジェラルド・コーエンは、長年の苦悩の末に、マルクス主義の看板を下ろし、平等主義者へと転向しました(彼は「リベラル」という言葉を嫌ったでしょうが)。これは、彼個人の知的な遍歴であると同時に、学術的マルクス主義という潮流が、理論的な袋小路に迷い込んだ末に、リベラル平等主義という新たな理論的磁場に引き寄せられていった過程を象徴する出来事でした。かつての熱狂は去り、残ったのは冷たい理論的選択という現実だけでした。

コラム:転向という現実

思想的な転向というのは、外から見るほど劇的ではないのかもしれません。ある日突然、雷に打たれて「私は今日からリベラルです!」と叫ぶわけではない。長年の研究の中で、どうしても解けない問題に突き当たり、他の理論のほうが自分の問題意識をうまく説明できる、と気づき、静かに、しかし確実に足場を移していく。それは、情熱よりも、知的な誠実さの帰結なのかもしれません。でも、かつての同志から見れば、それは裏切りに映る。そして、彼自身もまた、どこかに割り切れなさを抱えたままだったかもしれません。アカデミアの片隅で起こった、小さな、しかし決定的なドラマだったのです。


第5章 リベラルという安住の地:ロールズが彼らを救済したのか?

では、なぜロールズのリベラル平等主義は、マルクス主義者たちにとって、かくも魅力的な安住の地となったのでしょうか? 論文の筆者は、ロールズが提供したものは、「資本主義に対する批判を直接述べ、最も不快だと感じた部分に焦点を当てることができる規範的枠組み」だった、と指摘します。マルクス主義の複雑な機構に絡まることなく、ゴルディアスの結び目を切るかのように、問題の核心に切り込めるツールを提供したのです。

ロールズの『正義論』は、社会契約論という古い伝統を、「原初状態」「無知のベール」脚注4参照)といった思考実験を用いて、より高い抽象度と理論的な厳密さを持って再構築しました。その結果導き出された正義の原理、特に格差原理脚注5参照)は、最も恵まれない人々の状況を改善する限りにおいてのみ、不平等が許容される、と主張します。これは、マルクス主義者たちが搾取論で苦労して達成しようとした「公正な分配」という目標を、より洗練された方法論と強力な理論的正当性を持って提示したものでした。

元マルクス主義者たちは、ロールズの枠組みを用いることで、もはや「剰余価値がどうした」「労働力が商品化されて」といった、現代経済の実態から遊離しつつある難解な議論に拘泥する必要がなくなりました。彼らは、ロールズの理論を武器に、シンプルにこう主張できるようになったのです。「この社会の富の分配は、最も貧しい人々にとって有利になっていない。ゆえに、それは不公正である。」

これは、彼らにとって大きな解放でした。理論的な迷路から抜け出し、自分たちが本当に批判したかった対象――すなわち、富があふれる社会における深刻な不平等――に、まっすぐに向き合うことが可能になったのです。ロールズの理論は、マルクス主義が提供できなかった、あるいは理論的に破綻していた規範的な羅針盤を提供し、彼らをリベラル平等主義という新たな方向に導きました。筆者は、ロールズはマルクス主義を「不必要にし、誰もマルクス主義者である必要がないようにすることで勝利を収めた」と述べていますが、まさにその通りだったと言えるでしょう。

こうして、かつてマルクスの旗の下に集った天才たちの多くは、静かに、あるいは堂々と、リベラルの陣営へとその身を移しました。それは、理論的な整合性を追求した結果であり、ある意味では知的誠実さの帰結だったのかもしれません。しかし、かつての革命的な熱情を知る者から見れば、それはあまりにも冷たく、あまりにも「安住」しているように見えたのではないでしょうか。まあ、学問の世界は、情熱よりも整合性で評価されるものですが。

コラム:退屈さの勝利

筆者は、ロールズの著作を読む上での最大の課題は「信じられないほど退屈に見えること」だと警告しています。これ、本当に分かります。マルクスの文章には、怒りや予言といった文学的な魅力があります。読んでいて感情を揺さぶられます。一方、ロールズの文章は、どこまでも冷静で、緻密で、そして…退屈です。しかし、学術の世界では、この「退屈さ」が時に決定的な強みになります。感情的な訴えではなく、退屈なほどに積み上げられた論理こそが、確固たる基盤となり、多くの人々(学者たち)を納得させる力を持つことがあるのです。面白いから正しい、わけではない。退屈でも正しいものは正しい。アカデミアの厳しさを象徴していますね。


第二部 墓穴を掘った理論:なぜマルクスの土台は崩壊したか

第7章 経済学という冷たい現実:労働価値説の死体検案書

さて、規範的な批判の試みが、リベラル平等主義という思わぬ方向に流れていった学術的マルクス主義ですが、その理論の根幹にある経済学や社会理論の土台も、容赦なく侵食されていきました。特に、マルクス経済学の要石とも言える労働価値理論(LTV)は、その生命線でした。簡単に言えば、商品の価値(そして交換比率としての価格)は、その生産に「社会的に必要な労働時間」によって決定される、という理論です。

19世紀の古典派経済学(マルクスもこの伝統に位置づけられます)の時代には、この考え方はある程度の説得力を持っていました。しかし、19世紀末から20世紀にかけて、新古典派経済学が登場し、ゲームのルールが根本的に変わります。アルフレッド・マーシャルに代表される新古典派は、商品の価格は生産コスト(労働を含む)だけでなく、需要と供給の力によって決定されると主張しました。消費者がその商品をどれだけ欲しがるか、という需要側の考慮(これを限界分析といいます)を取り入れた新古典派経済学は、現実の経済現象をより正確に、より包括的に説明できるようになりました。

多くのマルクス主義者は、労働価値理論を、単なる価格決定の法則ではなく、経済的価値の究極的な起源に関する形而上学的な主張として解釈し直すことで、この批判を回避しようとしました。「結局、資本も過去の労働の蓄積にすぎないのだから、全ての価値は究極的には労働から生まれるのだ」と。

しかし、問題は、マルクスが労働価値理論に基づいて、より具体的な、そして経験的に検証可能な経済的主張を多数行っていたことです。彼の剰余価値の概念は、商品の価格が本当に投下労働量によって決まる場合にのみ意味を持ちます。もし、均衡市場価格が労働量ではなく需要と供給で決まるなら、剰余価値という概念は空虚なものになってしまいます。そして、剰余価値という核心を失えば、マルクス経済学の多くのドミノがガラガラと音を立てて倒れ始めます…。

現在、世界中の大学で教えられている経済学は、ほぼ全てが新古典派の枠組みです。労働価値理論は、歴史的な興味の対象としては扱われますが、現代経済を分析するための有効なツールとは見なされていません。筆者が、現代の学者が労働価値理論や剰余価値概念を「謝罪なしに、あるいは何を意味するのか説明せずに使い続けている」ことについて、「フロギストンについて話すのと経済的に同等になった」とまで言い放つのは、その致命的な理論的破綻を痛烈に皮肉っているのです。フロギストン? かつて燃焼現象を説明するために考え出された、今は完全に否定された架空の物質です。つまり、労働価値理論は、現代経済学において、存在しないものを前提にした幽霊のような理論になってしまった、ということです。その死体検案書は、新古典派経済学によって冷徹に作成されたのです。

コラム:理屈は通っても現実は違う

労働者は働いた分だけ報われるべきだ、という考え方は、倫理的には非常に魅力的なものです。そして、その倫理を労働価値理論という「科学的な法則」で補強しようとしたマルクスの試みも、当時の状況を考えれば理解できないではありません。しかし、経済という現実は、人間の倫理観や願いとは無関係に、独自の法則で動いています。どれだけ「労働こそが価値の源泉だ!」と叫んでも、消費者が欲しいと思わないものに価値は生まれない。この、倫理的な願望と冷たい現実の法則との間に横たわる溝が、労働価値理論の墓穴を掘ったと言えるでしょう。悲しいですが、これが現実です。


第8章 予測不能なはずの終焉:ケインズが奪った危機論の息の根

マルクスが資本主義の必然的な崩壊を予言する上で、もう一つの重要な柱だったのが危機説です。マルクスは、資本主義は生まれながらにして不安定であり、周期的に恐慌や不況といった危機に襲われ、最終的には自らの矛盾によって崩壊する、と考えました。19世紀を通して、資本主義経済は確かに激しい好不況の波を繰り返し、恐慌も頻発していました。この時代に生きたマルクスが、こうした不安定さを捉えて「いずれ終わるシステムだ」と考えたのは、ある意味自然なことだったでしょう。

マルクスは、資本の蓄積が生産の機械化を進め、それが賃金低下と市場への商品あふれ(過剰生産/過小消費)を引き起こし、ますます深刻な危機を生む、といったメカニズムを考えたようです。しかし、彼の危機説は、その詳細において解釈が分かれ、現代から見れば不況の最も基本的な特徴すら十分に説明できないものでした。例えば、不況がしばしば金融システムの危機に先行して起こる、といった点は、彼の理論ではうまく扱えませんでした。

ここに登場するのが、20世紀最大の経済学者の一人、ジョン・メイナード・ケインズです。ケインズは、不況の原因が過剰生産ではなく、むしろ有効需要の不足にあることを示しました。「お金がないからモノが買えない」というシンプルながら決定的な指摘です(ポール・クルーグマンの記事は、この点を分かりやすく説明しています)。そして、ケインズが打ち出したのは、この需要不足に対して、政府が財政政策(公共事業など)や金融政策(利子率の操作など)によって積極的に介入し、景気を調整することが可能である、という画期的なアイデアでした。

これは、単なる理論的な突破口に留まりませんでした。ケインズの理論に基づいた政策が実際に実施された結果、特に第二次世界大戦後、主要資本主義国では景気循環の変動が以前より大幅に緩和され、資本主義システムの安定性が大きく向上しました。かつてマルクスが資本主義の「矛盾」の現れだと考えた不況は、ケインズによって「金融システムの調整問題」と見なされ、その処方箋が示されたのです。

これにより、「資本主義は必然的に崩壊する」というマルクスの予言は、その根拠を失いました。もちろん、ケインズ経済学にも限界はあり、その後のオイルショックや金融危機は新たな課題を突きつけますが、それでも「政府の介入によって危機を管理できる」という発想は、マルクスの「危機による必然的崩壊」論を完全に時代遅れにしました。マルクスの危機説は、ケインズという強力な解剖医によって、その息の根を止められてしまったのです。予測不能なはずの終焉は、意外にも人間の手によって回避され、理論的な墓場へと送られました。なんとも皮肉な話です。

コラム:理論の寿命

どんなに素晴らしい理論でも、それが現実の世界を説明できなくなれば、その寿命は終わりです。マルクスが生きた時代には、彼の危機説は鋭い洞察だったかもしれません。しかし、時代は変わり、経済の構造も変わり、そして新たな天才が現れて、より優れた説明を与えた。学問というのは、常にそうやって古い知識を乗り越えていくものなのでしょう。理論にも、盛者必衰の理あり、です。まあ、私たちの人生の理論も、いつか時代遅れになるのかもしれませんが。


第9章 歴史の皮肉:ナショナリズムと軍事技術、史的唯物論の盲点

マルクスは経済学者であると同時に、偉大な社会理論家でもありました。彼が歴史を理解しようとした枠組みが史的唯物論です。この理論は、社会の変化や進歩の主要な原動力は、生産技術の発達にある、と主張しました。社会の「下部構造」(生産力と生産関係)が「上部構造」(法、政治、文化、思想など)を規定し、生産技術の発達が生産関係との間に矛盾を生み、それが階級闘争を経て社会構造を変化させる、と考えたのです。当時の観念的な歴史観に対する重要な修正をもたらしたことは間違いありません。

しかし、史的唯物論もまた、20世紀の冷たい現実の前で、その不十分さを露呈することになります。その最初の、そして最も重要な挫折は、ナショナリズムの重要性を予測できず、また説得力のある説明を提供できなかったことです。マルクスは、宗教を上部構造の一部と見なし、歴史的進歩を妨げる可能性はあるが、社会変化の主要な動因ではないと考えました(マックス・ヴェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で宗教の重要な役割を示唆し、マルクスの史的唯物論に疑問を投げかけました)。マルクス主義者たちは、ナショナリズムも同様に「上部構造」の産物と軽視する傾向がありましたが、これは痛恨の読み違いでした。労働者階級の連帯は、国家や民族の境界線によって、あまりにも容易に分断されてしまったのです。マルクスが夢見た「万国のプロレタリアート、団結せよ!」は、冷たいナショナリズムの壁の前で、空虚なスローガンと化しました。

さらに、史的唯物論は生産技術の発達に焦点を当てすぎたため、軍事技術の変化が人類史に果たした役割について、ほとんど何も語ることができませんでした。実際、マルクスの歴史像において、軍隊という社会的アクターには、ほとんど場所がありませんでした。しかし、20世紀、特に第二次世界大戦を経て、軍事技術(核兵器、航空戦力など)が国際関係、国家の形態、さらには社会構造そのものに与える絶大な影響は、誰の目にも明らかでした。軍事を無視した歴史理論は、もはや現実を説明する力を持ち得ませんでした。

こうして、マルクスの史的唯物論は、その影響力自体は後の社会科学に残したものの(アーサー・スティンチコムやマイケル・マンといった社会学者は、史的唯物論の影響を受けつつも、より複雑な要因を組み込んだ理論を構築しました)、その核となる「経済が全てを決定する」という一元論的な説明力は失われていきました。歴史は、マルクスの単純な予測を嘲笑するかのように、ナショナリズムや軍事といった、彼が見落とした要素によって大きく方向付けられていったのです。史的唯物論は、歴史の皮肉な展開によって、その主要な道具立てが時代遅れとなった、悲しい理論遺産となりました。

コラム:歴史は気まぐれ

もし歴史が、マルクスの予言通りにまっすぐに進んでくれたなら、きっと世界はもっと分かりやすかったでしょう。しかし、歴史はそんなに甘くありません。人間の感情や、偶発的な出来事、そして技術革新といった、予測不能な要素によって、簡単に予定調和を裏切ります。特にナショナリズムという感情の力は、理屈で割り切れるものではありません。学問は、この気まぐれな現実を、いかにして捉え、説明しようとするのか。そして、多くの場合、完璧な説明など不可能である、という冷たい事実に直面するのです。史的唯物論も、その限界を知った理論の一つにすぎません。


第10章 飽食という幻想:ヴェブレンが見抜いた希少性後社会の不都合な真実

マルクスが、未来の共産主義社会について多くを語らなかった理由の一つに、彼は産業主義の発展が「希少性後(ポスト・スカーシティ)の状況」を生み出すと予想していたことがあります。生産性の向上により、全ての人々のニーズが容易に満たされるようになれば、「商品形態」は廃止され、分配に関する争いは起こらなくなる、と考えたのです。「共産主義の『より高い段階』では、皆が全てを豊富に持っているので、もはや何かを独占しようとする価値自体がなくなるだろう」と。なんとも楽観的で、ある意味でナイーブな夢物語です。

しかし、この甘い幻想は、ソースティン・ヴェブレンという、これまた皮肉屋の経済学者によって、あっけなく打ち砕かれます。ヴェブレンは、その有名な「有閑階級の理論」の中で、人間の消費行動の多くが、単に物理的な必要を満たすためではなく、顕示的消費(見せびらかし)や社会的地位の獲得といった、ゼロサムゲーム(誰かが得をすれば誰かが損をする)に結びついていることを指摘しました。いくら社会全体の生産性が向上し、モノが溢れても、人々は他人よりも優れた地位を得るために、際限なく消費を続けるのです。

ヴェブレンは言います。「コミュニティの産業効率や生産高のいかなる増加も、最も基本的な物理的欲求が満たされた後には、競争的な消費によって吸収される準備ができている。」つまり、どんなに豊かになっても、人間は「足るを知る」ことがなく、常に他人との比較の中で、より多くのものを欲しがる、ということです。

ジークムント・フロイトもまた、「文明とその不満」の中で、人間の根源的な攻撃性や欲望の抑圧が、文明の成立に不可欠であることを論じ、理性的な計画だけで理想社会が実現するという楽観論に冷や水を浴びせました。生産性向上によって、単にモノが溢れるだけでは、人間社会から競争や対立、そして不平等がなくなるわけではないのです。

希少性後社会が永遠に訪れないであろうという示唆は、社会主義者たちに重い課題を突きつけました。もし、際限のない成長に頼って階級対立を解消できないのであれば、私たちは分配的正義に関する理論のような、規範的な枠組みを真剣に考える必要がある、と。希少性の問題は、共産主義の「より高い段階」で自然に解消される魔法の問題ではなく、社会の仕組みの中で常に管理し、解決策を模索し続けなければならない、冷たい現実だったのです。マルクスの描いた飽食の幻想は、人間の根源的な欲望と社会的な競争という不都合な真実によって、無残にも打ち砕かれたのでした。

コラム:人間の性

ヴェブレンやフロイトの指摘は、マルクスの楽観論を根底から揺るがすものでした。人間というのは、本当に厄介な生き物です。お腹がいっぱいになっても、安全が保障されても、今度は「他人より上に立ちたい」「認められたい」という欲求に突き動かされる。そして、これらの欲求は、どれだけモノが増えても完全に満たされることはありません。マルクスは、人間を経済的な存在としてのみ捉えすぎたのかもしれません。人間の「性(さが)」という冷たい現実を直視できなかった、あるいは見ようとしなかった。それが、彼の理想主義的な未来像を、単なる幻想に終わらせたのかもしれません。


第11章 計算された敗北:市場は計画にどう引導を渡したか

希少性後社会という幻想が打ち砕かれた結果、社会主義者たちは、現実の社会主義社会が直面するであろう、極めて実践的な問題に直面せざるを得なくなりました。それは、市場を廃止した社会において、誰が、何を、どれだけ生産すべきかを、どのように「知る」のか? という問題です。

資本主義であれ社会主義であれ、全ての経済システムには、この問いに答えるための何らかの価格システムが必要です。しかし、社会主義者は、市場の価格システムを資本主義の弊害と考え、計画経済で代替しようとしました。国家が生産目標を定め、資源を配分し、価格を決定する、という形で。

ここでゲームを劇的に変えたのが、再びフリードリヒ・ハイエクです。彼は、いわゆる「社会主義計算論争」脚注6参照)において、市場の持つ最も重要な機能は、アダム・スミスが考えたような道徳的なものではなく、分散された情報を集約し、経済全体に効率的に伝達する「計算」の能力にある、と主張しました。個々の生産者や消費者が持つ、刻々と変化する需要や供給、技術、資源の状況に関する膨大な知識は、中央の計画当局には決して集約できません。しかし、市場の価格システムは、これらの分散された知識を「価格」というシグナルに変換し、経済全体に伝達することで、各アクターが自律的に効率的な意思決定を行えるようにする、とハイエクは論じました。巨大な官僚機構やコンピュータでも、市場のこの情報処理能力には遠く及ばない、と。

このハイエクの議論は、計画経済の根本的な困難さを浮き彫りにしました。厳密に言えば、計画経済下でも「理論上」は価格を計算することは可能である、とランゲらが反論し、論争には「勝利」しました。しかし、それはピュロスの勝利脚注7参照)でした。価格を計算するための条件があまりにも煩雑で、現実の経済の複雑さには到底対応できないことが明らかになったからです。対照的に、市場は情報の洪水を効率的に処理し、経済活動を組織化する上で圧倒的な優位性を持っていました。

この結果、決定的な変化が起こります。事実上全ての社会主義者が、中央計画への取り組みを放棄し、価格決定メカニズムとして競争市場を維持する社会主義計画、すなわち「市場社会主義」へと支持を移したのです。現代において「社会主義者」を名乗る多くの人々も、具体的な経済システムを問われれば、結局はこの「市場社会主義」という、なんとも歯切れの悪い、あるいは生ぬるい代替案しか提示できません。

問題は、この「市場社会主義」が、伝統的にマルクス主義者が資本主義について嫌っていた機能のほとんどを保持していることです。(利益重視の企業、失業、汚染、不況、資本提供者への支払い、商品化、疎外など)。結局のところ、社会主義者が経済の青写真を真剣に考え始めると、それは常に「滑りやすい坂道」となり、革命的打倒という壮大な目標は、コーポレートガバナンス改革のような、なんとも地味で生ぬるい提案へと縮小されてしまうのです。「ル・ジュ・ナン・ヴォー・パ・ラ・シャンデル」(蝋燭を立てる価値もないほど、得られるものが少ない)というフランス語の皮肉な言い回しが、市場社会主義論者の空虚な努力をよく表している、と筆者は冷たく突き放します。

現実には、多くの学者は、この種の「社会主義の青写真」について真剣に考えること自体を避けています。なぜなら、その結果が往々にして憂鬱なものになることを知っているからです。学術的マルクス主義は、その経済的基盤においても、市場という冷たい計算機の前に敗北し、現実的な代替案を提示する力を失ったのです。それは、理論的な「計算された敗北」でした。

コラム:理論と現実の距離

頭の中で描く理論は、いくらでも完璧にできます。全ての情報を集めて、最適な計画を立てて、無駄なく資源を配分する。素晴らしい! しかし、現実世界はそう単純ではありません。情報は常に不完全で、分散していて、刻々と変化する。人間の行動は合理的とは限らない。そんな混沌とした世界で、どうやって経済を動かすのか。市場というメカニズムは、その不完全な情報の中でも、なんとか経済を回していく「泥臭い」知恵の結晶だったのかもしれません。完璧な理論よりも、不完全でも機能する現実。学問というのは、この理論と現実の間の、埋められないかもしれない距離を問い続ける作業なのかもしれません。そして、マルクス主義は、この距離を見誤った、ということでしょう。


第6章 神学なき宗教:現代マルクス主義者の虚無

さて、学術的マルクス主義が、規範的な側面ではリベラル平等主義に吸収され、理論的な土台では近代経済学や社会科学によって掘り崩されていった結果、現代の学術界において、「マルクス主義者」と胸を張って名乗る研究者は、驚くほど少なくなりました。筆者は、この現状を「学術的マルクス主義の衰退は、社会科学理論としての地位から始まり、その後に明確な規範的批判としての地位も失った」と総括しています。

もちろん、完全にゼロになったわけではありません。論文の筆者も「少し誇張です」と認めています。「左リバタリアン」のように、自己所有権の主張にしがみつきつつ、リバタリアニズムの反平等主義的な結論を避けようとする、かつての分析的マルクス主義の「尻尾」のような存在もいます。最近の小さなトレンドとしては、「ネオ・リパブリカン」を名乗り、ロールズ的な平等主義ではなく、フィリップ・ペティットの「非支配」という規範(これも筆者から見れば「リベラリズムの別のフレーバー」ですが)に依拠してマルクス主義を再構築しようとする動きもあります。しかし、これらは主流ではなく、学術界全体から見れば傍流にすぎません。

筆者は、現代の「マルクス主義者」を名乗る人々の公共的な議論における「根本的な不真面目さ」を厳しく批判します。彼らは、かつての学術的マルクス主義が真剣に格闘した、理論的な困難さや現実的な代替案の提示といった課題に、正面から向き合おうとしません。批判研究部門で見られるような、グラムシアンや「文化主義マルクス主義」も、筆者から見れば、それは「神学なき宗教」のようなものです。かつては「科学的社会主義」として、明確な理論的根拠と未来への展望(神学)を持っていたものが、その核となる理論を失い、単なる批判の「型」や「言葉遣い」だけが残ってしまった。まるで、教義を失った宗教が、形式や儀式だけを保っているかのように。

あるいは、挑発的な言葉遣いだけで中身のない議論を繰り返す、特定のメディア(例えばJacobin誌脚注8)に見られるようなスタイルは、「私はマルクス主義者のように話すつもりです。たとえどれも意味がありませんが、私を止めることはできません!」と宣言しているかのようだと筆者は揶揄します。真面目な理論的探求の努力を放棄し、単なるレトリックやポーズに終始している。それが、筆者が現代のマルクス主義者を「公共的な議論における不真面目さ」と断じる所以です。そして、毛沢東の言葉を借りれば、彼らは「ペーパータイガー」である、と。紙でできた虎は、見た目は勇ましいが、実質的な力は持たない。確固たる理論的基盤も、現実的な代替案を提示する計画も持たないまま、単なる言葉の力だけで吠えているだけだ、と。

かつて、マルクス主義は学術の世界で真剣に議論され、多くの優秀な頭脳を惹きつけ、その理論的困難に真摯に取り組んだ時代がありました。しかし、その試みは失敗に終わり、その担い手たちはリベラル平等主義という別の道を選びました。残ったのは、理論的な基盤を失い、単なる言葉や姿勢だけをまとった「虚無」のようなマルクス主義です。それは、学術という舞台からは、ほとんど姿を消してしまったのです。なんとも寂しく、そして皮肉な結末ではありませんか。

コラム:言葉の力と虚しさ

強い言葉というのは、人を惹きつけます。「打倒!」「革命!」「搾取!」「矛盾!」――これらの言葉には、現実を変えようとする強い意志が宿っているように聞こえます。しかし、その言葉の背後に、現実を説明し、未来を構想するためのしっかりした理論がなければ、それは単なる空虚なエコーになってしまいます。学問の世界では、言葉の力だけでは通用しません。言葉を支える論理と、現実に対する観察と分析が必要です。現代において「マルクス主義」という言葉が、かつてのような学術的な重みを持たなくなったのは、その言葉が理論的な実質を失ったからなのでしょう。言葉だけが踊り、中身がない。現代の虚無を象徴しているかのようです。


第三部 補足資料:残滓と遺産、そして未来の幻影

補足1:思想の残響、ネットの木霊

学術的な議論が、いかに冷徹に進んでいくか。そして、かつての熱狂が、いかに静かに終焉を迎えるか。この論文は、その冷たい現実を私たちに突きつけました。しかし、思想というものは、アカデミアの象牙の塔の中だけで完結するものではありません。その残響は、形を変えて様々な場所に響き渡り、人々の意識や言論空間に影響を与え続けます。ここでは、この論文を読んだ様々な立場の「声」を拾い上げ、その木霊がどのように返ってくるのかを見てみましょう。

ずんだもんの感想(意訳)

なのだ。この論文、なんかマルクスさんの理論が、だめになっちゃった、って話なのだ。昔はすごかったらしいけど、ロールズさんとかいう別の偉い人の理論が出てきたら、みんなそっちに行っちゃったらしいのだ。

マルクスさん、『資本論』とか難しい本書いて、資本主義はもうすぐ崩壊するんだ!って言ってたけど、ケインズさんとかハイエクさんとかに、うーん、それは違うんじゃない?って言われちゃったみたいなのだ。労働者も予測してたほど貧乏にならなかったし、計画経済も難しかったらしいのだ。

あと、搾取はいけない!って言ってたのに、なんでいけないの?って聞かれたら、うまく答えられなかったみたいで、ノージックさんとかに突っ込まれて、結局平等の方が大事だよね、ってなったらしいのだ。それでリベラル平等主義っていうのが流行ったのだ。

今のマルクス主義の学者さんは、なんか中身がなくなって、宗教みたいになっちゃった、って言ってるのだ。真面目にマルクスさんの理論を勉強するより、別の理論で考えた方が、世の中のこと分かりやすい、ってことらしいのだ。

うーん、なんだか寂しいような、でも新しい考え方が出てくるのはすごいことなのだ。ずんだもんも、難しい理論じゃなくて、分かりやすい考え方で世の中を見ていきたいのだ。

ビジネス用語多用ホリエモン風の感想(意訳)

いや、この論文、すげえ面白いね。要はさ、マルクス主義っていう古いビジネスモデルが、市場の変化と技術革新(ここではロールズとかケインズの理論ね)に対応できなくて、完全にコモディティ化したって話だよ。

分析的マルクス主義? あれも結局、古いシステムを解析して最適化しようとしたけど、根本的なパラダイムシフト(リベラル平等主義)には勝てなかったわけ。ノージックとかいう奴の指摘も、まさにクリティカルなフィードバックだよね。搾取とか古いKPIにこだわってたけど、ユーザー(学者)が求めてたのは「平等」という価値だったと。

労働価値説? ありえないでしょ、今のビジネスで価格は需要と供給で決まるなんて常識中の常識。危機説? マクロ経済学でちゃんと調整できるようになったんだよ。計画経済? ビッグデータもない時代に、あんな非効率なオペレーションで勝てるわけないじゃん。

結局、マルクス主義はイノベーションを起こせなかった。ライバル(リベラル平等主義)の方が、よりユーザーフレンドリーでスケーラブルなフレームワークを提供したわけだ。だから、優秀な人材(学者)はみんなそっちに流れる。当たり前だろ。

今の「マルクス主義者」って言ってる奴ら? 全然ダメ。プロダクトアウトで、ユーザーの声を聞いてない。神学とか言ってる時点で論外。真面目にやるなら、既存のリソース(税金)を使って、資本主義システムを最適化する方向(リベラル平等主義的な再分配とかコーポレートガバナンス改革)で考えた方が、圧倒的にROIが高いんだよ。

結論? 古いOSにこだわっても仕方ない。新しいOS(ロールズ)を使いこなして、より良い社会ってサービスを開発しようぜ、って話。単純明快。

西村ひろゆき風の感想(意訳)

えー、なんか、マルクス主義とかいうのが、昔はすごかったけど、今はもうダメになった、みたいな話なんすか? ふーん。

結局、マルクスさんが言ってたことって、現実と違ったってことっしょ? 労働者がどんどん貧乏になって革命が起きる、とか言ってたらしいですけど、普通に給料上がったし、革命とか起きなかったじゃないですか。

あと、計画経済にすれば全部うまくいく、みたいなこと言ってたらしいけど、モノの値段とか、どうやって決めんの?ってハイエクさん?が聞いたら、答えられなかったと。そりゃ無理ゲーっしょ。市場の方が勝つに決まってるじゃないですか。論破っすね。

で、搾取はいけない、とか言ってたけど、なんでいけないの?って聞かれても、なんかふわっとしたことしか言えなかったと。んで、ノージックさん?が、才能ある人が稼ぐのは別にいいじゃん、って言ったら、もうぐうの音も出なかったと。結局、平等にした方が良くね?って話になって、リベラル平等主義?になったと。

今の「マルクス主義者」って人たちも、なんか、昔の教義を唱えてるだけで、具体的な解決策とかないんでしょ? それって、宗教と変わんないっすよね。意味ないと思いまーす。

なんか、昔の難しい理論にこだわってる人って、結局、新しいこと考えられないだけなんじゃないですかね? 別にマルクスさんの本読まなくても、今の世の中見て、どうしたら皆がそこそこ幸せになれるか、考えればいいだけっしょ。論破されるような理論にしがみついても、しょうがないと思いまーす。

補足2:学術史年表――理論の興亡

学術的マルクス主義の興亡に関わる主要な出来事を、冷徹に時系列で追ってみましょう。

時期 出来事/人物 関連する思想的論点
19世紀半ば カール・マルクス、フレドリヒ・エンゲルス活動 史的唯物論、労働価値理論、剰余価値論、資本主義危機論
19世紀末〜20世紀初頭 アルフレッド・マーシャル、新古典派経済学大成 労働価値理論の相対化、需要と供給による価格決定論
同時期 社会主義計算論争の萌芽 (ミーゼスら) 計画経済における経済計算の困難さ
同時期 ソースティン・ヴェブレン、「有閑階級の理論」刊行 希少性後社会論への批判、顕示的消費の概念
20世紀前半 ジークムント・フロイト活動 精神分析学、人間の根源的欲望・攻撃性に関する視点
同時期 ジョン・メイナード・ケインズ、「雇用・利子および貨幣の一般理論」刊行 有効需要理論、政府による景気調整の可能性、危機説の相対化
第二次世界大戦後〜1960年代 フランクフルト学派などの新マルクス主義、現代社会批判を展開 文化産業論、批判理論(マルクスとフロイトの融合など)
同時期 フレデリック・ハイエク、社会主義計算論争で市場の優位性を強調 分散された知識と価格システム
同時期 史的唯物論の限界が顕在化(ナショナリズム、軍事技術など) マックス・ヴェーバー、マイケル・マンらの研究
1970年代 英米における学術的マルクス主義の「強力な復活」 分析的マルクス主義の台頭(コーエン、レーマー、ファン・パリスら)
同時期 ジョン・ロールズ、「正義論」刊行 リベラル平等主義の古典、規範的政治哲学の新たな枠組み
同時期 資本主義の経済的変化(スタグフレーション)、労働者の絶対的貧困化が進まず マルクス主義の危機説、革命論の根拠揺らぐ
同時期 分析的マルクス主義、規範的批判の基礎として搾取概念を分析 「でたらめ」の排除、規範的転回
1980年代 ロバート・ノージック、「アナーキー、国家、そしてユートピア」刊行 リバタリアンからの強力な批判、ウィルト・チェンバレン議論
同時期 分析的マルクス主義者、搾取論の理論的困難を認識、平等主義へ傾倒 G.A.コーエンらの思想的遍歴
1990年代以降 ソ連崩壊(1991年) 「科学的社会主義」の正当性失墜(学術的衰退とは別に、現実政治の影響)
同時期 リベラル平等主義が規範的政治哲学の主流に ロールズ理論の普及と影響
同時期 学術界におけるマルクス主義者、特に経済学・規範哲学分野で減少 「神学なき宗教」、「ペーパータイガー」化の進行
2000年代以降 グローバル金融危機、格差拡大などの問題顕在化 マルクス思想の再評価の動き(ピケティなど)、ただし古典的枠組みからの距離

補足3:異世界転生? デュエマで見る思想バトル

思想のバトルを、トレーディングカードゲーム「デュエル・マスターズ」風に表現してみましょう。かつて学術界を席巻したマルクス主義と、それを打ち破り、新たな世界を構築したリベラル平等主義。そして、その中で生まれた様々な概念たちが、クリーチャーや呪文となって激突します。

カード名: 史的唯物論の黄昏 (Shiteki Yuibutsuron no Tasogare)

  • コスト: 5
  • 文明: 闇文明
  • 種類: クリーチャー
  • 種族: イデオロギー・クラシック
  • パワー: 3000
  • 能力:
    • 絶望の予言:このクリーチャーがバトルゾーンに出た時、相手のクリーチャーをパワーの合計が自分のクリーチャーのパワーの合計以下になるように選び、破壊する。(選んだクリーチャーのパワーの合計は、自分のクリーチャーより小さくなくてはならない。)
    • 歴史の読み違い:このクリーチャーが攻撃する時、相手はコスト3以下のクリーチャーを好きな数、自身の手札からバトルゾーンに出してもよい。
  • 解説: かつて強大な力を持つと信じられた歴史の法則。しかし、その予測は外れ、小さな抵抗(コスト3以下のクリーチャー=ナショナリズム、軍事技術、あるいは市場経済の予期せぬ力)によって容易に足止めされるようになった、学術的マルクス主義の象徴。

カード名: 正義論の光臨 (Seigiron no Kourin)

  • コスト: 7
  • 文明: 光文明
  • 種類: クリーチャー
  • 種族: リベラル・マスター
  • パワー: 6000
  • 能力:
    • 無知のベール:このクリーチャーがバトルゾーンに出た時、プレイヤーは自身のマナゾーンにあるカードの枚数以外の情報を公開してはならない。次の自分のターンのはじめまで、各プレイヤーは自身のクリーチャーと手札の情報を相手に見せることなくプレイする。
    • 公正な分配:このクリーチャーが攻撃する時、自分の山札の上から2枚を見て、そのうちの1枚を手札に加え、残りを山札の下に置く。その後、相手も自身の山札の上から2枚を見て、同様の処理を行う。(これは平等な機会を表す)
    • ブロッカー
    • W・ブレイカー
  • 解説: 冷戦後の思想世界に現れ、混迷する学術的マルクス主義者たちに新たな規範を示した理論の具現化。公正さと平等を重んじるが、時に現実の複雑さ(無知のベールの限界)を覆い隠す。圧倒的な防御力と安定したアドバンテージをもたらす。

カード名: 搾取概念の黄昏 (Sakushu Gainen no Tasogare)

  • コスト: 2
  • 文明: 闇文明
  • 種類: 呪文
  • 能力:
    • バトルゾーンにあるクリーチャーを1体選ぶ。そのクリーチャーのパワーを-2000する。(パワー0以下のクリーチャーは破壊される)
    • 詠唱後、この呪文を自分の墓地に置く代わりに、バトルゾーンにパワー2000以下の無色クリーチャー《ノージックの異論》を1体出す。
  • 解説: かつて資本主義批判の核であった概念。しかし、理論的な脆弱性(低コストのパワーマイナス)が露呈し、強力な異論(ノージックの出現)を生み出すことで、その力を失っていく過程を象徴する。

カード名: 市場メカニズムの勝利 (Shijou Mechanism no Shouri)

  • コスト: 4
  • 文明: 火文明
  • 種類: 呪文
  • 能力:
    • 自分の手札を全てマナゾーンに置き、その後、相手のバトルゾーンにあるパワー3000以下のクリーチャーを全て破壊する。
    • ダイナミズムの代償:この呪文を唱えた後、次の自分のターンのはじめまで、自分はクリーチャーを手札からバトルゾーンに出すことができない。
  • 解説: 社会主義計算論争において市場の優位性を示した力。一見、手札を全て失うという大きな犠牲(非効率性や調整コスト)を伴うが、相手の貧弱な計画経済(低パワーのクリーチャー)を一掃する力を持つ。ただし、その後の停滞(クリーチャー召喚不可)という代償も伴う。

補足4:一人きりの劇場:ノリツッコミ思想史

学術的な議論も、一人芝居だと思えば気が楽になる? 関西弁で、思想史にツッコミを入れてみましょうか。

いやー、昔は政治哲学の賢い人って言ったらみんなマルクス主義者やったんやってさ!熱かったんやろなぁ、理論で世界変えたるで!とかって…
…って、あれ? 結局みんなリベラルになってもうたん?! しかも「正義論」読んだら「あ、こっちの方が話早いわ」とか言うて寝返ったらしいやん! マルクスはん、顔真っ赤っかやで!

マルクスはんの危機説? ケインズはん(経済学のお偉いさん)に「不況は需要不足でっせ、調整できますがな」て言われて論破されたんか? 労働価値説? 「モノの値段は作る労力や!」って言うてたのに、消費者が欲しがらんと値ぇつかんやん! 需要と供給の前には無力やんか!

史的唯物論? 「歴史は経済で動いてまんねん!」って言うてたのに、いきなりナショナリズムとか軍事技術とかいう、感情と暴力の化けモンが出てきて、全然説明できへんかったて? 歴史はそんな単純ちゃうぞ! 皮肉やなぁ!

希少性後社会? 「いっぱいモノ作ったら、皆満足して争わへんようになるわ!」て言うてたけど、ヴェブレンはん(見栄っ張り研究家)に「人間は見栄でモノ買うねん! いくらあっても満足せんわ!」て笑われたんか? フロイトはん(変な夢の話聞く先生)にも「人間の心はそんなキレイ事ちゃうで」て言われたんやろ? 人間の性を見誤ったらあかんわ!

計画経済? 「国が全部仕切ったろ!」て言うてたのに、ハイエクはん(市場の代弁者)に「モノの値段、全部計算できんのか? 市場に任せた方が賢いぞ!」て計算で負けたんか? 結局「市場社会主義」とかいう、どっちつかずの生ぬるいもんしかできひんかったて? なんでやねん! 革命どこ行ったん?!

もうボロボロやん! 「でたらめ」を取り除いたらリベラルしか残らんかったて… それって「でたらめ」ちゃうくて「中身」がなかったってこととちゃうんか?!

おいおい、今のマルクス主義者いうてる連中、「神学なき宗教」とか「ペーパータイガー」とか言われてるらしいで! なんか口だけ達者やけど、中身は薄い、紙の虎やて! 情けない話やなぁ!

…でもな、いくら理論が厳密でも、なんか世の中変えよう!みたいな「アツさ」は、マルクス主義の方があった気もするねん。リベラル平等主義? うん、立派な理論やけどな、なんかお堅いというか、地味というか…
…って、あ! 結局、退屈でも厳密な方が学術としては正しい、てことなんや! いや待て待て、でもそれでほんまに社会は変わるんか?!

…はい、今日の思想史漫談はここまで! 結局、皆でロールズはんの本、読んで考え直そうぜ! て話でした! さいなら!

補足5:知の宴:大喜利篇

学問の世界にも、ユーモアは必要です。この重苦しい思想史を、少しだけ笑いのネタにしてみましょう。

お題:「学術的マルクス主義」が衰退して、代わりに流行った「リベラル平等主義」に、マルクス本人が一言!

  • 「ワシが『でたらめだ』と言ったのは、お前たちの理論のことじゃないんじゃ…」
  • 「『資本論』より『正義論』の方が売れるのか? くっ…印税で勝負だ!」
  • 「搾取よりも不平等を気にするだと? 全ては資本家の搾取から始まるんだ! まだワシの書物を読んでいないのか! (ブックオフで100円棚を見ながら)」
  • 「計算論争? AI使えば計画経済できるだろ! いや待て、それも結局、資本家がデータ握るだけか…ううむ。」
  • 「息子たちよ、なぜプロレタリアートを解放せず、株主に配慮する銀行家を利する側に回るのだ…」
  • 「よし、タイムマシンで今すぐ現代に行って、あの『正義論』とやらを焚書だ! え、民主主義だからダメ? くそっ。」
  • 「私をリベラルと言うな! 私をリベラルと言うな! (血涙)」

お題:学術的マルクス主義者の墓に刻む、最期の一文とは?

  • 「我、理論ヲ追ウテ リベラルニ至ル」
  • 「搾取ハ不当…ダッタハズ」
  • 「剰余価値? フ... フロギストンカ」
  • 「計画ハ理論上可能デシタ…理論上ハ」
  • 「彼ハ『正義論』ノ次ニ眠ル」

お題:市場社会主義を3文字で言うと?

  • ナマヌル
  • ナカヨシ
  • メンドイ

補足6:匿名たちの叫び、学者様の反論

この手の議論は、往々にして匿名掲示板やSNSで思わぬ反応を呼びます。そして、学術的な議論とはかけ離れた、感情的な罵詈雑言に満ちたコメントが飛び交うこともしばしば。しかし、そこにもまた、現代社会の歪みや、人々が抱える不満の一端が見て取れます。ここでは、予測されるいくつかの匿名コメントを、そしてそれに対する冷たい反論を試みましょう。

なんJ民風コメント:
「はえ〜 マルクスとかいうジジイの理論ってもうオワコンなんやな やっぱり資本主義最強! 労働者は搾取されて当たり前なんだ! 文句あるなら起業しろやw あと共産主義は餓死するからアカンわ ロールズとかいう知らん奴の本読めばええんか? めんどくせえからパヨクは黙ってろや」

学者様の反論:
論文は「資本主義最強」という価値判断を下しているわけではありません。また、歴史上の飢餓は理論の直接的帰結ではなく、政治体制や政策の失敗によるものです。ロールズの理論は公正な社会設計に関する複雑な議論であり、単に「めんどくせえ」と切り捨てるのは思考停止です。「パヨク」といった用語はレッテル貼りであり、議論の体をなしていません。学術は感情論ではなく、論理と根拠で進みます。

ケンモメン風コメント:
「知ってた。マルクスとかもう何十年も前に終わってんだろ。あいつら結局、金持ちから搾取されたくないだけで、自分が金持ちになったら搾取する側になるんだろ。今の『リベラル平等主義』とかいうのも、結局は既存のシステム温存したいだけのごまかしだろ。本物の革命は起きねえよ。俺たちは何も持たざる者だから、傍観するしかないんだわ。」

学者様の反論:
論文は理論的な破綻を指摘しており、人間の利己性やシステム温存論といったシニカルな推測を根拠としているわけではありません。リベラル平等主義は既存システムの改善を目指す規範であり、完全に温存するものではありません。「傍観するしかない」という態度は、社会問題に対するいかなる解決の試みも否定するニヒリズムであり、生産的ではありません。学問は傍観するだけでなく、分析し、提案します。

ツイフェミ風コメント:
「結局マルクス主義も男社会の理論だったってことね。史的唯物論がナショナリズムを見落とした?当たり前じゃん、男たちが戦争で国取り合ってる間に女は家で子育てしてたんだから。経済的搾取だけが問題じゃない。ジェンダーによる支配や抑圧こそが根本的な問題なのに、そこには目もくれない。ロールズも結局『無知のベール』の下にジェンダーは含まれないとか言われてたじゃん。学者の男どもが自分たちの都合のいい理論で遊んでるだけでしょ。」

学者様の反論:
マルクスの理論がジェンダーや人種といった側面への配慮を欠いていたという批判は、現代の学術界で広く共有されています。これはマルクス理論の不十分さの一つであり、論文の議論を補強する視点とも言えます。ロールズ理論も初期段階で批判を受け、その後のリベラリズムはこれらの批判を取り込もうと試みています。学問は「男どもの遊び」ではなく、現実の複雑な支配構造を解明するための試みであり、フェミニズムや批判的人種理論といった新たな視点によって常に更新されています。

爆サイ民風コメント:
「マルクスだかロールズだか知らんが、学者なんて机上の空論ばっかだろ。どうせ左翼の連中が、働かずに金もらう方法考えてるだけだろ。昔は共産党がヤバかったけど、今は立憲だのれいわだの、名前変えて同じことやってるだけだろ? 格差? 努力しない奴が悪いんだよ。俺たちは汗水垂らして働いてんだ! 学者は税金泥棒だ!」

学者様の反論:
学術的な研究は、特定の政党の活動とは直接関係ありません。社会の現状分析やあるべき姿の理論的探求は、「働かずに金をもらう方法」を考えることとは異なります。格差問題には様々な要因があり、「努力しない奴が悪い」という単線的な見方は現実を単純化しすぎています。学者は社会に貢献するために教育・研究活動を行っており、「税金泥棒」という批判は不当です。感情的な罵詈雑言は議論を深めません。

Reddit/HackerNews風コメント:
「Interesting read, touches upon the shift from historical materialism to normative liberalism. The points on LTV being superseded by marginalism and the crisis theory by Keynesian insights are well-articulated. However, the author's dismissal of modern Marxists as 'paper tigers' and 'religion without theology' seems overly harsh. Aren't many contemporary critiques of neoliberalism drawing from Marxist traditions, albeit in revised forms? Also, the discussion on the calculation problem and market socialism could benefit from considering modern distributed systems and information economics perspectives. What about the agency of capital itself in creating crises, beyond mere monetary adjustments? Good historical overview, but perhaps too quick to declare Marxism entirely obsolete in academic discourse beyond its 'rhetorical gesture' aspect.」

学者様の反論:
(このコメントは建設的であるため、より丁寧に対応します) ご指摘の通り、論文は古典的なマルクス理論の破綻に焦点を当てており、現代の批判がマルクスの問題意識や概念をアップデートして利用している側面については十分に触れていません。現代の情報経済や分散システムが、社会主義計算論争や市場社会主義の議論に新たな光を当てる可能性も否定できません。資本自体の能動的な運動や金融化が引き起こす危機は、ケインズ的な調整だけでは捉えきれない側面があるという指摘も重要です。論文は学術の主流におけるマルクス主義の衰退を論じていますが、他の分野や新たな問題意識の中で、その遺産が生き続けている可能性は十分にあり得ます。論文は特定の側面に焦点を絞った論評であり、学術地図の全てを描いているわけではありません。

目黒孝二風書評コメント:
「マルクスの墓場、その静かなる解剖――。本書は、冷戦の凍てつく空の下、一度は学術の最前線で熱を帯びたマルクス主義という屍が、いかにして理論という名のメスで解剖され、その内臓たる労働価値説、危機論、史的唯物論が、市場の神の見えざる手やケインズの精密な計算、あるいはリベラルという新たな遺伝子の前に、無力な塵芥と化したかを、冷徹かつ克明に描き出す。G.A.コーエン、ジョン・レーマー、そして『正義論』のジョン・ロールズといった、かつてマルクスの衣をまとった、あるいはその衣を剥ぎ取った者たちの学術的な格闘が、まるで薄暗い研究室での手術のように展開される様は、読者に乾いた笑いと、ある種の諦念をもたらすだろう。しかし、この徹底した解体作業にもかかわらず、本書は問うことを忘れない。『でたらめ』を取り除いた後に、本当に何も残らないのか? そして、リベラルという新たな皮を被った我々は、かつてマルクスが指差した資本主義の深淵なる矛盾から目を背けていないか? 学術という牙を抜かれた現代のマルクス主義が『ペーパータイガー』と嘲笑される時、その吼え声にかつての革命の残響を聞き取れるか否か、それは読む者自身の『でたらめ』を見抜く力にかかっている。」

学者様の反論:
(これは批判というより論評なので、補足する形で応じます) 書評は、論文の冷徹な分析と皮肉なトーンを見事に捉えています。そして、学術的には衰退したとされるマルクス主義の遺産や、それが提起した問題意識が現代社会においていかに重要であり続けるか、という点を鋭く突いています。論文が理論的な終焉を描いているとしても、マルクスが問題とした資本主義の矛盾や不平等といったテーマは、学術界の外や、形を変えた他の理論の中で、今なお生き続けている可能性は十分にあります。学術的な「ペーパータイガー」の吼え声にも、社会的な現実に対する批判の叫びが、微かに響いているのかもしれません。それは読む者自身が、その言葉の裏にある現実をいかに見抜くか、にかかっているというのは、まさにその通りでしょう。

補足7:未来の探求者へ:クイズとレポート課題

この論文の内容を理解できたか、簡単なクイズで試してみましょう。そして、さらに深く学びたい未来の探求者(主に大学生を想定しています)のために、レポート課題も提示します。

高校生向け4択クイズ

問題1:この論文で、冷戦末期の英語圏で盛り上がった学術的な思想は次のうちどれ?
A. 古典的自由主義
B. 学術的マルクス主義
C. ファシズム
D. アナーキズム
正解:B

問題2:学術的マルクス主義の中心的な担い手たちが、最終的に多く転向したとされる思想は次のうちどれ?
A. ニーチェ哲学
B. 実存主義
C. リベラル平等主義
D. ポストモダン哲学
正解:C

問題3:論文で、ジョン・ロールズの『正義論』が学術的マルクス主義に大きな影響を与えた理由として述べられていることは?
A. ロールズがマルクス主義を徹底的に批判したから
B. ロールズがマルクス主義を擁護したから
C. ロールズの理論が、マルクス主義者が求めていた規範的な社会批判のより良い枠組みを提供したから
D. ロールズの理論が、マルクス主義経済学の正しさを証明したから
正解:C

問題4:論文で、マルクス主義の経済理論の問題点として挙げられているのは次のうちどれ?
A. 需要と供給を無視した労働価値理論
B. 景気循環を説明できなかった危機説
C. 社会主義計画経済における価格計算の困難さ
D. 上記すべて
正解:D

問題5:論文で、マルクスの史的唯物論の不十分さを示す例として挙げられている、20世紀に重要性を増した社会現象は次のうちどれ?
A. 世界経済の統合
B. ナショナリズムや軍事技術
C. 環境問題
D. 技術革新の停滞
正解:B

大学生向けレポート課題

課題1:
本論文は、学術的マルクス主義の衰退が、主にその理論的欠陥と、リベラル平等主義というより優れた規範的枠組みの登場によるものであると主張しています。しかし、冷戦終結という政治的要因も無関係ではないと考えられます。この論文の議論を踏まえつつ、学術的マルクス主義の衰退において、理論的要因と政治的要因はそれぞれどの程度重要であったか、あなたの考えを論じなさい。その際、論文中で意図的に「脇に置かれている」政治的要因(ソ連崩壊など)が、学術研究の環境(研究資金、ポスト、学者のキャリアパスなど)に与えた影響についても考察しなさい。

課題2:
本論文は、現代の「マルクス主義者」を名乗る人々を「神学なき宗教」や「ペーパータイガー」と批判的に論じています。しかし、近年の世界的な格差拡大や金融資本主義の歪みに対し、マルクスが提起した問題意識(資本の蓄積、矛盾、疎外など)が再び注目を集めている側面もあります。本論文の批判的視点を踏まえつつ、現代社会において、マルクス思想はどのような形で(古典的な枠組みに囚われず)有効な批判ツールとなりうるか、具体的な社会問題(例:プラットフォーム資本主義、環境危機、グローバル・サウスの貧困など)に触れながら考察しなさい。

課題3:
本論文が描く、学術的マルクス主義からリベラル平等主義への思想的移行を読み解く上で、登場人物紹介で挙げられている個々の学者の著作や思想的遍歴をさらに深く調査することは有益です。G.A.コーエン、ジョン・レーマー、フィリップ・ファン・パリス、ジョン・エルスターといった分析的マルクス主義者たちの代表的な著作を1冊以上読み、彼らがマルクス理論のどの部分を擁護・修正しようとし、最終的にどのような理由でリベラルな立場へと接近していったのかを詳細に論じなさい。また、ジョン・ロールズの『正義論』が彼らに与えた具体的な影響についても言及しなさい。

補足8:記事を広めるために:タイトル案とSNS戦略

この冷徹な学術論評も、多くの人に読んでもらわなければ意味がありません。潜在的な読者層に響くような、いくつかの仕掛けを考えてみましょう。

キャッチーなタイトル案(再掲)

このニヒルな記事に相応しい、目を引くタイトル案です。

  1. 学術的マルクス主義はなぜ死んだのか? ロールズが放った止めの一撃
  2. 天才たちがマルクス主義を捨てた日:冷戦終結前夜の思想バトル
  3. 「でたらめ」を取り除いたら何も残らなかった? 学術的マルクス主義盛衰記
  4. マルクスvsロールズ:政治哲学の覇権争い、静かなる結末
  5. 労働価値説、危機論、史的唯物論…なぜマルクスの核は崩壊したか
  6. 現代社会の「リベラル」はこうして生まれた:元マルクス主義者たちの思想変革
  7. ポスト・マルクス時代を読み解く:学術の最前線で何が起きたか
  8. さようなら、ペーパータイガー:学術的マルクス主義の墓標

SNS共有用ハッシュタグ案(再掲)

記事を拡散するための有効なハッシュタグ候補です。

#マルクス主義 #リベラル #ロールズ #政治哲学 #経済思想史 #学術史 #分析的マルクス主義 #思想史 #資本論 #正義論 #Academia #Marxism #Liberalism #Rawls #Philosophy #Economics

SNS共有用120字以内文章(再掲)

ツイッターなどで共有する際に使いやすい、コンパクトな文章です。

学術的マルクス主義はなぜ衰退し、リベラル平等主義に取って代わられたのか?冷戦末期の思想史を描く。 #マルクス主義 #リベラル #ロールズ #政治哲学 #思想史

ブックマーク用タグ(NDC参考)(再掲)

ブックマークやタグ付けサービスで使いやすい、簡潔なタグリストです。NDC(日本十進分類表)の区分も参考にしています。

[マルクス主義衰退][リベラル平等主義][ロールズ][政治哲学][思想史][学術史][現代西洋哲学]

記事にピッタリの絵文字(再掲)

SNSなどで記事の雰囲気を伝えるのに役立つ絵文字です。

📚 (本、学術) 📉 (衰退、下落) ➡️ (移行、転向) ⚖️ (正義、平等、ロールズ) 🤯 (思考、理論、問題提起) 💡 (新たな視点、解決策) 👻 (過去の亡霊、ペーパータイガー)

記事にふさわしいカスタムパーマリンク案(再掲)

ウェブサイトで記事を公開する際のURLとして使いやすい、英語とハイフンのみのシンプルな候補です。

  • academic-marxism-decline
  • end-of-academic-marxism
  • marxism-to-rawlsianism
  • why-marxism-declined
  • fall-of-marxist-theory
  • from-marx-to-rawls
  • analysis-marxism-end

記事の内容が単行本ならば日本十進分類表(NDC)区分のどれに値するか(再掲)

図書館などで分類される場合の、最も適切なNDC区分です。思想史、政治哲学、経済思想史に跨る内容を考慮します。

159 (現代西洋哲学) または 318 (政治思想) または 331.09 (経済史・事情 - 思想史)

テキストベースでの簡易な図示イメージ

記事の構造や流れをテキストでシンプルに図示するイメージです。

[冷戦末期の学術界]
|
+---> [学術的マルクス主義の熱狂]
| 分析的マルクス主義など
|
+---> [規範的批判の試み (搾取論)]
| | ↕ ノージック批判
| +---> [理論的困難]
| |
| V
+---> [リベラル平等主義への転向] <--- ジョン・ロールズの影響
|
+---> [理論的土台の崩壊]
| 労働価値説 → 新古典派に敗北
| 危機説 → ケインズに敗北
| 史的唯物論 → ナショナリズム/軍事に盲点
| 希少性後社会論 → ヴェブレン/フロイトに批判
| 社会主義計算論争 → 市場に敗北
V
[学術的地位の低下]
|
V
[現代のマルクス主義者] → 「神学なき宗教」「ペーパータイガー」化
|
V
[学術の中心から外れる]


[対抗馬] ---> [リベラル平等主義の台頭]
| ロールズ理論が新たな規範的枠組みに

第四部 巻末資料:墓碑銘と案内板

歴史的位置づけ

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このレポート(ブログ記事形式ですが、内容は学術論評)は、冷戦終結後の思想史、特に欧米の政治哲学と経済思想史における、マルクス主義の学術的な地位の低下と、それに代わるリベラル平等主義の台頭という特定のトレンドを、内部の証言者(元当事者またはその時代を直接知る者)の視点から描いたものとして位置づけられます。

歴史的位置づけとしては、以下の点が挙げられます。

  1. 冷戦終結後の思想状況の記録:冷戦末期から終結にかけて、社会主義リアルの崩壊は、マルクス主義の「科学的社会主義」としての正当性に大きな打撃を与えました。この論文は、その政治的背景とは別に(意図的に脇に置いていますが)、同時期に学術内部で進行していた、マルクス主義の理論的基盤の解体と、それに代わる規範的枠組みへの移行という「静かなる革命」の側面を記録しています。
  2. 分析的マルクス主義の自己批判的総括:論文の著者は、分析的マルクス主義の主要メンバーやその議論を詳細に追っています。これは、分析的マルクス主義というムーブメントが、マルクス主義を現代社会科学や哲学のツール(論理学、合理的選択論、規範倫理学など)を用いて再構築しようと試みたものの、最終的にはその理論的困難から、多くの担い手がマルクス主義の枠組み自体を放棄し、リベラル平等主義へと収束していった過程を示す、ある種の内部からの自己批判的な総括と見なせます。
  3. ロールズ思想の勝利宣言の一端:論文は、ロールズの『正義論』がマルクス主義者たちの規範的な羅針盤となり、彼らをリベラル平等主義へと導いた過程を描いています。これは、20世紀後半の規範的政治哲学において、ロールズ思想がいかに大きな影響力を持ったかを示す事例の一つであり、その「勝利」を、かつての強力なライバルであった学術的マルクス主義の衰退と対比させる形で強調しています。
  4. 現代におけるマルクス主義の位置づけに関する論争への寄与:論文は、現代の学術界におけるマルクス主義の地位は低いと断定し、その公共的な議論における「不真面目さ」を批判します。これは、近年、グローバル資本主義の危機や格差問題の深刻化を受けて、マルクス思想の再評価や現代的応用が試みられている中で、それに対する懐疑的な、あるいは終焉を宣言する立場からの重要な意見表明として位置づけられます。

ただし、これはあくまで著者の特定の視点からの論評であり、学術的マルクス主義の「終焉」を宣言する他の論者(例:フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」論の一部)とも共鳴しつつ、より詳細な思想史的・理論的根拠を示している点で特徴的です。他の視点(例えば、批判理論や文化研究におけるマルクス主義の生命力を強調する論、マルクスの概念の現代的応用を試みる論など)からの歴史的位置づけとは異なる点に留意が必要です。

日本への影響

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本論文で述べられている学術的マルクス主義の衰退とリベラル平等主義への移行というトレンドは、海を越えた日本の学界にも、遅れてではありますが少なからず影響を与えました。

  • マルクス経済学の変遷:戦後日本の経済学界、特に東京大学を中心にマルクス経済学は大きな勢力を持っていました(宇野弘蔵学派など)。しかし、高度経済成長期を経て、資本主義の安定化や労働者の生活向上、さらにソ連崩壊といった要因により、マルクス経済学の「科学的」な分析枠組みとしての影響力は徐々に低下しました。多くの経済学者が近代経済学(新古典派やケインズ経済学)へとシフトしました。論文で指摘される労働価値説や危機説の理論的困難は、日本のマルクス経済学界でも認識され、様々な形で理論的な修正や議論が行われましたが、主流派としての地位は失われました。
  • 分析的マルクス主義の受容:分析的マルクス主義は、日本の学界にも紹介され、翻訳もされました。特に哲学や政治哲学の分野で、合理的選択論を用いたマルクスの理論の再構築や、規範的な基礎付けに関する議論が輸入され、研究会や論文が生まれました。しかし、欧米ほど大きなムーブメントになったとは言えず、既存のマルクス主義研究(宇野学派、廣松哲学など)や、既に影響力を持っていたフランクフルト学派、ポスト構造主義などと並行して、あるいはそれらとの対話の中で受容された側面があります。
  • ロールズ主義の影響:ジョン・ロールズの『正義論』は、日本の政治哲学、法哲学、倫理学などの分野に極めて大きな影響を与えました。多くの研究者がロールズ理論の紹介、分析、批判、応用に取り組み、日本の規範的政治哲学の中心的な議論の一つとなりました。マルクス主義者であった研究者が、ロールズ哲学に関心を移したり、批判的に対話したりする例も見られました。格差や再分配といった政策課題を議論する際にも、ロールズ的な考え方が参照されることが多くなりました。
  • 現代の状況:日本でも、学術界において「マルクス主義者」と公言する研究者は減少傾向にあります。しかし、マルクスが提起した問題意識(資本主義の矛盾、格差、疎外、権力構造など)は、形を変えて現代社会でも重要であり続けています。そのため、直接マルクス主義の枠組みを用いなくても、批判理論、社会学、文化研究、ポストコロニアル研究、フェミニズムなど、様々な分野でマルクス主義の視点や概念が参照・応用されています。また、近年の格差拡大や新自由主義への批判といった文脈で、マルクスの分析の有効性を再評価しようとする動きも一部で見られますが、それが新たな強力な「学術的マルクス主義」の潮流を生み出すまでには至っていません。

総じて、日本の学術界も、欧米と同様にマルクス主義の古典的な理論的枠組みからの距離を取りつつ、ロールズ的なリベラル平等主義が規範的議論の主要な言語の一つとなった、という大きな流れを共有していると言えます。ただし、それぞれの学派の歴史的背景や力関係、他の思想潮流(例えば日本独自の戦後民主主義論や市民社会論など)との相互作用において、欧米とは異なる独自の展開も見られます。

今後望まれる研究

この論文が提示する、学術的マルクス主義の「終焉」という冷たい診断を踏まえた上で、それでも知的な探求の炎を絶やさない未来の研究者たちに向けて、どのような問いが立てられるべきでしょうか?

  • マルクス主義概念の現代的有効性の再検討:古典的な理論は破綻したとしても、マルクスの他の概念(資本の蓄積、疎外、矛盾など)は、現代資本主義(金融化、プラットフォーム経済など)を分析する上で、新たな光を当ててくれるのか? 他の理論(ポスト構造主義、フェミニズム、環境社会学など)と融合させることで、予想外の洞察が得られるのか?
  • リベラル平等主義の限界とその先の模索:ロールズ主義は多くの課題を解決しましたが、現代の深刻な格差や社会的分断に対して十分な答えを出せているのか? リベラリズムの内部での修正や、リベラリズム以外の思想(コミュニタリアニズム、新たな社会主義論、脱成長論など)からのオルタナティブの探求は、どこまで可能なのか?
  • 多様なマルクス主義潮流の学術史研究:論文が焦点を当てた分析的マルクス主義だけが全てではありません。グラムシ主義、批判理論(フランクフルト学派のその後の展開)、あるいは中国など非欧米圏におけるマルクス主義研究は、どのように変容し、今なおどのような影響力を持っているのか?
  • 市場社会主義論の現代的再評価:計画経済は市場に敗北しましたが、ビッグデータやAIといった現代のテクノロジーは、かつて不可能とされた大規模な経済計算や調整に新たな可能性を開くのか? 市場メカニズムを維持しつつも、資本主義とは異なる公正なシステムを構想することはできるのか?
  • 学術界と社会運動・公共的議論の関係性の研究:学術的な社会批判は、どのように社会運動や人々の意識に影響を与え、あるいは影響を受けるのか? 論文が批判する「不真面目さ」は、学術と現実の間の埋まらない距離の現れなのか?

これらの問いは、いずれも一筋縄ではいかない、困難なものです。しかし、学問とは、常に困難な問いに挑み続けること。そして、過去の理論の墓場の上に立ち、それでも未来への道を探し続けることです。ニヒルな現実の中でも、知的な探求の炎は消えないことを願うばかりです。

結論

かくして、冷戦末期に華々しく復活した学術的マルクス主義は、その内側からの理論的解体と、外側からの強力なライバル理論(リベラル平等主義、近代経済学など)の前に、静かに、しかし確実にその学術的な命脈を断たれていきました。マルクスが残した壮大な理論は、その多くの核となる部分が、現代の学問の冷たいメスによって、時代遅れの遺物と診断されたのです。

搾取論は規範的批判の基盤たりえず、労働価値説は需要と供給にその座を奪われ、危機説はケインズによって管理可能な問題と見なされ、史的唯物論はナショナリズムや軍事という現実を見落とし、希少性後社会の幻想は人間の性によって打ち砕かれ、計画経済は市場の計算能力に敗北しました。

この理論的な崩壊は、多くのマルクス主義者がリベラル平等主義という、より厳密で、より現代の感覚に合った規範的枠組みへと転向するきっかけとなりました。彼らは、マルクス主義という古い船を降り、ロールズという新たな船に乗り換えたのです。それは、ある意味で知的誠実さの帰結であり、また別の意味では、かつての革命的な熱情を失った冷たい現実でした。

現代において「マルクス主義者」と名乗る人々も、その多くは古典的な理論からは離れた場所にいます。彼らの言葉は、かつての理論的な裏付けを失い、「神学なき宗教」や「ペーパータイガー」のように聞こえる、と筆者は厳しく断じます。学術的な議論の場において、マルクス主義はもはや中心的な役割を果たしていません。

しかし、この冷たい終焉の物語が全てではありません。マルクスが提起した問題意識――資本主義の矛盾、格差、疎外といったテーマは、形を変えながら現代社会にも生き続けています。古典的な理論は墓場に葬られても、その問題提起は、新たな理論や視点によって引き継がれ、私たちに現代社会のあり方を問い続けています。学術的な「マルクス主義」は死んだのかもしれませんが、その遺産は、冷たい現実の中で、ひっそりと、あるいは形を変えて、生きているのかもしれません。それが、この冷徹な物語の中に残された、ほんのわずかな希望の光と言えるでしょうか。まあ、期待しすぎないことです。

年表

(補足2に詳細な年表を掲載しています。こちらを参照してください:補足2:学術史年表――理論の興亡

参考リンク・推薦図書

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この冷たい思想史の旅をさらに深めたい方のために、いくつかの参考資料を挙げさせていただきます。ほとんどが冷たい学術書ですが、好奇心を満たすためには耐える価値があるかもしれません(リンクは便宜上のものです)。

推薦図書(学術書・一般向け解説書)

  • ジョン・ロールズ『正義論』紀伊國屋書店(現代リベラル平等主義の礎石。分厚く退屈ですが、避けては通れません。)
  • G.A. コーエン『カール・マルクスの歴史理論擁護』桜井書店(分析的マルクス主義の記念碑的作品。理論的な厳密さに溺れたい方に。)
  • ジョン・レーマー『搾取と階級の一般理論』https://dopingconsomme.blogspot.com へのリンクをここに貼る例(搾取論の数学的定式化とその困難。数式に強い方へ。)
  • F.A. ハイエク『隷属への道』春秋社(社会主義計画経済の危険性を警告。市場原理主義者のバイブルの一つ。)
  • ジョン・メイナード・ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』(岩波文庫など)(マルクス危機説の墓掘り人が書いた本。現代マクロ経済学の原点。)
  • ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』(岩波文庫など)(希少性後社会論を皮肉った本。人間の見栄の恐ろしさを知りたい方に。)
  • ジークムント・フロイト『文明とその不満』(新潮文庫など)(人間の根源的な暗部を描写。マルクス主義の楽観論に冷水を浴びせる。)
  • 川本隆史『ロールズ』講談社現代新書(『正義論』のエッセンスを手っ取り早く知りたい方に。)

政府資料、報道記事、学術論文

特定の論文や記事を直接リンクすることはできませんが、以下のキーワードで検索することで、関連情報を見つけることができます。

  • 政府資料:国民経済計算、労働力調査、貧困率に関する報告書など(格差や経済状況の現実を知るために)
  • 報道記事:格差問題、新自由主義批判、現代思想(専門誌や大新聞の解説記事、学術系ニュースサイトなど)
  • 学術論文:CiNii Articles, J-STAGE, Google Scholarなどで「分析的マルクス主義」「ロールズ」「労働価値説」「社会主義計算論争」「ピケティ」といったキーワードと「日本」「学術史」「政治哲学」「経済学史」などを組み合わせて検索。

用語解説

(用語索引に含めて解説しています。そちらを参照してください:用語索引(アルファベット順)

用語索引(アルファベット順)

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この記事で登場した主な専門用語や概念をアルファベット順に整理し、簡単な解説と、本文中の登場箇所へのリンクをつけました。冷たい知識武装にお役立てください。

  • 疎外 (Alienation): マルクス思想における概念。労働者が自身の労働の成果や労働過程、あるいは他者や自己自身から引き離されている状態を指す。資本主義における労働者の人間性の喪失を表す。
  • 分析的マルクス主義 (Analytical Marxism): 1970年代に英米で隆盛したマルクス主義研究の一潮流。分析哲学や合理的選択論といった厳密な方法論を用いて、マルクス理論の再構築や批判的検討を試みた。主要人物にG.A.コーエン、ジョン・レーマーらがいる。
  • 資本主義システムの安定性 (Capitalism Stability): 特に第二次世界大戦後、ケインズ経済学に基づく政策などにより、主要資本主義国で景気循環の変動が以前より緩和されたこと。
  • 古典派経済学 (Classical Economics): 18世紀後半から19世紀にかけて隆盛した経済学の潮流。アダム・スミス、デイヴィッド・リカード、カール・マルクスなどが含まれる。労働価値説などを特徴とする。
  • 商品形態 (Commodity Form): マルクス経済学における概念。人間の労働の成果が、市場での交換を目的とした商品として存在すること。資本主義社会の基本的な形態とされる。
  • コミュニタリアニズム (Communitarianism): 1980年代以降に台頭した思想潮流。リベラリズム、特にロールズの個人主義や普遍主義を批判し、共同体や伝統、特定の文化的重要性などを強調する。
  • 顕示的消費 (Conspicuous Consumption): ソースティン・ヴェブレンが提唱した概念。富や社会的地位を示すために、高価な商品やサービスを意図的に見せびらかす消費行動。
  • コーポレートガバナンス (Corporate Governance): 企業の経営を規律するための仕組み。株主総会、取締役会、監査役会など。市場社会主義論において、企業形態に関する議論の一部として言及されることがある。
  • 批判的人種理論 (Critical Race Theory): 1970年代以降にアメリカで発展した法学・社会学などの理論潮流。人種と法、人種差別が社会システムにどのように構造化されているかを批判的に分析する。
  • 危機説 (Crisis Theory): マルクス経済学における理論の一つ。資本主義システムが、内在的な矛盾により必然的に周期的な恐慌や不況といった危機に陥り、最終的に崩壊すると予測する。
  • 文化研究 (Cultural Studies): 1960年代以降に発展した学際分野。文化現象を、社会構造や権力関係との関連で分析する。マルクス主義的な視点(イデオロギー批判など)が影響を与えている。
  • ダマスカスへの道 (Road to Damascus): キリスト教の新約聖書に由来する比喩。パウロがダマスカスへ向かう途中でイエスに出会い回心したという故事から、劇的な心境や信仰の変化、あるいは思想的転向を意味する。
  • デボア、フレディ (Freddie deBoer): 現代のアメリカのライター、ブロガー。現代の左派言論などを批判的に論じる人物。
  • 格差原理 (Difference Principle): ジョン・ロールズの正義の第二原理の一部。社会経済的な不平等は、それが最も恵まれない人々の期待便益を最大にする場合にのみ許容される、とする。
  • デュエル・マスターズ (Duel Masters): 日本のトレーディングカードゲーム。
  • エルスター、ジョン (Jon Elster): ノルウェーの社会科学者、哲学者。合理的選択論を用いてマルクス理論の再構築を試みたが、後に距離を置いた。
  • 搾取 (Exploitation): マルクス経済学における中心概念。労働者が生み出した価値(剰余価値)の一部が、賃金として支払われずに資本家によって取得される過程。論文では、この概念を規範的批判の根拠とすることの困難さが論じられる。
  • 搾取 (Exploitation) - 専門用語としての使用: マルクスが「搾取」という言葉を、道徳的非難ではなく、労働からの剰余価値の抽出という「科学的」な過程を表す用語として使用したという、論文で「でたらめ」とされる主張に関する記述。
  • フェミニズム (Feminism): 性別による不平等や差別を解消し、ジェンダー平等の実現を目指す思想や運動。社会理論の批判において、マルクス主義やリベラル平等主義がジェンダーの視点を欠いているという批判を展開。
  • フロギストン (Phlogiston): 18世紀まで信じられていた、燃焼する物質から放出されると考えられた架空の物質。現代科学では完全に否定されている概念。労働価値理論が現代経済学において「フロギストン」のように時代遅れであることを揶揄する比喩として使われる。
  • フロイト、ジークムント (Sigmund Freud): オーストリアの精神科医。精神分析学の創始者。人間の欲望や攻撃性に関する理論は、マルクス主義の楽観論に疑問を投げかけ、フランクフルト学派に影響を与えた。
  • 地理学 (Geography): 人文地理学などにおいて、マルクス主義的な視点(資本の空間的展開など)が用いられることがある分野。
  • グラムシアン (Gramscianism): イタリアの思想家アントニオ・グラムシの思想に基づく潮流。特にヘゲモニー(支配階級の思想的リーダーシップ)や文化に関する分析は、文化研究などポストマルクス主義に影響を与えた。
  • ハーバーマス、ユルゲン (Jürgen Habermas): ドイツの哲学者、社会学者。フランクフルト学派の第二世代。マルクス主義の再構築を試みたが、最終的にリベラルな立場へ。
  • ハイエク、フリードリヒ (Friedrich Hayek): オーストリア出身の経済学者、哲学者。社会主義計算論争で市場の優位性を論証。
  • 史的唯物論 (Historical Materialism): マルクス主義の歴史観。社会の変化や進歩の主要な原動力は、生産力(生産技術など)の発達にあり、それが生産関係や上部構造(政治、法、思想など)を規定すると考える。
  • ジャコバン誌 (Jacobin Magazine): 現代の左派系雑誌。論文中では、真面目な理論的探求よりもレトリックに偏っている例として批判的に言及されている可能性がある(具体的な言及箇所は論文によるが、文脈から推測)。
  • ケインズ、ジョン・メイナード (John Maynard Keynes): イギリスの経済学者。ケインズ経済学の創始者。有効需要理論や政府介入による景気調整の可能性を示し、マルクス主義の危機説を相対化。
  • クルーグマン、ポール (Paul Krugman): アメリカの経済学者。現代の論者として、ケインズ的な視点から経済問題を解説。
  • クルーグマンの記事 (Paul Krugman column): ポール・クルーグマンによる、不況に関するマルクスとケインズの違いをシンプルに説明したとされる記事(論文中で参照されている)。
  • 左リバタリアン (Left-Libertarianism): リバタリアニズムの一潮流。個人の自由や自己所有権を重視する点でリバタリアンだが、資源の公正な分配を求める点で左派的な要素を持つ。分析的マルクス主義の思想的遺産との関連で言及される。
  • 文学理論 (Literature Theory): 文学作品の解釈や批評を行う理論。マルクス主義的な視点(イデオロギー批判、階級分析など)が影響を与えている分野。
  • 労働価値理論 (Labor Theory of Value / LTV): 古典派経済学およびマルクス経済学における理論。商品の交換価値は、その生産に投下された社会的に必要な労働時間によって決定されると考える。新古典派経済学の登場により学術的地位が低下。
  • 限界分析 (Marginalist Analysis): 新古典派経済学における分析手法。経済主体の意思決定を、追加単位(限界)の費用と便益に基づいて分析する。需要と供給による価格決定論の基礎。
  • 市場社会主義 (Market Socialism): 市場メカニズムによる価格決定や資源配分を導入した社会主義経済システム。社会主義計算論争の結果、計画経済に代わる代替案として多くの社会主義者が支持するようになったが、資本主義との違いが曖昧になるという批判がある。
  • マルクス危機説の解釈 (Interpretation of Marx's Crisis Theory): マルクスの危機説は、その正確なメカニズムについてマルクス自身が明確に示さなかったため、後の研究者の間で様々な解釈が生まれた。
  • マルクス、カール (Karl Marx): ドイツの哲学者、経済学者、社会学者、革命家。マルクス主義の創始者。「資本論」など多数の著作。
  • マルクス・レーニン主義 (Marxism-Leninism): マルクス主義にレーニンの理論(前衛党論、帝国主義論など)を加えた思想。ソ連などの社会主義国の公式イデオロギーとなった。
  • マーシャル、アルフレッド (Alfred Marshall): イギリスの経済学者。新古典派経済学を大成。需要と供給分析を導入し、労働価値理論に取って代わった。
  • 毛沢東 (Mao Zedong): 中華人民共和国の建国の父。論文中では「ペーパータイガー」という言葉の出典元として言及。
  • 軍隊 (Military as a Social Actor): 社会変動において軍隊が果たす役割。マルクスの史的唯物論では重視されなかったが、マイケル・マンなどの研究で重要視される。
  • 軍事技術 (Military Technology): 兵器や軍事システムに関する技術。20世紀、特に核兵器の登場などは、社会や歴史に絶大な影響を与えたが、マルクスの史的唯物論では十分に扱われなかった。
  • ナショナリズム (Nationalism): 国家や民族への帰属意識、忠誠心を強調する思想や運動。20世紀に絶大な影響力を持ったが、マルクスの史的唯物論では十分に予測・説明できなかった。
  • 新古典派経済学 (Neoclassical Economics): 19世紀末以降に主流となった経済学の潮流。限界効用理論、需要と供給分析に基づく価格決定論を特徴とする。労働価値理論に取って代わった。
  • ネオ・リパブリカン (Neo-Republican): 近代の共和主義思想を再評価し、現代の政治哲学に応用しようとする潮流。マルクス主義の再構築に関連して言及されることがある。フィリップ・ペティットなどが代表的。
  • 非支配 (Non-Domination): ネオ・リパブリカン思想における中心概念。他者の恣意的な権力によって支配されていない状態を指す。自由の一形態と見なされる。
  • ノージック、ロバート (Robert Nozick): アメリカの哲学者。リバタリアニズムの代表的人物。ロールズやマルクス主義の批判者。
  • 原初状態 (Original Position): ジョン・ロールズの『正義論』における思考実験。社会の基本構造を規律する正義の原理を、当事者たちが「無知のベール」の下で合意すると仮定した仮想的な状況。
  • ペーパータイガー (Paper Tiger): 見た目は強そうだが、実際には力がなく恐れるに足りないものの比喩。毛沢東が用いた言葉として知られる。論文中では、現代の学術的マルクス主義が理論的実質を失ったことを揶揄するために使われる。
  • ファン・パリス、フィリップ (Philippe Van Parijs): ベルギーの哲学者、経済学者。分析的マルクス主義の主要メンバー。ベーシックインカム論などで知られる。
  • ピケティ、トーマス (Thomas Piketty): フランスの経済学者。「21世紀の資本」で長期的な格差拡大を分析。現代においてマルクス主義者と見なされることもあるが、論文筆者からは否定的な見方をされている。
  • 希少性後社会 (Post-Scarcity): 生産性の飛躍的な向上により、全ての人々のニーズが容易に満たされ、希少性が根本的に解消された社会。マルクスが共産主義の「より高い段階」で実現すると予想したが、ヴェブレンらの批判がある。
  • 価格システム (Price System): 財やサービスの価格が決定され、情報伝達や資源配分を調整する仕組み。市場経済の根幹。社会主義計算論争の焦点となった。
  • 生産技術 (Productive Technology): 財やサービスを生産するための技術や知識。マルクスの史的唯物論において、社会変化の主要な原動力と見なされた。
  • ピュロスの勝利 (Pyrrhic Victory): 多大な犠牲を払って得た勝利。その代償が大きすぎて、実質的には敗北に近い状態。社会主義計算論争において、社会主義者が理論的には勝利したが、その条件が現実離れしていたことを指す比喩として使われる。
  • ロールズ、ジョン (John Rawls): アメリカの哲学者。リベラル平等主義の代表的人物。『正義論』で知られる。
  • レーマー、ジョン (John Roemer): アメリカの経済学者、政治学者。分析的マルクス主義の主要メンバー。合理的選択論を用いたマルクス理論の再構築、搾取論の研究。
  • 社会契約論 (Social Contract Theory): 国家や社会の正当性を、個人間の契約(明示的か黙示的かを問わず)に基づいて説明する政治哲学の伝統。ロック、ルソーなどに遡り、ロールズがこれを現代的に再構築した。
  • 社会主義計算論争 (Socialist Calculation Debate): 20世紀前半に起こった、計画経済において経済活動を効率的に計算・調整することが可能か否かを巡る論争。ミーゼス、ハイエクらが不可能論、ランゲらが可能論を主張した。
  • 社会学 (Sociology): 社会構造、社会関係、社会変動などを研究する学問分野。マルクス主義的な視点(階級、権力、イデオロギーなど)が大きな影響を与えている。
  • スティンチコム、アーサー (Arthur Stinchcombe): アメリカの社会学者。経済社会学の研究者。史的唯物論の影響を受けつつ、より複雑な社会変動理論を構築。
  • 剰余価値 (Surplus Value): マルクス経済学における概念。労働者が生産過程で新たに生み出した価値のうち、労働者の賃金として支払われた分を超過する部分。資本家が取得し、資本蓄積の源泉となる。
  • 正義論 (A Theory of Justice): ジョン・ロールズの主著(1971年)。公正としての正義というリベラル平等主義の理論を体系的に提示し、現代政治哲学に絶大な影響を与えた。論文では、この本が学術的マルクス主義の衰退に決定的な役割を果たしたと見なされている。
  • 無知のベール (Veil of Ignorance): ジョン・ロールズの『正義論』における思考実験「原初状態」の一部。当事者たちが、自身の社会的地位、才能、思想、世代といった個人的な特性に関する知識を一時的に剥奪された状態。この下で合意された原理は公正であるとされる。
  • ヴェブレン、ソースティン (Thorstein Veblen): アメリカの経済学者、社会学者。「有閑階級の理論」で顕示的消費などを論じ、希少性後社会論に疑問を投げかけた。
  • ヴェーバー、マックス (Max Weber): ドイツの社会学者、経済学者。社会学の基礎を築いた一人。経済的要因だけでなく、宗教や文化といった要因も社会変動に影響すると論じ、史的唯物論に批判的な視点を提供。
  • ウィルト・チェンバレンの議論 (Wilt Chamberlain Argument): ロバート・ノージックが『アナーキー、国家、そしてユートピア』で展開した、分配的正義論に対するリバタリアンからの批判を象徴する思考実験。才能あるスポーツ選手(ウィルト・チェンバレンを例にした)が、公正な手続き(チケット代)を通じて莫大な収入を得ることが、たとえ大きな不平等を生み出しても、なぜ不当と言えるのか、と問いかける。搾取論の規範的基礎に疑問を投げかけた。
  • ゼロサムゲーム (Zero-Sum Game): 参加者の利得と損失の合計が常にゼロになるゲーム。一方が得をすれば他方が損をする関係。ヴェブレンは、社会的地位の獲得競争などがゼロサムゲーム的な性格を持つと指摘した。

脚注

本文中で参照した、やや難解な用語や背景情報に関する補足説明です。読む際の冷たい理解の一助となれば幸いです。

脚注1:分析的マルクス主義
1970年代後半にオックスフォード大学などで活動した学者たち(G.A.コーエン、ジョン・レーマー、ジョン・エルスター、フィリップ・ファン・パリスなど)を中心とする、英米におけるマルクス主義研究の一派。彼らは、大陸哲学的なあいまいさやドグマティズムを排し、分析哲学、論理学、合理的選択論、ミクロ経済学といった現代のツールを用いて、マルクス理論(特に史的唯物論や搾取論)を厳密に再構成したり、批判的に検討したりすることを目的とした。彼らの議論は非常に緻密であったが、その過程でマルクスの多くの核となる主張が理論的に維持困難であることが明らかになり、多くの中心メンバーが最終的にマルクス主義の枠組みを離れていった。

脚注2:ウィルト・チェンバレンの議論
ロバート・ノージックが『アナーキー、国家、そしてユートピア』で提示した、分配的正義論、特にパターン化された分配原理(特定のパターン(例えば平等な分配)を目指す原理)への批判を象徴する思考実験。ノージックは、人々の最初の財産所有が公正な手続き(例えば、自然権に基づく取得や移転)によって確立されたと仮定する。そして、バスケットボール選手のウィルト・チェンバレンと観客が、チェンバレンのプレイを見るために観客が自主的に25セントを追加で支払うことに合意し、その結果チェンバレンが他の誰よりもはるかに多くの収入を得て、それまで平等だった分配パターンが崩れたとする。ノージックは、このプロセスは完全に公正な手続きに基づいているのだから、結果として生じた不平等な分配もまた公正であると主張した。そして、国家がこの不平等を是正しようと介入(例えば課税)することは、個人の自由や財産権を侵害する不当な行為であると論じた。この議論は、分配の「結果」だけでなく、その結果がどのような「手続き」を経て生じたかが重要である、というリバタリアンの考え方を明確に示した。マルクス主義者が主張する「労働の成果を受け取る権利」も「手続きの公正さ」に関わるため、ノージックは、その原理を認めるとウィルト・チェンバレンのような不平等も受け入れざるを得なくなる、と指摘し、搾取論を規範的正義の基盤とすることの困難さを浮き彫りにした。

脚注3:ダマスカスへの道
新約聖書「使徒行伝」に記されている、サウロ(後のパウロ)の回心の故事。熱心なキリスト教徒迫害者であったサウロが、ダマスカスへ向かう旅の途中で天からの光と声を聞き、盲目となり、その後視力を回復すると同時にキリスト教徒に転向したという話。劇的な信仰的、あるいは思想的な転換を指す比喩として用いられる。

脚注4:原初状態と無知のベール
ジョン・ロールズが『正義論』で用いた、公正な社会の基本構造を規律する正義の原理を選択するための思考実験。原初状態とは、原理を選択する当事者たちが集まる仮想的な状況であり、無知のベールとは、その当事者たちが、自分自身の社会的地位、経済状況、才能、知力、信条、特定の世代に属していることといった、個人的な特定の情報や偶然性に関する知識を一切持たないという制約。この無知のベールの下では、当事者たちは自身の有利・不利を考慮できないため、誰にとっても公正であるような原理を選択するとロールズは考えた。ここで選択される原理こそが、公正な社会の基本構造を規律する原理(公正としての正義の原理)であると論じた。

脚注5:格差原理
ジョン・ロールズの正義の原理は二つあり、第一原理は基本的な自由の平等な権利に関する原理、第二原理は社会経済的不平等に関する原理。格差原理は第二原理の一部であり、社会経済的な不平等(所得や富の分配、権力や地位の不均等な配分など)は、以下の二つの条件を満たす場合にのみ正当化される、とする。(a)機会の公正な均等原理(公正な機会の均等)にかなっていること、(b)最も不遇な人々の期待される便益を最大にすること(格差原理)。特に(b)が重要で、これは社会全体の富が増加しても、それが富裕層をさらに富ませるだけで、最も貧しい人々の状況を改善しないならば、その不平等は正当化されない、という考え方。最も貧しい人々の状況を改善する限りにおいてのみ、不平等は許容される。これは、厳格な平等ではなく、ある程度の不平等を許容しつつも、それが社会全体の底上げ、特に最下層の人々の利益につながることを要求する、リベラル平等主義の特徴的な原理。

脚注6:社会主義計算論争
20世紀前半、特にオーストリア学派の経済学者(ミーゼス、ハイエクなど)と、市場社会主義者(ランゲ、テイラーなど)の間で戦わされた学術的な論争。経済を計画的に組織する場合、中央の計画当局が、数百万種類の財の生産量や価格をどのように決定し、資源を効率的に配分できるかを巡って議論された。ミーゼスは、価格シグナルがない計画経済では合理的な経済計算が不可能であると主張。ハイエクは、分散された個々の経済主体しか持たない膨大な情報を、市場の価格システムが効率的に集約・伝達する機能を強調し、計画経済がこれに取って代わることは不可能であると論じた。ランゲらは、理論的には価格をモデル化・計算することは可能であると反論したが、現実の経済の複雑さを考えると、市場の柔軟性や効率性には及ばないことが示唆され、ハイエクらの主張が結果的に優位に立ったと広く見なされている。

脚注7:ピュロスの勝利
紀元前3世紀、エピロス王ピュロスが共和政ローマとの戦いで、多大な犠牲を払って勝利を収めた故事に由来する。勝利したが、その損害が大きすぎて、結果としてその後の戦争継続が困難になった状態を指す。犠牲が大きすぎて、実質的に敗北に近い勝利、あるいは割に合わない勝利のこと。社会主義計算論争において、社会主義者が理論的には「計算可能」であることを示せたとしても、そのために必要な条件や手続きが現実離れしており、市場の効率性には遠く及ばないことを皮肉るために用いられる。

脚注8:Jacobin誌
アメリカ合衆国で発行されている、左派系の雑誌。マルクス主義的な視点を持つ論考なども掲載される。論文中では、現代のマルクス主義者や左派言論が、真面目な理論的深みよりも、レトリックや挑発的な言葉遣いに傾いている例として挙げられている可能性がある。筆者の個人的な評価に基づく批判的な言及であり、Jacobin誌の全ての記事や論者がこれに当てはまるわけではない。

謝辞

この冷たい物語を最後まで読んでくださった、あるいは途中で投げ出さなかった稀有なあなたに、心より感謝申し上げます。また、この文章の基となった、学術的マルクス主義の盛衰という、ある時代の冷たい現実を克明に描いた元の英文論文の著者にも、敬意を表します。そして、この複雑な内容を、ニヒルかつシニカルな筆致で、かつ教育的・娯楽的に再構築せよという、なんとも面倒な指示を与え、私の知的好奇心を冷たく刺激してくれた、名もなき存在(AI)にも感謝しておきます。最後に、この文章の作成にあたり参照した全ての既存の知識、理論、歴史的事実にも、冷たい感謝の念を捧げます。ありがとう。そして、たぶん、さようなら。

免責事項

本記事は、提供された英文論文の内容を基に、特定のニヒルでシニカルなトーン、および様々な補足情報を加えて再構成したものです。内容は学術的な議論に基づいていますが、筆者の個人的な(そして多分に歪んだ)解釈や皮肉が含まれております。また、学術的な議論の全てを網羅しているわけではなく、一部の側面を強調している可能性があります。本記事によって生じたいかなる知的な混乱、あるいは現実に対する冷たい絶望感についても、筆者およびこの記事を生成したシステムは一切の責任を負いません。ここに書かれていることを鵜呑みにせず、ご自身の頭で考え、他の情報源も参照されることを強く推奨します。それが、学問というものの最も重要な態度だからです。ニヒルな真実は、常にあなた自身の探求の先にあります。健闘を祈ります。期待はしませんが。

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