「2025年の予言」:戦時下のポーランド・ウクライナが曝す、歴史と地政学の深淵 #歴史問題 #地政学 #東欧 #1891EMコノヴァーレツのUPA_昭和ウクライナ史ざっくり解説 #六12

「2025年の予言」:戦時下のポーランド・ウクライナが曝す、歴史と地政学の深淵 #歴史問題 #地政学 #東欧

ウクライナで続く激しい戦争の影で、隣国ポーランドとの間に「歴史」を巡る新たな軋轢が生まれています。このレポートは、一見すると未来の出来事を描いているように見えますが、実は現在の地政学的緊張と過去の記憶が複雑に絡み合う東欧の現実を浮き彫りにする、ある種の思考実験です。歴史は単なる過去の記録ではなく、現代の国際関係に深く影響を与える「生きた」要素であることを、ポーランドとウクライナの「微妙な協力」を通して考察してまいります。


序章:2025年の東欧、歴史が再び問いかける

2025年6月11日、未来の新聞の見出しは、我々に一つの問いを投げかけます。ポーランドとウクライナが、第二次世界大戦の歴史を巡る新たな動きを見せたという報道です。ポーランドは、ウクライナ国境に近いポドカルパチェ県のユレチュコヴァ村で、戦時中の犠牲者の遺体発掘作業を進めることになりました。この作業はポーランドの歴史調査機関である国立記憶研究所(IPN)が主導し、2025年秋に開始予定とされています。発掘対象は、おそらく1943年のヴォルィーニ虐殺で殺害されたポーランド人住民と考えられますが、1939年の戦闘犠牲者も含まれる可能性が指摘されています。

ウクライナは、この作業に資金を提供することで協力する姿勢を見せています。これは、ウクライナがリヴィウ市内の旧ズボイシェ村で、1939年に死亡したポーランド兵の発掘をポーランドに許可したことへの対価でもあると、ウクライナ文化情報政策省が2025年6月11日に発表しました。しかし、この一見すると協力的な動きの裏では、微妙な対立が隠されています。ポーランドが6月5日にヴォルィーニ虐殺の追悼日を国家記念日に制定したことに対し、ウクライナ外務省は「両国の友好関係に反する」と批判したのです。

ポーランドの新聞「Myśl Polska」は、ウクライナがこの追悼日により、戦時中のナチス協力の歴史が再び注目され、西側からの支援に悪影響が出ると懸念していると報じています。ロシア・ウクライナ戦争が続く2025年、なぜ今、歴史問題が再び浮上するのでしょうか。ウクライナが本心では消極的なのに協力する理由と、このタイミングの不自然さについて、深く考察してまいりましょう。

コラム:歴史という「生きた」パンドラの箱

私がジャーナリストとして東欧の歴史を追いかける中で、何度も感じたことがあります。それは、歴史が単なる過去の出来事ではなく、現代の政治や社会に深く根ざした「生きた」ものである、ということです。特に、ポーランドとウクライナのように複雑な歴史を持つ国々では、忘れ去られたように見えた過去の傷が、予期せぬ瞬間に再び口を開くことがあります。まるで、封印されたはずのパンドラの箱が、現代の風に揺られて不意に開いてしまうかのように。

このレポートが「2025年」という未来を描いているのは、まさにその「パンドラの箱」が、現代の地政学的な危機(ウクライナ戦争)という文脈で、どのように再び開かれ、各国を揺さぶるのかをシミュレートする試みです。歴史の「真実」を追求することは重要ですが、その追求が新たな軋轢を生むこともある。そのジレンマこそが、この地域の歴史問題の奥深さであり、同時に私たちの社会が学ぶべき重要な教訓なのだと、私は考えています。


第1章:ヴォルィーニ虐殺の影:過去と現在の対立

ヴォルィーニ虐殺は、1943年に現在のウクライナ西部(当時ポーランド領)で起きた、極めて痛ましい事件です。ウクライナ民族主義組織(OUN)やその軍事部門であるウクライナ蜂起軍(UPA)が、ポーランド人住民を対象に攻撃を行い、ポーランド側は5万~10万人が殺害されたと推定されています。村々への襲撃、放火、残忍な暴力が記録され、ポーランドではこの事件を「民族浄化」や「ジェノサイド」とみなしています。

対して、ウクライナではUPAを「ソビエトやナチスに抵抗した独立闘争の英雄」と評価する声が根強く存在します。戦争の混乱や、ポーランド側の報復による数千人のウクライナ人犠牲者も強調され、両国の歴史認識は鋭く対立しています。特に、UPAの一部がナチス・ドイツに協力した記録は、ウクライナにとって国際的に敏感な問題であり、ロシアはこれを「ウクライナ=ナチス」と宣伝し、ウクライナは西側支援への影響を警戒しているのです。こうした背景から、ウクライナは過去にウクライナ領での遺体発掘を制限してきた経緯があります。2017年には、ポーランドによるヴォルィーニ虐殺関連の調査を事実上禁止したこともありました。

しかし、2025年に入り状況は変化しています。1月にヴォルィーニ虐殺関連の発掘が許可され、4月にはテルノピル州で1945年に殺害されたポーランド民間人の発掘が始まりました。そして6月のリヴィウ(ズボイシェ)とユレチュコヴァの相互許可も、この流れに連なるものですが、ウクライナの協力には依然として消極性が潜んでいると考えられます。

2025年6月の不自然なタイミング

なぜ2025年6月に、ユレチュコヴァ村とリヴィウ(ズボイシェ)の発掘許可や追悼日制定が重なるのでしょうか。ポーランド側では、国内の政治状況と歴史的正義の追求が鍵を握っています。ヴォルィーニ虐殺はポーランドの保守派を中心に深いトラウマであり、追悼日制定は国民感情に応える政策です。ドナルド・トゥスク政権は、2023年の選挙後の支持固めや、歴史問題での強い姿勢を背景に、2025年6月に追悼日を国家記念日に格上げしました。ユレチュコヴァ村の発掘も、IPNの長年の使命である真相究明の一環なのです。ポーランド領での作業はポーランドが主導し、ウクライナの資金提供は協力の象徴として求められました。

一方、リヴィウ(ズボイシェ)の発掘許可は、ポーランドが長年求めてきたウクライナの調査禁止解除への大きな譲歩です。ウクライナはロシア・ウクライナ戦争(2022年開始)で、ポーランドの軍事援助や難民受け入れに強く依存しています。2025年6月、戦争が4年目に突入する中、ポーランドとの対立は西側支援全体を危うくする懸念が高まってきたのでしょう。

追悼日に対するウクライナの批判は、UPAやナチス協力の歴史が強調されることへの本音ですが、関係悪化は避けたいのが実情です。ユレチュコヴァの資金提供とズボイシェの許可は、ポーランドの圧力に応じた戦略的妥協であると考えられます。戦争中の経済的困窮を考えれば、資金提供や許可の優先順位は不自然に映るかもしれません。このタイミングの奇妙さは、ポーランドがウクライナの戦争依存を背景に歴史問題を押し進め、ウクライナが反応を強いられた結果にあると言えるでしょう。

ウクライナのジレンマと今後の行方

ユレチュコヴァ村とリヴィウ(ズボイシェ)の相互発掘許可は、両国の協力に見えますが、ウクライナの過去の経緯を見れば本心は消極的であろうと推察されます。過去の調査制限(2017年)や追悼日批判から、ウクライナはヴォルィーニ虐殺やナチス協力の歴史が再燃することを避けたいのです。ズボイシェの発掘は1939年のポーランド兵(ソビエトやナチスとの戦闘)で、ヴォルィーニ虐殺(1943年)より前の事件ですが、それでも歴史問題の敏感な領域に触れることになります。

ユレチュコヴァもヴォルィーニ虐殺以外の可能性(例:1939年の事件)がありますが、歴史的リスクは残ります。ウクライナの資金提供とズボイシェ許可は、ポーランドとの関係悪化を防ぎ、西側支援を維持するための「仕方ない」対応なのでしょう。ポーランド領(ユレチュコヴァ)での資金提供はリスクが低く、ウクライナ領(ズボイシェ)での許可は対価として戦略的です。この協力は、国内のUPA支持層への反発を抑えつつ、西側に「歴史に向き合う姿勢」をアピールすることにあると考えられます。

追悼日批判は、ウクライナがナチス協力の歴史によるイメージ悪化を恐れる本音を映し出します。ロシアが「ウクライナ=ナチス」の宣伝を続ける2025年、戦争中のウクライナにとって歴史問題は最悪のタイミングとみなされるためか、西側報道は少ないようです。しかし、このニュースは、協力(相互発掘)と対立(追悼日批判)が共存する両国関係の複雑さを示しています。今後、発掘作業の結果が歴史認識や外交にどう影響するのか。ポーランドは歴史的正義を追求し、ウクライナは支援依存とイメージ管理のジレンマに直面するでしょう。この事態は、歴史と現代の地政学が交錯する欧州の課題も浮き彫りにしています。

コラム:記者の見た、戦争の「リアル」

私がウクライナ戦争の初期に現地で取材した時のことです。都市は瓦礫と化し、人々の顔には絶望と怒りが入り混じっていました。トルストイやレマルクの文学作品の中にひしめく言葉の大半が、たった2ヶ月で閃光のように飛び出してきたような感覚でした。こんなにも戦争渦中の被弾状況がつぶさに報道されることは、ベトナム戦争や湾岸戦争、チェチェン紛争の時にはなかったことです。個人のスマートフォンが映し出す光景がいくらでも増えていくのも、現代戦争の異常さだと感じました。

ゼレンスキー政権は一歩も引かない姿勢で断固とした抵抗を示し、そのつど西側諸国の応援を取り付けて軍事交戦に応じていますが、ロシア軍の執拗な攻撃は止まりません。首都キーウ(キーウ)からは大隊を撤退させたようですが、マリウポリをはじめとする東部ドンバス地域は制圧されつつあります。1000人以上の兵士や市民が製鉄所地下の水路に籠もっていて、その光景が一部公開されているというのも、過去のリアル戦争史にはなかったことでしょう。ロシア軍の作戦は混乱したらしく、傭兵(外人部隊)の導入を含めて戦線はぶつ切りになっています。ウクライナ大統領府の高官たちは、この戦争が今後1年以上にわたるかもしれず、かつてのイスラエルと中東諸国の数次にわたる中東戦争のようになる危険性もあるという見方をしはじめていました。

なぜプーチンの戦争は止まないのか。誰もがその疑問をぶつけたがっていますが、この疑問は空中の大風船のように膨らんだままです。しかし、プーチンがなぜ戦争を仕掛けたかということなら、とっくにわかっていたことなのです。


第2章:ロシアの深層:ユーラシアニズムとプーチンの戦争観

2022年2月24日午前6時、モスクワ時間。ロシア大統領ウラジーミル・プーチンは、ウクライナ東部で「特別軍事作戦」を開始することを決定したと発表しました。その数分後には、キーウ、ハルキウ、オデーサ、ドンバスで爆発が報告されます。折しも、国連安全保障理事会ではまさにウクライナ東部に関する緊急会合の最中でした。国連事務総長アントニオ・グテーレスは、会合後の記者会見で「戦争を始めるな」と涙を浮かべてプーチンへ呼びかけました。

しかし、プーチンの行動は、単なる衝動や短期的な戦略に基づいたものではありません。それは、ある特定の思想、すなわちユーラシアニズムによって支えられていると考えられています。2022年4月22日付のワシントン・ポスト紙が、プーチンの戦争はアレクサンドル・ドゥーギンの「新ユーラシアニズム」を打ち出した地政学的戦略によって支えられていることを、いまさらながら強調していました。これは当然の指摘でしょう。2014年にクリミア奪還を旗幟鮮明にし、東部ウクライナ侵攻を果たしたプーチンが、その後に西側諸国やNATOに仕掛けた異常な圧力示威以来、ずっと丸見えだったからです。プーチンの妄想は、ドゥーギン製なのです。

けれども、ドゥーギンのことは伏せられてはいないにもかかわらず、いまもって正面きって語られることは少ないです。ましてや、グミリョフやリモノフといった、彼の思想的系譜に連なる人物については、ほとんど知られていないままです。プーチンの狂気じみた戦争観は、この「ほとんど知られないままにある」ところからリロセーゼンと出所しました。このリロセーゼンは、近代ロシアの過敏かつ鈍重な民族観がもっていたものなのです。

プーチンを動かす思想の系譜

過去にはすでに5人の洞察者が、ロシアの特異な精神性を見抜いていました。ドストエフスキーはロシアの思想がいかに怪物を生み出すかを抉(えぐ)っていました。ケインズはロシアが哲学的幻想だらけの“仮想真実”でできていることを見抜いていたのです。ハンナ・アーレントは独裁制や全体主義においては「真っ赤な嘘」ほど威力をもつとみなしました。ラトビア出身のオックスフォードの哲学者アイザイア・バーリンは「ロシアは思想を吸収する能力にかけて驚くほど敏感である」と喝破しました。そして、初めてプーチンと出会ったドイツ首相メルケルはすぐに「彼は別世界に住んでいるわよ」と告げています。これらの洞察は、プーチンの行動の背景にある思想の根深さを示唆しています。

アレクサンドル・ドゥーギンは、激情の理論家として知られたレフ・グミリョフの歴史思想を譲り受けた地政学者です。そのレフ・グミリョフは、ロシアを「パッシオナールノスチ」(前進して変化をつくる能力)によってユーラシアの雄にすることを、まるで犬笛のように吹きまくった歴史家でした。この二人が、ユーラシアニズムの基本シナリオをおおむね準備したのです。

1999年に発表されたドゥーギンの『地政学の基礎』は、欧米のシーパワー(海)に対するに、ロシアがランドパワー(陸)に依拠してNATOの多極化を画策するべきだという構想を描いたものでした。たとえば、飛び地のカリーニングラードをドイツに返却して中央ヨーロッパを内政化させ、それに乗じて欧州全体を徐々にフィンランド化させるべきだというのです。NATOがそんな甘い手に乗るはずがないかどうかは、考慮されません。ドゥーギンはまた、中東ではトルコを反ロシアから転換させるためにイランやクルド人と組み、極東では日本にクリル列島(千島列島)を譲渡して、そのかわり日米同盟を解体させるようにもっていくべきだと説いたのですが、これまた実現しそうもないシナリオでした。

けれども、たとえば、中国のプレゼンスをインドシナ半島に南下南進させ、フィリピンやオーストラリアなどの親アメリカ勢力と拮抗もしくは対決させるという勝手な(アメリカが応じるはずもない)シナリオは、習近平の一帯一路戦略や台湾戦略と重なるところが生じて、ひょっとすると進捗しそうに見えるのです。実現可能かどうかはさておくとしても、こうしたドゥーギンの勝手な世界戦略はプーチンの胸に突き刺さりました。

プーチンとドゥーギンの蜜月

二人の蜜月期間も長く、ドゥーギンは早くに熱狂的なロシア・ナショナリズムを謳う政治思想家として、モスクワ大学の学部長となり、クレムリンのブレーンになってきました。2002年に「ユーラシア党」を、2005年には「ユーラシア青年連合」を設立して、欧米の自由民主主義、金融資本主義、個人主義、グローバリズムを徹底批判していったことも、プーチンには心地よかったのでしょう。

それにしても、どうしてロシアはこんな粗雑な国際戦略と睨めっこしながら自由世界を敵にまわすのか、容易には理解しがたいものです。コストパフォーマンスも悪いでしょう。その理解しがたいところをロシアの21世紀に踏みこんで解きほぐしたのが、チャールズ・クローヴァーの著書『ユーラシアニズム』でした。

著者のチャールズ・クローヴァーはフィナンシャル・タイムズの元モスクワ支局長で、1998年からはウクライナに滞在してユーラシアニズムの動向をつぶさに観察した敏腕ジャーナリストです。以来、ドゥーギンとは8年の親交があると言われています。西側でも稀有のロシア通ジャーナリストとして知られています。

本書があきらかにしてみせた「ユーラシアニズム」という汎ロシア的なネオナショナリズムは、もともとはニコライ・トルベツコイローマン・ヤコブソンの言語学が用意し、これにグミリョフとドゥーギンが大胆な歴史観と地政学の大樹をはやしたものです。

ドゥーギンの思想的ルーツ

トルベツコイは実父がモスクワ大学の学長で、叔父はウラジミール・ソロヴィヨフでした(『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャのモデルに擬せられていた)。ソロヴィヨフの甥には、黙示録にぞっこんの詩人アレクサンドル・ブロークがいました。そんな血脈を背景に、トルベツコイは若いときはロシア・フォルマリズム(ロシア・アヴァンギャルドを巻き込んだ独特の文芸美術形式主義運動。構造主義や文化記号論を先駆した)に熱中し、その後はスラブ言語の音韻と意味をめぐるルーツ研究に打ちこみました。そこにユーラシア言語群が噴き出したのです。

トルベツコイの6歳年下のローマン・ヤコブソンは、ロシア革命下ではモスクワの前衛芸術運動の創始メンバーとして疼き、ついではロシアにおける一人称単数の問題に関心を寄せ、独特の言語学を構成したくなっていました(本人は家族に対しても自分のことを一人称単数では喋らなかったらしい)。やがて二人が出会うと、自分たちが考えている「原・言語」が既存ヨーロッパの文法や知識では説明できないと感じ、音韻・単語・語彙・言語構造には民族の歴史とその変転がさまざまに埋まっていることを確信するに至ります。

トルベツコイはウクライナ語とベラルーシ語とロシア語が13世紀に同根から生まれたとみなし、とくにウクライナ南部で母音が変化したことが、その後の中欧語や北欧語との混交を促したと分析しました。ヤコブソンは、民族言語学をボルツマンの熱力学と結びつけ、言語が熱力学第二法則と似た原理を内在させているだろうと見ていたようです。二人はロシア革命から第一次世界大戦に激動が続くなか意気投合し、ヤコブソンが「ユーラシア言語同盟」をおこし、トルベツコイが「ユーラシア文化集合体」に依拠しました。こうしてトルベツコイの『ヨーロッパと人類』『東方への脱出』が大いに読みまわされました。この「東方」とはルーシ人(古ロシア人)の記憶にひそむ「タタールの軛(くびき)」をどうするかということでした。

1925年、ヤコブソン、トルベツコイ、ピョートル・サヴィーニ、エミール・バンヴェニストらはプラハ言語学サークル(Prague School)を立ち上げました。これは言語学史では誰もが知っている言語学的構造主義の輝かしい登場でした。ソシュールの影響を受け、レヴィ=ストロースに影響を与えました。しかし、これらの初期ユーラシアニズムはスターリンの暴政のもと、次々に地下にもぐりこまされることになります。トルベツコイはのちにこう書いています。この一文には「プーチンの戦争」の明日を暗示させるものがあるでしょう。 「われわれは診断医としてすぐれていたし、予言の数々も悪くはなかった。ところがイデオローグとしてまことにお粗末で、予言では的中させたのに、それは悪夢へと一変した。われわれはユーラシア文化が登場すると予言した。その文化がいざあらわれると、それは完全な悪夢のように、われわれを慄然たる思いで後ずさりさせた」。

スターリンの粛清はソ連をめちゃくちゃにしました。レフ・グミリョフはカラガンダ労働収容所に入れられているうちに、ロシアの歴史の書き換えに走ったのです。フン族、テュルク族、モンゴル族を研究し、それらとルーシとの葛藤を組み立ててみると、そこに「相互補完性」のようなものが作用していることに気がつきました。進化的ではなく、また発展的でも淘汰的でもなく(つまりダーウィニズム的でなく)、独特の行ったり来たりで民族社会が育まれていくこと、とくにロシアの歴史にはそれがぴったりあてはまることに注目したのです。グミリョフはこの相互的な力をロシア正教とヘーゲル学の色合いをこめて「パッシオナールノスチ」と名付けました。かつてマキャベリやヴィーコが「ヴィルトゥ」と呼んだものに近いでしょう。

しかし、グミリョフの著作は長らく注目されませんでした。ロシア人にとって、ロシア史はニコライ・カラムジンの『ロシア国家の歴史』全12巻一辺倒だったからです。それがフルシチョフによる「雪解け」でいよいよ議論の俎上にのぼってきました。グミリョフの著作はいささか空想がまじった歴史観ではあったものの、その民族創成の見方には西側を納得させるに足る「エトノス」(同系文化を共属する独立単位集団)があると認められました。

ソ連崩壊とナショナリズムの台頭

フルシチョフからブレジネフに政権が移ると、政権内部にロシア党派とユダヤ党派の対立が目立つようになりました。もはやマルクス主義の行き場がありません。さらにゴルバチョフがあらわれてペレストロイカが始まると、それまでの「ソ連」の束縛があまりに放埒にほどけてしまったので、それまで抑圧されていたロシア思想がことごとく唸りを上げて噴きこぼれてきたのです。バーリンは「ロシアは思想を吸収する能力にかけて驚くほど敏感である」と言いましたが、敏感というよりも伏せられてきた激情が次々に噴き出てきたと言えるでしょう。本書はこう書いています。「マルクシズムは消えた。放り出された。後にはがらんどうの空き地だけが残った。空白を埋めるのはナショナリズムか超ナショナリズムしかなかった」。ここに登場してきたのがアレクサンドル・ドゥーギンの、大胆不敵ではあるが、そうとうに独りよがりのロシア民族主義的地政学だったのです。

本書は若き日のドゥーギンがモスクワの「ユジンスキー・サークル」(ユーリー・マムレーエフのカリスマ性によるアンダーグラウンド・ムーブメントの拠点)に出入りして、どんなふうに神秘主義にかぶれていたかをそこそこ克明に綴っていますが、彼はスーフィズムやロートレアモンやルネ・ゲノンに惹かれていたようです。

反体制的なユジンスキー運動は当然にKGBに目をつけられましたが、ドゥーギンはしょっ引かれるたびにその組織性に関心をもったのです。のみならずドゥーギンはロシアという国家共同体にはKGBをも覚醒させる世界戦略が欠如していることに地団太を踏みます。これはなんとかしなければならない。そこでまずは『専制の手法』と『福音の形而上学』を書きました。ロシア・エリートの価値観を鮮明にさせるためのもので、これが評判になって旧ソ連の国防関係機関で講演を依頼されるようになったのです。そのぶん学界からはファシスト扱いされました。

そういうドゥーギンに目を細めたのは、フランスのアラン・ド・ブノワです。「フランス新右翼の霊感」と言われた男です。海外からの評価を得たドゥーギンは意気揚々です。パリでも講演活動をし、その成果をロシアに戻ると軍事ノーメンクラトゥーラたちに振り撒きました。「赤いエリート貴族」たちです。ここに広がりはじめたのが「ユーラシアニズム」という用語なのです。

1997年、ドゥーギンは『地政学の基礎』を書き、ロシアにとってどこがハートランドであるか、熱っぽく呈示しました。アメリカのフーヴァー研究所のジョン・ダンロップは、「共産主義以降のロシアで刊行された本で、軍部・警察・外交のいずれの分野でもこれほどの影響力を及ぼしたものは他にない」と敵をほめたたえています。かくしてドゥーギンのまわりには、いかにも怪しくて危険きわまるような人物がさまざまに接近していくことになります。その一人に国家ボルシェヴィキ党を率いたエドゥアルド・リモノフがいますが、今夜はこの稀にみる奇矯な危険分子については言及しないことにします。オリガルヒ(新興財閥者たち)や効果的政治団体(コンサルタントたち)も近づいてきましたが、このことも省きましょう。

そんななか、ロシア人としてドゥーギンの理論に最も強く関心を示した男がいました。チェチェン紛争で失脚したエリツィンに代わって台頭してきた、誰あろう、ウラジーミル・プーチンです。KGBの予備大佐から秘密警察FSBの長官にのぼりつめていました。プーチンの言語はチェキスト(チェカをはじめとする秘密警察グループ)の専用ボキャブラリーでかためられていたらしく、そこへドゥーギン製のユーラシアニズムのウルトラナショナルな言葉づかいがビタミン剤のように染みこんでいったのです。

プーチンがおこした第二次チェチェン紛争が、ドゥーギンの理論で組み立てられたものだったかどうかは、確証がありません。しかしチェチェンの野戦司令官だったホジ=アフメド・ヌハーエフをプーチンが取り込んだのは、「ドゥーギン製の地政学」のそのままの適用だったと言えるでしょう。ヌーエフは「ユーラシアニズムはロシア正教とイスラム主義を結びつけるはずだ」と豪語しました(チェチェンはムスリムの地域です)。

2001年、9・11同時多発テロが勃発し、アメリカは世界のテロ組織を相手に容赦ない反撃戦争を仕掛けることになりました。プーチンはこれに乗じて表向きの親米路線をスタートさせると、その一方でいかにアメリカを裏切ってロシアのユーラシア化を成就するか、少しずつ狙いを定めたがっていました。2003年から翌年にかけてグルジア(ジョージア)とウクライナでおきたバラ革命とオレンジ革命は、プーチンを慎重にもさせ、疑り深くもさせ、いつユーラシアニズムの軍事化を始めればいいのかということについては、そのことこそがプーチンのアタマをいっぱいにさせたのです。

2006年、プーチンの側近中の側近であるウラジミール・ヤクーニンは『ロシア地政派』を書きました。これはさしずめ「ドゥーギンのプーチン化」だったと言えるでしょう。お膳立てが揃いました。このあと、何がおこっていったかはほぼ一直線です。南北オセチア問題、ジョージア侵攻、リーマンショックによるルーブル暴落、反クレムリン・デモ、メドヴェージェフ解任‥‥。これで大きな歯車が元に戻った(ように、見えた)のです。プーチン・ロシアのユーラシアニズムの実践講座の開闢が始まりました。

2010年、カザフスタンとベラルーシと関税同盟を結ぶと、ベラルーシのミンスクに「ユーラシア法廷」を立ち上げ、2013年からはEUの拡張を邪魔立てし、ウクライナを脅しました。翌年、キーウでマイダン革命がおこり、政権派とユーロ派の激突としてヤヌコヴィチ大統領が失脚、ロシアへ亡命しました。このあとの大統領選で俳優ゼレンスキーが登場して当選したのです。ウクライナはEUとNATOに近づきました。プーチンはウクライナのNATO接近を強力な方法で分断することに走ります。ウクライナ東部を「ノヴォロシア」と呼び、親ロシア派の軍事力を次々に潜入させていったのです。

あとはウクライナが折れるかどうか。ここから頻度の高い駆け引きが続くのですが、プーチンはぎりぎりになってこの展開を読み誤りました。大統領ゼレンスキーはまるで逆ドゥーギン=逆プーチンとして「欧米をとりこむユーラシアニズム」を標榜してきたのです。プーチンは容赦なくミサイルを打ち込むことにしたけれど、戦況はこじれています。欧米からの武器弾薬が供与されもしました。その後の事情の一部は、諸君がニュースでご存知の通りです。その後のドゥーギンの動向はそのうち明るみに出るでしょう。

コラム:知の冒険と「見えない」影響

私自身、学生時代に東欧史を専攻していたのですが、当時の私の関心は主に冷戦期の社会主義体制やその崩壊後の民主化プロセスにありました。しかし、今回のウクライナ戦争をきっかけに、改めてその地域の歴史を深く掘り下げると、教科書には載らないような「見えない」思想潮流が、いかに現代の国際政治に影響を与えているかを痛感しました。特に、ドゥーギンのような、かつては「異端」と見なされていた思想が、最高指導者の行動原理となり得ることには、知的探求の重要性と同時に、その知識の「危険性」を感じざるを得ません。

思えば、知的好奇心は、時に誰も足を踏み入れていない未踏の地へと私たちを導きます。それは純粋な喜びをもたらすこともあれば、今回のケースのように、世界に悲劇をもたらす思想の根源に触れることにもなります。この論文は、まさにその「見えない」影響力の源泉に迫ろうとする試みであり、私たちに「何を学ぶか」だけでなく、「どう学ぶか」「その知識をどう使うか」という問いを投げかけているのかもしれません。


第3章:ウクライナ蜂起軍(UPA)の全貌:その組織と活動の軌跡

ウクライナ蜂起軍(UPA)は、ウクライナ民族主義者組織のバンデロフ派(OUN-B)によって1942年末に創設された武装組織です。主にヴォルィーニ、ガリツィア東部、そしてカーゾン線の西側の地域で活動していました。UPAの国歌は「ウクライナ民族主義者の行進」でした。

UPAの目標は、独立した単一民族(多国籍)のウクライナ国家を創設することでした。彼らはこの目標に向かって、ドイツ占領当局、ポーランドパルチザン、ソビエト(1943~1945年)、ポレスカ・シチ、赤軍、そしてNKVD(内務人民委員部)と戦いました。ドイツ人との小競り合いにもかかわらず、UPAはある程度ドイツに協力した側面も持っていました。例えば、ソ連のゲリラと戦うためにドイツと現地協定を締結し、1944年にはドイツから時折供給を受けることもありました。

ウクライナ蜂起軍は、OUN-B組織の指揮の下、ポーランドの民間人に対する大量虐殺(ヴォルィーニ虐殺およびリヴィウ県、タルノポリ県、スタニスワフ県における民族浄化)に共同責任を負っています。一部の歴史家によると、UPAはテロ組織と位置づけられることもあります。1944年秋からは、UPAはポーランドの新しい国境内でポーランド陸軍、KBW、UBP、WAPとも戦いました。また、モー(民兵組織)や無防備なポーランドの村々だけでなく、ポストアコビアン部隊(例えば「ワルタ」グループ)やNSN、WiNの部隊も攻撃しました。共産主義後のアコビアン地下組織の活動も影響しました。

UPA設立の歴史と組織

1941年までOUNでは、ドイツの助けを借りて正規のウクライナ軍を創設すべきだという見方が優勢でした。そのため、独自のパルチザン部隊を創設するという考え方は、挑発的とさえ見なされていました。しかし、1941年9月と1942年夏にドイツはOUN活動家を大量逮捕しました。そのため、1942年末にリヴィウ近郊でOUN-Bの地域軍事担当者の会議が開催され、既存の戦闘構想が議論され、「OUN-SD(サモスティニキウ・デルジャヴニキウ)軍事部隊」という名称でパルチザン組織を創設することが決定されました。同時に、軍事規定と指示を策定するために、ヴァシル・イヴァヒフ「ソナル」、ミハイロ・メドヴィド「カルポヴィチ」、ルカ・パブリシン「ヴォフク」を含む作業部会が設置されました。

OUN-SDの最初の部隊の編成は、1942年10月中旬にポレシエで開始されました。OUNの軍事担当官であるセルヒイ・カチンスキー「オスタップ」がそれを指揮しました。2番目の部隊は、グリホリイ・ペレヒイニャク「ドフベシュカ=コロブカ」の指揮の下、ヴォルィーニで創設されました。1943年2月には、UPAの3つの新しいソトニア(中隊)が「ドロシュ」、「クルク」、「ホンタ」の指揮の下で創設されました。最初の部隊の行動は、グリホリイ・ペレヒイニャクのソトニアによる1943年2月7日のヴロジミエジェツの警察宿営地への攻撃でした。

OUN-SDの第3回会議(1943年2月17~21日開催)は、占領者との武装闘争の方針を承認しました。1943年3月20~30日には、コヴェルとルツク周辺のウクライナ補助警察の駐屯部隊が武器を持ってUPA側に寝返りました。この脱走はヴォルィーニ全域に広がり、総数11,000人以上の警察官のうち4,000~5,000人が参加しました。

1943年春には、OUN-SD部隊はすでに数千人規模になっていました。総司令部はドミトロ・クリャチキフスキが務め、地方軍事本部(KWSz)の長はヴァシル・イヴァヒフ(1943年5月13日の死まで)、その後はヴァシル・シドルでした。後の名称であるUPAは、タラス・ボロヴェツ「タラス・ブルバ」の武装編成から引き継がれました。現在、ブルバの部隊を区別するために、それらをUPA-ポレスカ・シチと呼んでいます。

ウクライナの歴史家は、UPAの公式設立日を1942年10月14日、聖母被昇天祭の日と定めています。この日は、1947年5月30日のウクライナ総解放評議会(UHWR)の決定により、UPAの祝日として制定されました。

UPAの組織構造

初期構造

UPAの最初の司令官はドミトロ・クリャチキフスキ(「クリム・サヴール」、「オフリム」)で、地方軍事本部(Krajowyj Wijśkowyj Sztab – KWSz)の長はヴァシル・イヴァヒフ(「ソナル」、「ソム」)でした。彼の死後、ヴァシル・シドル(「シェレスト」)が引き継ぎ、その後はレオニド・ストゥプニツキー「ホンチャレンコ」が就任しました。1943年末には、UPAは4つの軍事地区(wijśkowa okruha – WO)、またはグループ(hrupa)で構成されていました。

  • ザハヴァ(ヴォルィーニとポレシエの境界) - イワン・リトヴィンチュク「ドゥボヴィ」の指揮下。
  • トゥリウ(現在のヴォルィーニ州の地域) - ユーリー・ステルマシュチュク「ルディ」の指揮下。
  • ボフン(現在のリウネ州南部、クレメネツ地域、東ポドリエの一部) - ペトロ・オリーニク「エネイ」の指揮下。
  • トゥティウニク(現在のジトーミル州の地域) - フェディル・ヴォロベツィ「ヴェレシュチャカ」の指揮下。

UPA部隊は、ウクライナ東部地域(特にカームヤネツィ・ポディリスキー、ヴィーンヌィツャ、チェルカースィ周辺)にも襲撃を行いました。しかし、1943年以降の努力にもかかわらず、ウクライナ東部にUPAとOUNの組織を構築することはできませんでした。

1943年、ガリツィア東部ではUPAは正式には存在せず、ウクライナ民族主義者の別の組織であるウクライナ国民自衛団(Ukrajinśka Narodna Samooborona – UNS)が1943年6月3日から活動していました。これはオレクサンドル・ルチコ「ボフン」、「ボフダン」、「ベルクート」、「アンドリエンコ」の指揮下でした。この時期、リヴィウ、タルノポリ、スタニスワフの各ヴォイヴォデ(県)におけるKWSzの長はルカ・パブリシン「ヴォフク」でした。

1943年12月になって初めて、UNSはUPAに改編されました。この時点では、以下のWO(グループ)で構成されていました。

  • WO-1/バシュタ・グループ(リヴィウ、リヴィウ演習場) - ヴィクトル・ハルキフ「フマラ」
  • WO-2/ブフ・グループ(リヴィウ州) - オスタップ・リンダ「ヤレマ」、ヴァシル・レフコヴィチ「ヴォロニ」
  • WO-3/リソニア・グループ(タルノポリ州) - オメリアン・ポロヴィ「オスタップ」
  • WO-4/ホヴェルリャ・グループ(スタニスワフ州) - イワン・ブトコフスキー「フツル」、ミコラ・トヴェルドフリブ「フリム」
  • WO-5/マキウカ・グループ(ドロホブィチ州) - ボフダン・ヴィルシンシキー「オレル」、イワン・ベレイロヴィチ「ドズヴィンチュク」
  • WO-6/「シアン」グループ(レフスキー、プシェムィシユ、ヤロスワフの各郡) - ヤキウ・チョルニー「ウダルニク」
  • WO-7/スチャヴァ・グループ(ブコヴィナ) - 司令官は未指定
  • WO-8/スリブナ・グループ(ザカルパッチャ・ウクライナ) - アンティン・シュキタク「オメリアン」

組織の再編

1943年11月、UPA総司令部(Hołowne komanduwannia)とUPA総軍事本部(Hołownyj wijśkowyj sztab – HWSz)が設立されました。UPA総司令官にはロマン・シュヘヴィッチ(「タラス・チュプリンカ」)が就任し、HWSzの長にはドミトロ・フリツァイ(「ペレビニス」)が任命されました。HWSz副長にはオレクサ・ハシン(「リツァル」)が指名されました。

ポレシエとヴォルィーニで活動していた従来のUPAは、UPA-北部(UPA-Piwnicz)に改編され、ドミトロ・クリャチキフスキがその司令官に任命されました。UPA-北部は3つの軍事地区(WO)で構成されました。

  • 第I WO トゥリウ
  • 第II WO ザハヴァ
  • 第III WO ヴォルィーニ-南部(トゥティウニク)

一方、1944年8月からは2つの軍事地区(ザヴィホスト、444)となりました。

リヴィウ、タルノポリ、スタニスワフの各ヴォイヴォデでは、ヴァシル・シドル指揮下のUPA-西部(UPA-Zachid)が創設されました。1945年2月には、UPA-西部は4つの軍事地区(WO)で構成され、これらはさらに戦術区(Taktycznyj Widtinok – TW)に分かれていました。

  • WO-2/ブフ・グループ(リヴィウ地方) - ヴァシル・レフコヴィチ「ヴォロニ」
  • WO-3/リソニア・グループ(ポドリエ地方) - ヴォロディミル・ヤクボフスキー「ボンダレンコ」
  • WO-4/ホヴェルリャ・グループ(カルパティア地方) - ミコラ・トヴェルドフリブ「フリム」
  • WO-6/「シアン」グループ(ザケルゾン地方) - ミロスラフ・オニスフキヴィッチ「オレスト」

従来のWO-1はWO-2に併合され、WO-5、WO-7、WO-8はWO-4に併合されました。1944年11月から1945年4月まで、現在のポーランド領を包含するWO-6はWO-2の指揮下に入りました。戦術区はUPA-西部にのみ存在しました。

1944年1月末には、現在のリウネ州南部でUPA-南部(UPA-Piwdeń)の組織化が開始され、文献ではUPA-東部(UPA-Schid)とも呼ばれていました。

  • 第I WO ホウォドヌイ・ヤール
  • 第II WO ウルシャニ
  • 第III WO ヴィーンヌィツャ

UPA-南部司令官はヴァシル・クク(「レミシュ」)が務めました。1944年以降、UPA-南部は独立した組織としては存在しなくなりました。

UPA総軍事本部(HWSz)、地域UPA(北部、西部、南部 - Heneralna Wijśkowa Okruha – 総軍事地区 – HWO)の各本部、およびWO本部は、7つの部署(または部門)に分かれていました。作戦、偵察(諜報)、供給、人事、訓練、政治教育、軍事監察です。

1943年から1945年の間、基本的な戦闘単位はソトニア(中隊)でした。そのほとんどはキュレニ(大隊)に統合されました。一部の地域では、2つ以上のキュレニが一時的にザヒン(連隊)に統合されました。

UPAはウクライナ民族主義者の計画によれば、正規軍の基礎となることが想定されていたため、WOの部隊はグループ(師団に相当)を形成し、すべてのHWOのグループは軍団を形成すると仮定されていました。しかし、このような区分は純粋に理論的なものであり、紙の上でのみ作成されました。

部隊の種類

UPAの基本的な戦闘単位はソトニア(中隊)でした。ソトニアは3つのチョタ(小隊)に分かれ、さらに3つのロージェ(班)に分かれました。ロージェには通常2つのワンキ(分隊)がありました。1943年から1944年にかけては、ソトニアは4つのチョタを持ち、これらは4つのロージェを持っていました。ワンカは4〜6人の兵士で構成され、ロージェは8〜12人でした。ロージェの武装は通常、軽機関銃(rkm)、2〜3丁の短機関銃(pm)で構成され、残りはライフルで武装していました。ソトニアには司令官の補佐部隊があり、政治教育担当者(ポリトヴィホヴヌィク)、ソトニア長(ブンチュチュヌイ)、衛生兵、連絡員、場合によっては軍事憲兵(Wijśkowo-polowa żandarmerija)のロージェ、偵察兵、または重歩兵兵器部隊も含まれていました。理論的にはソトニアは163人で構成されるべきでしたが、1944年夏までは180〜200人のソトニアも存在しました。1944年秋からはソトニアは100〜130人となり、1946年からはその半分になりました。

UPAの階級

  • 下士官兵(riadowi):
    • ストリレツィ(striłeć):兵卒
    • スタルシイ・ストリレツィ(starszyj striłeć):上等兵
  • 下士官(pidstarszyny):
    • ヴィストゥン(wistun):伍長
    • スタルシイ・ヴィストゥン(starszyj wistun):軍曹
    • ブワウヌイ(buławnyj):曹長
    • スタルシイ・ブワウヌイ(starszyj buławnyj):上級曹長
  • 将校(starszyny):
    • ホロンジイ(chorunżyj):少尉
    • ポルチュヌィク(porucznyk):中尉
    • ソトニク(sotnyk):大尉
    • 少佐(major)
    • ピドポウコウニク(pidpołkownyk):中佐
    • ポウコウニク(połkownyk):大佐
  • 将官(henerały):
    • ヘネラウ=ホロンジイ(henerał-chorunżyj):准将
    • ヘネラウ=ポルチュヌィク(henerał-porucznyk):少将
    • ヘネラウ=ポウコウニク(henerał-połkownyk):中将

最後の2つの将官の階級は、UPAでは一度も与えられませんでした。階級章は存在せず、代わりに袖に各指揮官の階級を示す記章が付けられていました。

制服

様々なグラフィック(UPAであることがすぐにわかるように作成されたもの)とは異なり、UPA隊員が赤と黒の腕章や帽子のリボンを着用していたという証拠はありません(これらは旗の色彩でした)。インターネットで入手可能な写真の調査によると、私服、ドイツ軍、ソ連軍、さらにはポーランド軍の鹵獲(ろかく)された制服(以前の所有者のシンボルを削除した後)、またはそれらの混合物、時には密かに仕立てられたフレンチタイプのジャケットが使用されていました。シンボルとしては、ウクライナ人民共和国軍の現役軍のコカルデが使用されることが多く、これは退役軍人やその家族が所有していました。また、薄い板金から切り抜かれた様々なトライデント(三叉の槍)も使われました。UPA部隊の特徴的な(ただし部分的にしか使用されなかった)帽子はマゼピンカで、つばと額の縁にV字形の切り込みが入った丸い帽子でした。

UPAの表彰と勲章

表彰と勲章は、低いものから高いものへと次のように規定されていました。

  • 命令書での言及
  • 称賛
  • 青銅戦闘功労十字章
  • 銀戦闘功労十字章2級
  • 銀戦闘功労十字章1級
  • 金戦闘功労十字章2級
  • 金戦闘功労十字章1級

これらは戦闘勲章であり、非戦闘功労に対しては以下のものが授与されました。

  • 銀功労十字章
  • 金功労十字章
  • 「特に困難な状況下での戦闘功績」メダル(UHWRの1948年6月6日規定により導入)

UPAで最高の金戦闘功労十字章1級を授与された最初の兵士は、「シロマンツィ」大隊長ドミトロ・カルペンコ「ヤストルブ」少佐でした(1944年12月17日のノヴェ・ストリリシュチャ攻撃中に戦死)。

士官学校

UPAは常に訓練された下級士官の不足に悩まされていました。当初は、ウクライナ人民共和国軍(URL)やウクライナ・ハルィチナー軍(UHA)の元士官(例:イワン・レンバルヴィチ)が幹部として配置されましたが、後に彼らの年齢のため、一部は除隊させられ、一部は参謀業務に回されました。ほとんどの司令官は、第二次世界大戦前にポーランド軍や1938/1939年のシチ・カルパツカ部隊での勤務中に軍事訓練を受けていました(例:ロマン・シュヘヴィッチ、ヴァシル・ミゼルニ、ヴァシル・シドル、ミコラ・トヴェルドフリブ、ミロスラフ・オニスフキヴィッチ、イワン・シュポンタク、ヴォロディミル・シュチギエルスキ、ヴァシル・シシュカニネツ)。また、戦争中はドイツ第三帝国のウクライナ人部隊(ナハティガル大隊、ローランド大隊、ウクライナ補助警察、シュッツマンシャフト)での軍事および警察勤務を通じて訓練を受けていました(例:マリヤン・ルカシェヴィッチ、オスタップ・リンダ、ミハイロ・ドゥダ、ヤロスラフ・コチオレック、グリホリ・マズール、イワン・シマーンスキー、ヴァシル・アンドルシアク、オメリアン・ポロヴィ)。

イワン・カチャノフスキーの計算によると、OUN-BとUPAの司令官の少なくとも46%は、その経歴の中でドイツとの協力段階を持っていました。

  • 23%は様々な警察組織に勤務
  • 18%はドイツの軍事・諜報コースを修了
  • 11%はナハティガル大隊とローランド大隊に勤務
  • 8%はドイツの占領行政機関に勤務
  • 1%はSSガリツィアに勤務

1942年から1943年には、ドイツ・ソビエト戦争の初期段階で捕虜を免れた赤軍将校(例:ペトロ・ミコレンコ)がUPA、さらには高位の指揮官として受け入れられました。しかし、これによりUPA内にソビエト諜報網が形成され、OUN治安局は1943年8月にこれを解体しました。

そのため、アブヴェーアによってクラクフ、ザコパネ、ウィーンの軍事コースで訓練されたOUNの戦闘部門の幹部が活用され始めました。1943年には、将来の士官のための独自の学校(「訓練ソトニア」)を設立することが決定されました。そのようなソトニアでの訓練は4ヶ月間続きました。

1943年10月から1944年1月まで、ヴォルィーニではポリ少尉フェディル・ポロヴィ指揮下の学校「リソヴィ・チョルティ」が活動しました。1944年7月から10月まで、UPA-北部地域では、ホリン少尉指揮下の学校「ドルジニンキ」が活動しました。

ソビエト軍の接近に伴い、コースはガリツィアに移されました。カルパティア山脈では、1944年2月に学校「オレニ」が設立され、2つのコース「オレニ-1」(1944年2月~5月)と「オレニ-2」(1944年6月~10月)を訓練しました。学校の司令官はフミエル少尉で、彼の死後、フェディル・ポロヴィ少尉が引き継ぎ、オスタップ・リンダが副官を務めました。

全体として、上記の3つの学校で700人以上の士官が訓練されました。

兵力

  • 1943年初頭 - 15,000人
  • 1943年末 - 20,000人
  • 1944年春 - 25,000人から35,000人
  • 1946年春 - 3,500人から5,000人

プロパガンダ活動

UPAは、ラジオ局「サモスティイナ・ウクライナ(独立ウクライナ)」など、独自のプロパガンダ活動を展開しました。

UPAの活動

1943年春、OUN-SDの軍事部隊は、ヴォルィーニとポレシエで活動していたすべてのパルチザン部隊の統合を開始しました。1943年3月、バンデロフ派は、すべてのウクライナ人警察官がUPAに加入するよう命令しました。これに従わない者には、脱走の罪で逮捕・処刑すると脅しました。この命令の結果、約5,000人の訓練された警察官がUPAの隊列に加わり、その力を大幅に増強しました。

同時期に、ドイツとの開戦には大きなチャンスがないと正しく判断し、主にパルチザン戦に専念する決定も下されました。UPAの攻撃目標は、ヒトラーの行政機関、警察署、食料輸送隊となりました。

統合の意図をもって、1943年5月にはタラス・ボロヴェツ「ブルバ」率いるUPA(シチ・ポレスカ)との交渉が、「ウクライナ蜂起軍」という一つの組織に統合することを目指して始まりました。しかし、意見の相違、部隊の組織構造、そして司令官たちの野心が統合を阻みました。さらに、「ブルバ」はヴォルィーニで活動していた国内軍との戦闘を避けたのに対し、「クリム・サヴール」とOUN-SD全体はポーランド人を占領者と見なし、反ポーランドの行動は避けられないと考えていました。

1943年8月7~8日、イワン・クリミシン「クルク」指揮下のUPA-北部の部隊は、クレメネツ地区でミコラ・ネズヴェドツキー「クロン」指揮下のOUN-M(メーリニク派、ウクライナ蜂起軍、UPWの名称)の軍事部隊の武装解除を行いました。ほとんどのメーリニク派はUPAに加入し、フェディル・ポロヴィ「ポリ」、ヴァシル・シュトゥル「チョルノタ」、マキシム・スコルプスキー「マクス」、オレクサンドル・ヤツェニウク「ヴォリネツ」といった一部の司令官もUPAで指揮官の地位に就きました。

1943年8月18日、ブルバの部隊のほとんどは、OUNによって組織された部隊に強制的に組み込まれました。ブルバ=ボロヴェツは、自身の組織の残りをウクライナ人民革命軍(UNRA)と改称しましたが、そのわずか1ヶ月後、バンデロフ派の襲撃を受けて本部が解散し、組織は瓦解しました。

UPAの組織構造の急速な発展と兵力増強は1943年後半に起こり、特にそれまでドイツに仕えていたウクライナ警察官の大部分が脱走し、UPAに加わった後顕著になりました。また、1944年7月/8月には、赤軍によってブロディの戦いで第14SS擲弾兵師団が壊滅した後、約4,000人のウクライナ兵がUPAの部隊に合流しました。

1943年夏後半には、ヴォルィーニの広い地域がUPAの支配下に置かれ、蜂起共和国(例えばコルコフ共和国)が形成されました。ドイツは都市や大きな村、その周辺でのみ権力を保持し、ポーランド人は自衛拠点に身を隠し、ソビエトのパルチザンはヴォルィーニ北部でのみ活動できました。当時、UPAは6,000〜8,000人のパルチザンを擁する3つのパルチザン部隊を持っていました。自信を深めたUPAは、ザヒン(連隊)規模の大きな部隊で活動しました。また、OUNの民間ネットワークと選挙で選ばれた村議会を基盤として、行政当局も組織しました。土地を持たない貧しい農民にポーランド人から奪った土地を与え、ドイツのリーゲンシャフト(大規模農場)を分割するなど、農地改革も実施されました。

1943年秋には、ヴォルィーニで「ウクライナ革命戦線」という名称で活動していたティモフィイ・バシウク「ヤヴォレンカ」の反バンデロフ派グループは解体されました。

1943年11月には、OUNメーリニク派との間で再度交渉が始まり、合意に至りました。一つのUPAを創設することが決定され、ウクライナ軍人がドイツ軍部隊に参加することも容認されました(これらの人々を兵士の訓練に利用する計画でした)。ウクライナの自由のための戦いの期間中は、派閥間の敵意を抑えることが義務付けられ、メーリニク派の代表がUPA参謀本部での作業に参加することも許可されました。

しかし、1944年1月にロマヌス・スシュカ大佐が謎の死を遂げた後、メーリニク派とバンデロフ派の同盟は再び崩壊しました。

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コラム:制服が語る「混沌」

この章でUPAの制服について触れましたが、彼らが様々な国の軍服を混ぜて着ていたというのは、非常に興味深い点です。ドイツ軍、ソ連軍、時にはポーランド軍の制服を「再利用」し、以前のシンボルを消して着用する。これは単なる物資不足によるものではなく、UPAが置かれた複雑な地政学的な立ち位置を象徴しているようにも思えます。

かつて私も、古い軍服やミリタリーグッズを集める趣味がありました。それぞれの服には、その時代や国の歴史が染み付いているように感じられます。UPAの隊員が着ていた寄せ集めの制服は、彼らが複数の勢力と戦い、時には協力し、時には裏切られ、常に混沌の中にいたことを無言で語りかけてくるかのようです。それは、ウクライナという国が、歴史の中で常に強大な隣国に翻弄され、自らのアイデンティティを模索し続けてきた姿を、象徴的に示しているのかもしれません。


登場人物紹介

このレポートに登場する主要な人物やグループを、その役割とともにご紹介します。

歴史上の人物・思想家

  • ウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin):ロシア大統領。現在のウクライナ侵攻の首謀者であり、アレクサンドル・ドゥーギンのユーラシアニズム思想に深く影響を受けているとされる人物です。KGB出身。
  • アレクサンドル・ドゥーギン(Aleksandr Dugin):ロシアの地政学者、思想家。「新ユーラシアニズム」の提唱者であり、西側諸国のリベラル民主主義を批判し、ロシア中心の多極世界を主張しています。プーチンのブレーンとも評されます。
  • レフ・グミリョフ(Lev Gumilyov):ロシアの歴史家、地理学者。民族進化論「パッシオナールノスチ」を提唱し、ドゥーギンのユーラシアニズムに大きな影響を与えました。スターリン時代の強制収容所経験があります。
  • ニコライ・トルベツコイ(Nikolai Trubetzkoy):ロシアの言語学者、ユーラシアニズムの初期提唱者の一人。スラブ言語の音韻論研究からユーラシア言語同盟の概念を生み出しました。
  • ローマン・ヤコブソン(Roman Jakobson):ロシアの言語学者、文学理論家。プラハ言語学サークルの中心人物であり、構造主義言語学の発展に貢献しました。トルベツコイと共にユーラシア言語同盟を提唱。
  • ドミートロ・ドンツォフ(Dmytro Dontsov):ウクライナの民族主義思想家。ウクライナ民族主義組織(OUN)のイデオロギー形成に大きな影響を与え、「ナショナリズム」を著しました。
  • ミコラ・スツィボルスキ(Mykoła Sciborski):ウクライナ民族主義思想家。「ナツィオクラツィア」(民族統治)を著し、OUNの思想的基盤に貢献しました。
  • ドミトロ・クリャチキフスキ(Dmytro Klachkivskyi):UPAの初代司令官の一人。ヴォルィーニ虐殺の主な実行者の一人としてポーランド側から指摘されています。
  • ロマン・シュヘヴィッチ(Roman Shukhevych):UPAの総司令官。ウクライナ民族主義の象徴的人物の一人。
  • ステパン・バンデラ(Stepan Bandera):ウクライナ民族主義運動の指導者。OUNのバンデラ派(OUN-B)を率い、UPAのイデオロギーに大きな影響を与えました。
  • タラス・ボロヴェツ(Taras Borovets):UPAの初期組織の一つである「ポレスカ・シチ」の司令官。後にバンデラ派UPAに吸収されました。
  • ウラジーミル・ソロヴィヨフ(Vladimir Solovyov):ロシアの哲学者。ニコライ・トルベツコイの叔父にあたります。
  • アレクサンドル・ブローク(Aleksandr Blok):ロシアの詩人。ウラジーミル・ソロヴィヨフの甥にあたります。

現代の政治家・関係者

  • ドナルド・トゥスク(Donald Tusk):ポーランド首相(2025年時点の想定)。国内保守派の支持固めのため歴史問題に強い姿勢を取っていると指摘されています。
  • ヴォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelenskyy):ウクライナ大統領。ロシアのウクライナ侵攻に対する抵抗の象徴であり、欧米からの支援を維持するため、歴史問題においても微妙な対応を迫られています。
  • アントニオ・グテーレス(António Guterres):国連事務総長。ロシアのウクライナ侵攻開始時に、プーチン大統領に戦争停止を呼びかけました。
  • アンゲラ・メルケル(Angela Merkel):元ドイツ首相。プーチン大統領について「彼は別世界に住んでいる」と評したことで知られています。
  • チャールズ・クローヴァー(Charles Clover):フィナンシャル・タイムズ元モスクワ支局長。著書『ユーラシアニズム』で、ドゥーギンの思想とプーチン政権の関係を詳細に分析しています。
  • ヴィクトル・ユシチェンコ(Viktor Yushchenko):元ウクライナ大統領。2006年にUPAを「解放運動」と認める大統領令に署名しました。
  • ペトロ・ポロシェンコ(Petro Poroshenko):元ウクライナ大統領。2015年にUPA隊員を「ウクライナ独立のための戦士」と認定する法案に署名しました。

第3章A節:ヴォルィーニおよびガリツィア東部におけるポーランド人虐殺

1943年2月、UPAは占領下のヴォルィーニ県でポーランド人住民の殲滅作戦を開始しました。これは、UPA指導部が終戦後にポーランド・ウクライナ紛争が再燃することを懸念し、事前に係争地域からポーランド人を排除しようとしたためとされています。この決定がOUN-Bの第3回会議で下されたのか、あるいはUPA司令官ドミトロ・クリャチキフスキが独断で開始したのかについては、依然として議論が続いています。国立記憶研究所(IPN)の捜査部門は後者の見解に傾いています。ウクライナ補助警察からの脱走兵によって増強されたUPA部隊は、パロシュレやヤノヴァ・ドリーナなど、多くのポーランド人居住の村々を攻撃しました。

虐殺の頂点は、1943年7月11日に訪れました。ドミトロ・クリャチキフスキがUPA-北部司令部から、16歳から60歳までのポーランド人男性住民を大量に排除する大作戦を実施するよう秘密指令を発出した直後です。この残忍な殺戮には、ウクライナの民間人も多数参加しました。1943年7月だけで、少なくとも530のポーランドの村や集落が襲撃され、17,000人ものポーランド人が虐殺されました。その後も1943年8月とクリスマスに攻撃が激化しました。ポーランド人住民は、大規模な都市や自衛拠点でのみ生き残ることができました。

組織的な犯罪行為は1944年2月まで続き、歴史家の推定によると、ヴォルィーニだけで5万~6万人のポーランド人が死亡したとされています。1943年8月のOUN(B)第3回大会では、ヴォルィーニでの虐殺をリヴィウ、タルノポリ、スタニスワフの各県でも繰り返すことが提案され、多くの代表の支持を得ました。グジェゴシュ・モティカによると、この大会で反ポーランド人浄化の決定が下されたか、あるいはUPA司令官ロマン・シュヘヴィッチに決定が委ねられ、彼はヴォルィーニ訪問後、遅くとも1943年秋にはその決定を下したとされています。

遅くとも1944年3月には、UPA総司令部から、ポーランド人を死の脅威の下で追放するよう命令が出されました。ポーランド人がその場に留まる場合、ポーランド人男性は殺害され、家屋や財産は焼かれることになりました。しかし、実際にはこの制限は守られないことが多く、UPA部隊は女性や子供までも殺害しました。

その結果、歴史家の調査によると、リヴィウ、タルノポリ、スタニスワフの各県では2万~2万5千人から3万~4万人ものポーランド人が殺害されたと推定されています。エヴァ・シエマシュコは犠牲者数を7万人と推定しています。1944年春から夏にかけて、約30万~40万人のポーランド人が、殺害を恐れて、また1944年1月に赤軍が第二次ポーランド共和国領土に侵攻し、ソビエト・ドイツ戦線が接近する中、ソビエト占領とNKVDの恐怖から逃れるため、リヴィウ、タルノポリ、スタニスワフの各県から避難しました。

ヴォルィーニおよびリヴィウ、タルノポリ、スタニスワフ各県におけるポーランド人住民の絶滅には、UPAだけでなく、チェルニ(「黒い衆」と呼ばれるウクライナ人民間人)も参加しました。また、4SS警察連隊(フタ・ピェニアツカ、ポドカミエン、パリクロヴィにおいて)やSKW(イフロヴィツァでの殺害)との協力事例も報告されています。

ルブリンの国家記憶研究所(OKŚZpNP)支局では、ウクライナ民族主義者がヴォルィーニのポーランド人に対して犯した犯罪に関する捜査が進行中です。ヴロツワフのOKŚZpNP支局では、旧タルノポリ、スタニスワフ各県およびポーランド国外のリヴィウ県の一部で犯された犯罪に関する捜査が進行中です。これらの犯罪は、法的にはジェノサイドと認定されています。

全体として、UPAによって開始された反ポーランド人作戦の結果として生じたポーランド人住民の損失は、8万~10万人のポーランド人、12万人のポーランド人、さらにはドイツに仕えたウクライナ人部隊の犠牲者やポーランド以外の国籍のウクライナ民族主義者の犠牲者を含め、18万5千人に上ると推定されています。

グジェゴシュ・モティカ(2011年)は、「引用された数字に照らして、UPAの行動によるポーランド人の損失は、おそらく約10万人の死者(ただし10万人よりわずかに少ないか、それ以上ではない)であったと考えられる。15万人や20万人といった、より高い数字がメディアで頻繁に登場するのは、おそらく単なるセンセーションを巻き起こすためであり、真剣な科学研究では裏付けられていない」と述べています。

2009年7月15日、ポーランド共和国セイムは、ヴォルィーニ虐殺でOUNとUPAのメンバーによって殺害されたポーランド人およびその他の国籍の人々の記憶を称える決議を全会一致で採択しました。

ウクライナ人に対する殺害

ウィキペディアの整理(2015年5月より:定義を記述・修正し、空虚な言葉を削除)

このセクションはより詳細な情報が必要です。2015年5月以降、定義を記述・修正し、冗長な表現を削除する必要があります。

ウクライナの民間人がポーランド人に対して示した友好的な態度はすべて、OUN-UPAにとっては民族の理想に対する裏切りの表れでした。IPNが収集したデータによると、384人のウクライナ人がポーランド人を助けたためにUPAによって殺害されました。SUOZUNのシュチェパン・シエキエルカによると、調査は約1,000人の犠牲者というより高い数字を示しています。

全体として、ヴォルィーニではUPAの手によって846~847人のウクライナ人が犠牲になりました。KGBソ連のデータによると、1944~1953年にOUN-UPAの手によって約3万人が犠牲になり、その中には8,340人の兵士、2,732人のソビエト当局代表、約1万7千人の民間人が含まれています。

UPAとユダヤ人住民

1942年のOUN-B第2回会議では、ユダヤ人に対する否定的な姿勢が示されました(彼らは「モスクワ・ボルシェヴィキ帝国の道具」と見なされました)。しかし、ドイツの反ユダヤ活動には参加しないよう勧告されました。これは、「主要な敵から注意をそらさないため」などの理由からでした。その後、1942年末には、OUN-Bはウクライナ領土からユダヤ人とポーランド人を追放する作戦を勧告しました。UPA部隊編成期には、OUN-B指導部は、英国と米国におけるユダヤ人コミュニティの重要性から、ヴォルィーニとガリツィアのユダヤ人は将来のウクライナ国家から追放されるべきであり、財産の一部を持ち去る権利を認めるべきだと考えていました。

しかし、その後の数ヶ月間で、ドイツがこれらの地域でユダヤ人コミュニティを絶滅させたため、UPAは反ポーランド活動に重点を置くようになりました。わずかに生き残ったユダヤ人避難民に対しては、様々な政策が取られました。捕らえられた一部の者は殺害されましたが、特にUPAに有用な技能を持つ者(医師、武器職人など)はUPAに編入され、主に後方支援要員として活動しました。彼らの家族にも避難場所が提供されました。UPAは、パルチザンが食料を供給するユダヤ人家族のためのキャンプさえ開設しました。見返りに、ユダヤ人は地下組織のために靴や衣服の製造に従事しました。

この事実は歴史文献で広く認められていますが、ポーランドとユダヤ人の歴史家は、UPAに編入された、またはこの組織に保護されたほとんどすべてのユダヤ人が、ソビエト軍がウクライナ西部に侵攻し始めた際、UPA治安局の命令によって最終的に殺害されたことを記録しています(UPAは彼らの部隊にユダヤ人がいることで組織が露呈することを恐れたためです)。

1944年後半に赤軍がUPAの活動地域を占領した後、UPAはユダヤ人に対する行動を禁止する一連の命令を発しました。これは、このコミュニティが絶滅したため「ユダヤ人問題は問題ではなくなった」と指摘したためです。UPA総司令部は、1943年11月1日には、独立したウクライナ国家ではユダヤ人は完全な市民となるという情報を広めるよう命じました。翌年8月には、出身のみを理由としたユダヤ人の殺害が禁止され、旧NKVD協力者のみの殺害が許可されました。

UPAに入らなかった一部のユダヤ人は、ポーランドの自衛隊やソビエトのパルチザンと協力してウクライナの民族主義地下組織と戦いました。モティカは、UPAによって殺害されたユダヤ人の数を1,000~2,000人と推定していますが、資料の不足を指摘しています。

UPAの活動を正当化する著者は、この組織によるユダヤ人に対する犯罪を否定し、その情報がソビエトのプロパガンダによって捏造されたと主張しています。一方、ウクライナの歴史家の間では、UPAが部隊に編入したりキャンプで保護したりしたほぼすべてのユダヤ人を最終的に殺害したという事実を否定することが一般的です。UPA関連の著者は、ユダヤ人キャンプはドイツの対パルチザン作戦中に解体されたため、赤軍侵攻時に存在していたのはごく一部に過ぎないと主張しています。その際、UPA隊員は住民を解放したとされています。モティカによると、これらの主張はポーランドやユダヤ人歴史家の研究よりも信頼性が低いとのことです。ウクライナ部隊にいたユダヤ人のごく一部しか脱走できませんでした。

UPAはまた、潜伏していた少数のユダヤ人や数人のグループを殺害したり、ポーランドの村への攻撃中にユダヤ人を殺害したりすることもありました。

武装闘争

1943年春、OUN-Bはガリツィア東部にUPAとは独立した組織であるウクライナ国民自衛団の部隊を創設し始めました。1943年7月~8月にシドル・コフパク指揮下のソビエトパルチザン部隊が東カルパティア山脈へ襲撃したことは、OUN-Bに組織活動の強化を促しました。コフパクの部隊は壊滅しましたが、ウクライナ人はソビエトの他のパルチザン部隊がカルパティア山脈を占領することを恐れていました。そのため、UNSの小規模グループを統合し、UPA-西部を形成してUPAに再編する作業が開始されました。このグループの部隊は、1943年後半にカルパティア山脈で掃討作戦を行っていたドイツ部隊と数回の激しい戦闘を行いました。

1943年秋、UPAはソビエト権力の帰還に関連する準備を開始しました。避難壕を建設し、武器を蓄積し、食料備蓄を準備し、軍事訓練とプロパガンダ活動を行いました。

彼らは、大規模な森林複合体で戦線の通過を待ち、一部の部隊はガリツィア東部に派遣されました。ドイツ軍への攻撃は停止され、武器や弾薬の獲得目的でのみ例外が認められました。

UPAとNKVDの最初の衝突は1944年1月18日に発生しましたが、大規模な掃討作戦は1944年4月に始まりました。NKVDとUPAの最大の戦闘には、勝敗不明のフールビの戦いがありました。

1944年夏、UPA部隊はミハイロ・シュカイエフ指揮下のソビエトパルチザン部隊と黒い森を巡って激しい戦闘を繰り広げました。

ポーランド国内では、UPAの最大の活動は、1945~1946年のウクライナ人住民のソ連への移送を武力で阻止しようとする試みでした(この時、鉄道駅や鉄道インフラが破壊され、移送委員会が追い払われ、送還ポイントで拘束された人々が解放されました)。また、ポーランド人の入植を阻止するため、移送作戦後に放棄されたウクライナの村を破壊する活動も行われました。ポーランド領におけるUPAの活動の最終的な終わりは、1947年夏に実施されたヴィスワ作戦によってもたらされました。

2007年、ウクライナの公文書で、1944~1950年にUPAに帰属された犯罪の一部が、ソビエトNKVDの特殊部隊の仕業であったことを示す情報が「発見された」とされました。これらの部隊の中には、NKVDのために働いていた元UPA隊員も多数含まれていました。ウクライナ保安庁(SBU)は、約150のそのような特殊部隊が1,800人を数え、1954年まで活動していたと発表しました。しかし、グジェゴシュ・モティカによると、UPAを装ったNKVD隊員がポーランドの村を襲撃したことを示す文書化された事例は存在しないとのことです。

コラム:歴史の「操作」と「真実」の探求

この章を執筆する中で、私が強く感じたのは「歴史の操作」がいかに容易であり、かつ破壊的であるか、という点です。特に戦争という極限状況下では、プロパガンダが横行し、都合の悪い事実は隠蔽され、都合の良い事実は誇張されます。UPAに関する記述も、ウクライナ側とポーランド側、そしてロシア側でそれぞれ異なる「真実」が語られているのが現実です。

私たちがジャーナリストとして、あるいは歴史を学ぶ者としてできることは、まず複数の情報源を比較検討し、一次資料にアクセスすることです。そして、その情報がどのような意図で、誰によって発信されたのかを常に問いかける、批判的思考を持つことです。歴史の真実は、一つではないかもしれません。しかし、真実に近づこうと努力する姿勢そのものが、未来の誤解や紛争を防ぐための、最も重要な一歩だと私は信じています。


第4章:戦後のUPA評価と記憶の政治

ソ連時代、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の歴史家たちは、UPAのドイツとの戦いやソビエト権力との戦いへの関与が隠蔽されていたため、UPAの活動に関する信頼できる研究を行うことができませんでした。グジェゴシュ・モティカは、反共産主義地下組織は、犯罪的で、協力者であり、盗賊的であるという黒い側面からのみ記述されることが許されていたと述べています。同様に、ポーランド人民共和国(PRL)の歴史学もイデオロギー的な歪曲を受けていましたが、興味深い著作も登場しました。政治的な理由から、クレシ・ヴフドニエ(ポーランド東部辺境地帯)でUPAが犯した真の犯罪については語られず、特にフィクション作品では、戦後のポーランド領におけるUPAの架空の犯罪描写や、誇張された現実描写によって補填されていました。グジェゴシュ・モティカによると、UPAにとって有利な事実(ウクライナの国家主権のための戦い)は省略され、ドイツ第三帝国との協力の事実が強調されていたとされています。グジェゴシュ・モティカは、PRLのプロパガンダの目的は、ポーランド人がウクライナ独立の理念に反対するように仕向け、強制移住させられたポーランド人の辺境地帯への郷愁を和らげ、UPAと戦ったポーランド人民共和国の職員をポーランドの愛国者として描くことだったと考えています。

イホール・イリュシンとグジェゴシュ・モティカは共に、独立後のウクライナとポーランドの歴史学は、共産主義時代からUPAとポーランド・ウクライナ関係の歪曲されたイメージを受け継ぎ、これらのテーマの調査をゼロから開始する必要があったと考えています。

UPAは、ウクライナの東部と西部では異なる評価を受けています。国内東部では民族主義パルチザンは完全に否定的に受け止められている一方、西部では一部のウクライナ人が彼らを崇拝しています。ウクライナの出版物はUPAのソ連やナチス・ヒトラーとの戦いに焦点を当て、ポーランド人に対する組織の態度を些末化するか、あるいは出来事の経過をパルチザン戦争として扱っています。

「このような評価には同意しがたいです。ポーランド人住民に対して犯された犯罪は、ウクライナのパルチザン運動における血まみれの汚点です。そして、それは他の中東欧の反共産主義運動とは異なる特徴であると思われます。民間人に対する殺害は、様々な民族パルチザン組織、例えばポーランドの組織によっても犯されましたが、これほど大規模な組織的な民族浄化を行ったのはUPAだけです。この場合、他の反共産主義パルチザン運動というよりも、バルカン半島やルワンダでの出来事を想起させます。」

一方、ポーランドではUPAは主にポーランド人に対するジェノサイドの観点から見られています。タデウシュ・イサコヴィチ=ザレスキー神父は、ウクライナ蜂起軍は、SSやゲシュタポと同様に、何十万人ものポーランド人、ユダヤ人、ウクライナ人、その他の国籍の人々の苦しみに責任を持つ犯罪組織であり続けるだろうと述べています。ポーランドの辺境地域出身者とその支持者も同様の見解を示しています。

「多くのポーランド人にとって、OUNとUPAは犯罪組織であり、そこには血まみれの加害者しか存在し得ませんでした。多くのウクライナ人は、これらの組織のメンバーが兵士の美徳の化身であり、聖なる大義のために命を捧げた騎士であると信じています。この2つの全く異なる立場が、UPAに関するポーランド・ウクライナ間の議論の場を決定しています。」

グジェゴシュ・モティカ(2011年)は、「民族主義者が孤立した社会集団であったという主張も神話です。ウクライナ西部の人口の1~2パーセントがウクライナの地下組織を経験しました。リトアニアや他の多くの国でも、抵抗運動に参加した割合は正確に同じです。これは、特に戦後のUPAと共産主義者との戦いが、ヴォルィーニやガリツィア東部で絶大な社会的支援を得ていたことを示しています。実際、それがなければ、地下組織がソビエトの条件下でこれほど長く存続することは不可能だったでしょう。」と述べています。

戦後のUPA記念活動

1994年、フルショヴィツェ村に、ポーランドで唯一のUPA記念碑が建設されました。これは、1946年にザケルゾニエで戦いの中で倒れたUPAの戦闘員を記念するものでした(2017年4月26日に破壊されました)。

1995年、ポーランドのウクライナ人連合の最高評議会は、スターリン時代に投獄されたUPA隊員に退役軍人資格を付与する法案をセイムに提出しました。この法案では、ウクライナ人連合がヴィスワ作戦の犠牲者にポーランド国家が賠償金を支払うことも提言していました。

1995年1月25日、セイムの少数民族・民族委員会およびROPWiMは、ポーランドのウクライナ人連合との協力協定を締結し、ウクライナ人を追悼するための基準を定めました。この決議では、記念の場所は実際の埋葬地と関連付けられるべきであり、プレートや記念碑の碑文は二言語表記でなければならず、ポーランド人の感情を傷つけるものであってはならないと合意されました。このイニシアチブは、ポーランドのウクライナ人連合の代表者を含むすべての出席者によって支持されました。

2006年10月14日、UPA創設64周年に、ヴィクトル・ユシチェンコ大統領は、ウクライナ蜂起軍を解放運動として認定する大統領令に署名しました。この大統領令は、該当する決議がまだウクライナ議会で採択されていないため、単なるプロパガンダ的意味合いしか持ちません。さらに、ウクライナ大統領には、誰かに退役軍人資格を付与し、それに関連する特権や減免を認める権限はありません。

2007年10月11日、ボリス・タラシウクはユシチェンコ大統領に、UPAを国家の独立のために戦った側として認定する大統領令を発するよう求めました。ウクライナ人民運動の議長としてのタラシウクの発言は、UPA創設65周年を控えた週に行われました。彼の訴えの中で、彼は「UPAは国民に対する義務を名誉をもって果たしており、国家と国民からの記憶と尊敬に値する」と評価しました。

2009年6月16日、リトアニア議会でウクライナ蜂起軍を称える展示会が盛大に開幕しました。ウクライナ側が準備したこの展示会の開幕には、リトアニアセイム副議長アルギス・カシュエタ、リトアニア住民虐殺・抵抗研究センター所長テレセ・ビルテ=ブラウスカイテ、リトアニアセイム議員ダリア・コウディテ、欧州議会議員ヴィータウタス・ランズベルギス、駐リトアニア・ウクライナ大使イゴール・プロコプチュク、ウクライナ保安庁分離国家公文書館長ヴォロディミル・ヴィアトロヴィチらが参加しました。その後、この展示会はリガとタリンでも展示される予定でした。

2021年10月、リヴィウ地域評議会は、2022年をウクライナ蜂起軍の年と宣言する決議を採択しました。議員たちはまた、ウクライナ最高議会に国家レベルでそのようなイニシアチブを取るよう訴えました。2021年12月末、最高議会は、2022~2023年に国家レベルで記念される重要な歴史的記念日に関する決議を採択しました。その中には、2022年に当たるUPA創設80周年も含まれていました。

戦後のUPA非難

2009年10月27日、オポーレ県議会は、UPAとOUNによって犯されたポーランド人犠牲者を追悼する決議を採択しました。この文書では、これらの組織が犯罪的であると認定されました。

2009年12月28日、ポドカルパチェ県議会は、第二次ポーランド共和国の東部辺境地帯で、OUN-UPAの犯罪者によってポーランド国民に対してジェノサイドを行ったことを非難する決議を採択しました。

2010年2月23日、ルブスキエ県議会は、ウクライナ西部におけるウクライナ民族主義組織とウクライナ蜂起軍の賛美、およびステパン・バンデラへのウクライナ英雄称号付与を非難する決議を採択しました。

2015年4月9日のウクライナ議会の決議に対し、UPAの戦闘員をウクライナ独立のための戦士と認定し、OUN-UPAへの批判を禁止する法律を導入したことに対し、欧州(ウクライナ人を含む)および米国の一部の歴史家とウクライナ専門家は、ウクライナ大統領ペトロ・ポロシェンコと議会議長ヴォロディミル・フロイスマンに公開書簡を送り、議会での議論なしに採択されたこの決定、言論の自由の制限を批判し、ウクライナ大統領にこの決議を拒否するよう求めました。特に、第二次世界大戦中にポーランド人に対するジェノサイドに参加したUPA、そして1941年にドイツ占領下でユダヤ人ポグロムに参加したOUN、さらにOUNのメーリニク派が戦争中ずっとナチス・ドイツの同盟者であった組織への批判を禁止することは懸念されるとされました。

これらの声に耳を傾けず、2015年5月15日、ペトロ・ポロシェンコは、上記を含む法律群に署名し、UPA隊員をウクライナの自由のための戦士と認定し、退役軍人としての特別な社会的保障と国家優遇措置を受ける権利を与えました。これらの法律の著者の一人は、UPAの副司令官であったユーリー・シュヘヴィッチの息子でした。

コラム:記憶の「多角性」と向き合う

私は以前、歴史研究者の方々と議論する機会がありました。その中で印象的だったのは、一つの歴史的出来事であっても、立場や視点が変われば、全く異なる「記憶」が形成されるという現実です。UPAの評価はまさにその典型例であり、ウクライナにとっては「独立の英雄」でも、ポーランドにとっては「虐殺者」となる。どちらか一方が完全に正しく、もう一方が完全に間違っていると断じることは、極めて困難です。これは、私たちが「真実」を追求する際に、どれほど多角的な視点を持つことが重要かを教えてくれます。私たちがメディアを通じて受け取る情報も、常に誰かの「語り」であることを忘れずに、批判的に向き合う姿勢が求められていると感じます。


第5章:協力と対立:歴史問題がもたらす日本への影響

ポーランドとウクライナ間で顕在化している歴史問題は、直接的に日本に影響を与えるものではありません。しかし、その根底にある複雑な国際関係の力学や、歴史が現代に与える影響のあり方について、日本が学ぶべき教訓は数多く存在します。

直接的な軍事・経済的影響の限定性

まず、ポーランドとウクライナの歴史問題は、両国間の内政と外交の範疇に留まるものであり、日本が直接的に軍事的介入を求められたり、経済的な制裁を受けたりするような性質のものではありません。紛争の焦点は、あくまで第二次世界大戦中の出来事とその解釈、そして現代における追悼と和解のプロセスにあります。日本の貿易や安全保障に直接的な影響を及ぼす可能性は限定的と言えるでしょう。

歴史認識問題の複雑さから学ぶ教訓

しかし、この問題から学ぶべき教訓は深いです。ポーランドとウクライナに見られるように、隣国間での歴史認識の対立は、現代の外交関係や国民感情に深く影響を与え続けるものです。特に、戦争や民族浄化といった痛ましい過去を持つ国々では、その記憶がナショナルアイデンティティの形成に不可欠な要素となり、世代を超えて語り継がれていきます。これは、日本と中国・韓国との間の歴史問題にも通じる普遍的な課題と言えるでしょう。

相互理解の難しさ、和解のプロセスの複雑性、そして「過去の出来事をどのように評価し、記憶するか」という問題が、いかにセンシティブなものであるかを、このケースは私たちに示唆しています。日本が自国の歴史を国際社会に説明する際にも、相手国の歴史的経験や視点への配慮が不可欠であり、一方的な主張だけでは真の理解は得られないことを再認識する機会となります。

プロパガンダと情報戦の現代的意義

ロシアがUPAの歴史を「ウクライナ=ナチス」と宣伝し、ウクライナ侵攻を正当化しようとしている構図は、歴史がいかにプロパガンダの道具として利用され、世論操作や国際的なレッテリングに用いられるかを示しています。現代の国際関係においては、軍事力や経済力だけでなく、情報の影響力、すなわち「情報戦」が非常に重要な側面を占めています。

日本も歴史問題において他国からのプロパガンダに直面することがあります。このレポートは、いかに正確な情報に基づいた多角的な視点を持つことが重要か、また情報戦がいかに現代の国際関係において不可欠であるかを理解する上で役立ちます。フェイクニュースや歴史の改ざんが容易に行われる現代において、情報の真偽を見極めるリテラシーは、個人だけでなく国家にとっても極めて重要です。

地政学的変動が日本に与える間接的影響

ロシア・ウクライナ戦争は、世界のエネルギー供給、食料供給、サプライチェーンに大きな影響を与えています。日本はエネルギー資源の多くを輸入に頼っており、これらの変動は日本の経済や安全保障に間接的な影響を与えています。欧州の安全保障環境の変化(NATOの強化など)は、インド太平洋地域の安全保障(米国との同盟関係や中国・北朝鮮への対応)とも連動する可能性があります。

特に、地政学的な文脈で「ユーラシアニズム」という思想がプーチン政権の行動原理となっていることは、単なる東欧の問題に留まりません。ロシアの勢力圏拡大への志向は、中央アジアや極東、ひいては北東アジアの安全保障環境にも影響を及ぼす可能性があります。日本は、極東におけるロシアの軍事動向や、中国・北朝鮮との連携の可能性を注視し、防衛戦略を構築していく必要があります。

また、ウクライナがポーランドからの支援を強く依存している中で歴史問題が再燃する現象は、同盟関係や協力関係においても歴史問題が完全に「封印」されるわけではないことを示しています。これは、日本が米国や他の国々と同盟関係を維持する中で、歴史問題がどのように潜在的な摩擦の種となり得るかを考察する上で参考になります。長期的な同盟関係の維持には、表面的な協力だけでなく、歴史認識に関する粘り強い対話と相互理解への努力が不可欠であることを示唆しているのです。

コラム:歴史が示唆する「未来への羅針盤」

私が国際政治の報道に携わる中で、常に意識しているのは、目の前の出来事だけでなく、その背後にある深い歴史の文脈です。特に、日本は島国であり、直接的な陸続きの隣国との歴史問題とは異なる経験をしてきました。しかし、ポーランドとウクライナの事例は、私たちにも共通する普遍的な教訓を与えてくれます。

歴史は、時として私たちを束縛する重荷となる一方で、未来への羅針盤ともなり得ます。過去の過ちを繰り返さないために何をすべきか、異なる記憶を持つ人々とどう共存していくか。これらの問いは、東欧だけでなく、国際社会全体、そして私たち日本が向き合うべき普遍的なテーマです。このレポートが、読者の皆様にとって、複雑な世界の動きを理解し、より良い未来を築くための「知の羅針盤」となることを願ってやみません。


第6章:歴史的位置づけと今後の研究課題

このレポートは、学術論文としての厳密な形式ではないものの、ロシア・ウクライナ戦争という現代の地政学的危機の中で、第二次世界大戦期の歴史問題(特にポーランド・ウクライナ間の対立)がいかに再燃し、複雑な国際政治の道具として利用されているかを考察しようとした試みです。その思想的背景としてユーラシアニズムを提示している点で、現代史における特定の時期の「問題提起」として位置づけられます。

ヴォルィーニ虐殺、UPA、ユーラシアニズムの歴史的位置づけ

ヴォルィーニ虐殺は、第二次世界大戦中の東欧における民族間の深い対立と悲劇の象徴です。ポーランドとウクライナの関係において、戦後70年以上経っても両国間に影を落とす、未解決の歴史認識問題として位置づけられます。この事件は、戦争がもたらす極限状況下での残虐行為と、民族主義が引き起こす悲劇の典型例として、記憶されるべきものです。

ウクライナ蜂起軍(UPA)は、ウクライナの歴史において、ソ連、ナチス・ドイツ、ポーランドという複数の占領勢力に対抗し、独立を目指した武装組織でした。ウクライナ国内、特に西部では独立闘争の英雄として評価される一方で、ポーランドではポーランド人に対するジェノサイドを実行した犯罪組織として断罪されています。この対立する歴史認識は、中東欧におけるナショナルヒストリーの再構築と記憶の政治の重要かつ困難な側面を浮き彫りにしています。

ユーラシアニズムは、20世紀初頭に起源を持つロシアの哲学的・地政学的思想であり、現代のロシアのプーチン政権の外交・軍事戦略の思想的根拠となっていると考えられています。西側リベラル民主主義やグローバリズムに対抗する「多極世界」の構築を目指すこの思想は、21世紀の国際秩序を巡る思想的対立の一翼を担うものとして、その重要性が高まっています。

学術研究における今後の方向性

このような複雑なテーマを扱うには、多角的かつ厳密な研究が不可欠です。以下に、今後の研究が求められる領域を挙げます。

ポーランド・ウクライナ間の歴史和解プロセス研究
ヴォルィーニ虐殺の歴史認識問題が、両国の政治・文化・社会に与える影響の継続的な分析が必要です。戦争中の「協力」が、長期的和解に資するか、あるいは新たな摩擦を生む可能性を探る研究も重要でしょう。学術的対話、教育プログラム、市民社会の交流などを通じた和解のベストプラクティスの特定と評価、さらにドイツとイスラエル、ドイツとポーランドなどの第三国の和解経験からの示唆を考察する比較研究も求められます。
歴史の政治利用とプロパガンダ研究
ロシアの「ウクライナ=ナチス」プロパガンダの構造、その効果、そしてそれが国際世論に与える影響に関する詳細な分析は喫緊の課題です。ウクライナが自国の民族主義的歴史(UPAを含む)を、西側からの支援維持と両立させるために、どのように国際社会に提示しているかの戦略研究も欠かせません。AIやデジタル技術が、歴史の改ざんやプロパガンダにどのように利用されているか、そしてそれに対抗するためのデジタル・リテラシー教育やファクトチェックの強化に関する研究も重要です。
ユーラシアニズムとロシアの地政学の深化
アレクサンドル・ドゥーギンの思想が、プーチン政権の実際の政策決定プロセスに具体的にどれほどの直接的影響を与えているかの実証的研究が必要です(ロシアの政治エリートの思想的背景の多様性も考慮に入れるべきでしょう)。ユーラシアニズムが、ロシア国内の世論やナショナリズムの形成に与える影響の分析や、ロシアがユーラシアニズムを外交ツールとして、中央アジア、コーカサス、東欧諸国にどのように展開しているかの地域研究も不可欠です。
記憶の政治学とグローバルヒストリー
個人の記憶、集合的記憶、国家の記憶が、いかに構築され、衝突し、変容していくのかの学際的研究(歴史学、社会学、心理学、文化人類学など)は非常に有益です。グローバル化時代における歴史認識の共有と相違に関する国際比較研究。特に、植民地主義、大戦、冷戦といった大きな歴史的出来事が、地域ごとに異なる記憶として定着している現象の分析も重要です。「負の遺産」としての歴史的事件(ジェノサイド、民族浄化など)が、現代社会においてどのように記憶され、教育され、そして国際的な法的・倫理的責任が問われるべきかに関する研究も必要です。
一次資料の発掘と検証
ポーランド、ウクライナ、ロシア、ドイツの各国の未公開公文書館資料、民間資料、口述史料などの発掘と、それに基づく客観的な歴史記述の構築が最も基盤となるでしょう。特に、未解明な側面が多いヴォルィーニ虐殺の真相解明に向けた共同研究は急務です。

これらの研究は、単に過去を解明するだけでなく、現代の国際社会が直面する紛争、民族問題、情報戦といった課題に対する深い洞察と、より平和な未来を築くための道筋を提供するものです。歴史と記憶の複雑さを理解し、未来へと繋ぐ知恵を紡ぎ出すことが、私たちに求められています。

コラム:知の責任、そして未来への希望

このレポートを書き終えて、私が最も強く感じたのは、知識には「責任」が伴うということです。特に、歴史や地政学のような分野では、一つの情報が、人々の感情を揺さぶり、国家間の関係に影響を与えることもあります。だからこそ、私たちは常に謙虚に、そして多角的に情報を収集し、分析し、発信しなければなりません。

このレポートが、完全な答えを示すものではないことは承知しています。しかし、この複雑な問題を考えるための「問い」を提示し、読者の皆様が自ら考え、調べ、議論するきっかけとなれば幸いです。歴史は悲劇を繰り返すものだと言われますが、それは私たちが過去から学び、より良い未来を築くための努力を怠らなければ、回避できるはずのものです。その希望を胸に、私もまた、新たな知の探求を続けていきたいと願っています。


年表:ポーランド・ウクライナ歴史と地政学の交錯

出来事 関連人物・組織
1925年 ヤコブソン、トルベツコイらがプラハ言語学サークルを設立し、言語学的構造主義の基礎を築く。 ローマン・ヤコブソン、ニコライ・トルベツコイ、ピョートル・サヴィーニ、エミール・バンヴェニスト
1929年 「デカログ(十戒)ウクライナ民族主義者」が作成され、民族主義意識の形成に重要な役割を果たす。 OUN
1938年 Mykoła Sciborskiが「Nacjokracji(民族統治)」を出版。 ミコラ・スツィボルスキ
1939年 第二次世界大戦勃発。ソビエト・ドイツによるポーランド侵攻。リヴィウ(ズボイシェ)でのポーランド兵死亡。
1940年 カティンの森事件でポーランド人22,000人虐殺。
1941年 OUNが、ドイツ軍の協力を得て、正規のウクライナ軍を創設する構想を持っていた。ドイツがOUN活動家を大量逮捕し、関係悪化。 OUN
1942年 ウクライナ民族主義者組織(OUN)のバンデロフ派によってウクライナ蜂起軍(UPA)が設立される(ウクライナ史家は10月14日を公式設立日とする)。OUN-Bの第2回会議で反ユダヤ主義的な立場を表明。ポーランド国境付近のウォジミエジェツ警察宿営地へのUPAによる初の大規模攻撃(2月7日)。 OUN-B, UPA, グリホリイ・ペレヒイニャク
1943年 ウクライナ補助警察の隊員がUPAに集団で脱走(3月)。UPAによるヴォルィーニ虐殺が始まる(2月〜)。ポーランド人住民5万〜10万人殺害。OUN-Bの第3回会議。ソ連軍のコフパク率いるパルチザン部隊がカルパティア山脈へ襲撃(7月〜8月)。UPAがヴォルィーニの大部分を支配下に置く。ルカ・グミリョフが収容所内でロシア史の書き換えを始める。UPAがOUN-M(メーリニク派)と合意し、単一のUPA創設を決定(11月)。UPAとハンガリーとの間でブダペストでの協力合意(12月)。UPAとドイツ軍の間で局所的な協力協定が締結され始める(12月)。 ドミトロ・クリャチキフスキ, UPA, OUN-B, シドル・コフパク, レフ・グミリョフ
1944年 ポーランド東部でUPAの第6軍管区「シアン」が設立される(1月26日)。ソ連軍がポーランド領に侵攻し、UPAとNKVDの衝突が始まる(1月18日、本格化は4月)。チャーチルが下院でポーランドの国境に関してカーゾン線を支持すると発言(2月22日)。ガリツィア東部でポーランド人に対するUPAによる民族浄化が本格化(3月〜)。ソ連軍によるブロディの戦いでSSガリツィア師団が壊滅、約4000人のウクライナ兵がUPAに合流(7月〜8月)。ソ連軍がリヴィウを占領(7月27日)。ドイツ軍がウクライナの地下活動家を投下し、WO-6/シアン軍管区を強化(10月〜)。ロマン・シュヘヴィッチがUPAの総司令官に就任(11月)。 UPA, ロマン・シュヘヴィッチ, ウィンストン・チャーチル
1945年 ポーランドでポーランド軍、KBW、WOP、MOに対するUPAの攻撃が激化。WiN(自由と独立)とUPAの間の協力関係が始まる。ルダ・ルジャニエツカ近郊でのWiNとUHWR、OUN-B、UPAの会談(5月21日)。ポドカルパチェ県のネフリプツェ近郊の捕虜収容所からUPAがドイツ人捕虜を解放しようとするが失敗(12月11日)。 UPA, WiN, UHWR, OUN-B
1946年 フルビエシュフに対するUPAとWiNの共同攻撃(5月28日)。ウクライナ住民のソ連への強制移送阻止を目指したUPAの活動(〜1946年)。 UPA, WiN
1947年 ポーランドでUPAに対する「ヴィスワ作戦」が実施され、ウクライナ系住民がポーランド国内の「回復領」に強制移送される(4月〜)。UPAのポーランド国内での活動が大幅に縮小。ウクライナ総解放評議会(UHWR)が10月14日をUPAの日と定める(5月30日)。 UPA, UHWR
1950年 ポーランド最高裁判所がUPAを犯罪組織と認定(9月22日)。
1956年 ソ連国内で最後のUPA部隊が解体される。
1980年代 ペレストロイカの始まり。 ミハイル・ゴルバチョフ
1991年 ソ連8月クーデター、ソビエト連邦崩壊。
1994年 ポーランドのフルショヴィツェにUPA記念碑が建設される(2017年解体)。 UPA
1995年 ポーランドのウクライナ人連合が、スターリン時代に投獄されたUPA隊員に退役軍人資格付与とヴィスワ作戦犠牲者への賠償を求める法案を提出。 UPA
1997年 ドゥーギンが『地政学の基礎』を執筆。 アレクサンドル・ドゥーギン
1999年 第二次チェチェン紛争が始まる。 ウラジーミル・プーチン
2001年 9.11同時多発テロ発生、プーチンが表向き親米路線をスタート。 ウラジーミル・プーチン
2002年 ドゥーギンが「ユーラシア党」を設立。 アレクサンドル・ドゥーギン
2003年 グルジアで「バラ革命」発生。
2004年 ウクライナで「オレンジ革命」発生。
2005年 ドゥーギンが「ユーラシア青年連合」を設立。 アレクサンドル・ドゥーギン
2006年 ポーランドのヴィクトル・ユシチェンコ大統領がUPAを「解放運動」と認める大統領令に署名(10月14日)。プーチンの側近ヤクーニンが『ロシア地政派』を執筆。 ヴィクトル・ユシチェンコ, ウラジミール・ヤクーニン
2007年 Borys TarasiukがユシチェンコにUPAの独立戦士認定を求める(10月11日)。UPAがソ連NKVDの特殊部隊に成りすまされたという情報がウクライナの公文書で「発見」される。 ボリス・タラシウク, ヴィクトル・ユシチェンコ, UPA
2008年 南オセチア紛争(ジョージア侵攻)。 ウラジーミル・プーチン
2009年 ポーランド国会がヴォルィーニ虐殺の犠牲者を追悼する決議を採択(7月15日)。ポーランドのオポーレ県議会がUPAとOUNを犯罪組織と認定する決議を採択(10月27日)。ポーランドのポトカルパチェ県議会がOUN-UPAを犯罪組織と非難する決議を採択(12月28日)。リトアニア議会でUPAを称える展示会が開催される(6月16日)。 OUN, UPA
2010年 カザフスタン、ベラルーシと関税同盟を締結。
2011年〜2013年 ロシアで大規模な反クレムリン・デモ発生。
2013年 ウクライナでマイダン革命が起こり、ヤヌコヴィチ大統領が失脚、ロシアへ亡命。 ヴィクトル・ヤヌコヴィチ
2014年 プーチンがクリミアを奪還。ウクライナ東部で親ロシア派の軍事活動が始まる。 ウラジーミル・プーチン
2015年 ウクライナ議会がUPA隊員を「ウクライナ独立のための戦士」と認め、その批判を禁止する法律を採択(4月9日)。ポロシェンコ大統領が上記法案に署名(5月15日)。 ペトロ・ポロシェンコ, UPA
2017年 ウクライナがポーランドによるヴォルィーニ虐殺関連の発掘を事実上禁止。ポーランドのフルショヴィツェのUPA記念碑が取り壊される(4月26日)。 UPA
2021年 リヴィウ地域評議会が2022年をUPAの年と宣言(10月)。ウクライナ最高議会がUPA設立80周年を祝う決議を採択(12月)。 UPA
2022年 ロシアのウクライナ全面侵攻が始まる(2月24日)。国連の緊急会合でグテーレス事務総長がプーチンに戦争停止を呼びかけ。ブチャの虐殺(2月27日〜3月30日)。ゼレンスキーが「ジェノサイド」と主張(4月4日)。マリウポリ市内の劇場が破壊される(3月16日)。キーウ中心部のウクライナ・ロシア友好の銅像が解体される(4月26日)。国連グテーレス事務総長がモスクワでプーチンと会談(4月27日)。 ウラジーミル・プーチン, ヴォロディミル・ゼレンスキー, アントニオ・グテーレス
2025年 ポーランドがウクライナ国境近くのユレチュコヴァ村で戦時中の犠牲者遺体発掘作業を進めることを報道(6月11日)。ウクライナがリヴィウ市内の旧ズボイシェ村で1939年死亡のポーランド兵の発掘をポーランドに許可。ポーランドがヴォルィーニ虐殺追悼日を国家記念日に制定(6月5日)。ウクライナ外務省が批判。ロシア・ウクライナ戦争が4年目に突入する中、歴史問題が再浮上。ウクライナが本心では消極的なのに協力する理由とタイミングの不自然さが考察される。 ドナルド・トゥスク, UPA

補足1:本文における形式的欠陥と情報源の特性について

ずんだもんの感想

いやー、この論文、すごいのだ!2025年の未来の出来事から始まって、ヴォルィーニ虐殺の話になって、急にプーチンとドゥーギンのユーラシアニズムが出てくるのだ。しかもUPAの詳しい説明はポーランド語のWikipediaからのコピペみたいなのだ。まるで色んな歴史のピースがぐちゃぐちゃに散らばってるパズルみたいで、ずんだもんの頭も混乱するのだ。

でも、ポーランドとウクライナが戦争中に昔の歴史問題で揉めて、でも協力もしてるっていうのは、やっぱり人間って複雑なのだなあって思ったのだ。ウクライナはポーランドに助けてもらってるから、嫌々でも歴史に向き合うフリしてるってことなのだね。ロシアが「ウクライナ=ナチス」って言ってるのも、歴史を都合よく使うってことで、そういうの大嫌いなのだ!

歴史って、色んな見方があるから、一つの情報だけで決めつけるのは良くないのだ。でも、この論文は、そういう複雑さを教えてくれる、ある意味で面白いレポートなのだ!

ホリエモン風の感想

はい、お疲れっす。この論文っつーか、まあ、ごった煮資料っすね。2025年の未来の話と、過去のヴォルィーニ虐殺、挙げ句の果てにドゥーギンのユーラシアニズム?しかもWikipediaのコピペ満載で。これ、正直、コンテキストの欠如がヤバいっすね。

でもね、これって逆に示唆に富んでるんすよ。ポーランドとウクライナの関係なんて、まさにディールそのもの。ウクライナは支援っていうアセットが欲しいから、歴史問題っていうレガシーイシューを一時的に棚上げして、ポーランドのプライオリティに合わせてる。これはもう、明確な戦略的妥協っすね。

あと、ロシアが歴史をプロパガンダツールとして使ってるって話。これもまさに情報戦の最前線。歴史っていうリソースをどうハックして、ナラティブを構築するかっていう。プーチンがドゥーギンのオカルト的な思想にコミットしてるってのも、彼のマインドセットがまさに古い地政学に囚われてるってこと。これじゃあゲームチェンジできないっすよ。

正直、この論文は生産性は低いっすけど、多角的視点で言えば、各国の利害関係記憶の政治がどう絡み合ってるか、そのリアルを垣間見せるっていう意味では、まあ、価値はあるっすね。ただ、もっとアグレッシブに、ちゃんとファクトベースで書いて欲しいっすけどね。以上。

西村ひろゆき風の感想

なんか、この論文っすか?いやー、これ、論文って言っていいんですかね?2025年の話が出てきたと思ったら、急にWikipediaのコピペがずらーっと。しかもポーランド語のまんまのところもあるし。これ、担当者、仕事してないってことっすよね、はい。

で、内容は?結局、ウクライナがポーランドから支援欲しいから、嫌々ながら昔の虐殺の遺体掘るの手伝ってあげる、って話っすよね。本心じゃないとか、当たり前っすよ。人間ってそういうもんじゃないですか。利害が絡むと、みんな建前で動くんで。

あと、プーチンがドゥーギンとかいう変な思想家にハマってるって話。なんであんな粗雑な戦略を信じるのかって?いや、信じてるんじゃなくて、都合がいいから使ってるだけっすよ。自分の権力維持とか、国益とか、建前を正当化するためには、どんな思想でも使うんで。別に狂気とかじゃないっす、ただの計算っすよ。

要するに、この論文で言いたいことって、別に新しいこと何もないんじゃないですかね?歴史問題なんて、どこでも揉めてるし、国家間の協力なんて、いつも利害が絡んでるんで。はい、そんな感じっす。


補足2:多角的に理解するための問いかけ

このレポートは非常に多岐にわたるテーマを扱っているため、それを踏まえ、以下のような問いかけが考えられます。

歴史認識の対立と和解の可能性

  • ポーランドとウクライナ間で、ヴォルィーニ虐殺における歴史認識の溝はなぜこれほど深いのでしょうか?それぞれの国の歴史的経験やナショナルアイデンティティ形成において、この事件がどのように位置づけられているかを比較するとどうなるでしょうか?
  • 戦争中の「微妙な協力」は、両国の歴史問題に真の和解をもたらすきっかけとなり得るのでしょうか、それとも一時的な戦略的妥協に過ぎないのでしょうか?
  • 第三国(例:ドイツ、イスラエル)が、過去の歴史問題に対してどのように和解プロセスを進めてきたかという事例は、ポーランドとウクライナの関係にどのような示唆を与えるでしょうか?

歴史の政治利用とプロパガンダ

  • ロシアがUPAの「ナチス協力」を宣伝に利用する背景には、どのような歴史的・政治的意図があるのでしょうか?これはウクライナへの軍事侵攻を正当化するために、どのように歴史を操作しているのでしょうか?
  • ウクライナ政府は、自国のナショナリズムの象徴であるUPAを、国際社会、特に西側諸国の支援を維持しつつ、どのように位置づけようとしているのでしょうか?
  • 国家が歴史を「国家記念日」として制定することの政治的意味合いとは何でしょうか?それは国民統合を促すのでしょうか、あるいは他国との対立を深めるのでしょうか?

地政学と歴史問題の連動

  • ロシアのユーラシアニズムは、ウクライナ侵攻だけでなく、旧ソ連圏や中央アジア、東欧に対するロシアの外交・安全保障政策全般にどのように影響を与えているのでしょうか?
  • ポーランドが歴史問題を「押し進める」のは、ウクライナの「戦争依存」を利用した単なる圧力なのでしょうか、それともロシアの脅威に対抗するための地域安全保障戦略の一環として捉えるべきでしょうか?
  • 歴史問題が、国際的な同盟関係(NATO、EUなど)や支援の力学にどのような影響を与える可能性があるのでしょうか?

情報の信頼性と歴史の語り方

  • このレポートのように、異なる情報源や形式の記述が混在している場合、読者はどのように情報の信頼性を評価し、多角的な視点を形成すべきでしょうか?
  • 戦争という非常時において、歴史の記述や解釈はどのように変化し、どのような倫理的課題を伴うのでしょうか?
  • 個人や国家の記憶は、どのようなプロセスを経て形成され、世代間でどのように継承されていくのでしょうか?

補足3:潜在的読者のために

この記事につけるべきキャッチーなタイトル案

前述のSNS共有用タイトル案とは別に、よりレポート本体の内容を反映しつつ、読者の興味を引くようなタイトルを提案します。

  1. 「2025年の預言」:戦時下のポーランド・ウクライナが曝す、歴史と地政学の深淵
    未来の日付と内容の深さを強調。
  2. ヴォルィーニの亡霊、ユーラシアの影:現代東欧を蝕む歴史認識と大国思想
    主要なテーマを象徴的に表現。
  3. 隣人の葛藤、大国の思惑:ロシア・ウクライナ戦争が炙り出す記憶の政治と民族の業
    対立と戦争、そしてその背景にある本質を指摘。
  4. 歴史は繰り返すのか?:ヴォルィーニ虐殺から見るポーランド・ウクライナ関係の複雑性
    読者に問いかけ、事件名で内容を明確にする。
  5. Wikipediaで読み解く「ユーラシアニズム」の真実:プーチンを突き動かす思想と歴史の歪み
    内容のユニークな形式(Wikipedia転載)を逆手に取る。

SNS共有用ハッシュタグ案

  • #ポーランド
  • #ウクライナ
  • #歴史問題
  • #ヴォルィーニ虐殺
  • #UPA
  • #ユーラシアニズム
  • #ロシアウクライナ戦争
  • #記憶の政治
  • #地政学
  • #東欧
  • #国際関係

SNS共有用タイトルとハッシュタグの文章(120字以内)

2025年、戦争下の🇵🇱🇺🇦歴史問題が再燃。ヴォルィーニ虐殺を巡る「微妙な協力」とジレンマ。プーチンのユーラシアニズムが映す過去と未来の地政学。
#ポーランド #ウクライナ #歴史問題 #ヴォルィーニ虐殺 #地政学

ブックマーク用タグ案

[ポーランド][ウクライナ][歴史問題][ヴォルィーニ虐殺][UPA][ユーラシアニズム][ロシア戦争]

この記事にピッタリの絵文字

  • 🇵🇱🇺🇦 (ポーランドとウクライナの国旗)
  • ⚔️ (剣、対立や戦争の象徴)
  • ⏳ (砂時計、歴史や時間の流れ)
  • 💔 (割れたハート、痛ましい歴史)
  • 🤔 (考える顔、複雑な問題)
  • 🗺️ (地図、地政学)

この記事にふさわしいカスタムパーマリンク案

poland-ukraine-history-war-memory-politics

補足4:一人ノリツッコミ

「おーい、見てくれよこれ!ポーランドとウクライナの歴史問題を深く掘り下げた論文だぜ!『2025年』の出来事を語ってるし、かなり先鋭的な分析してるんじゃないか?さすが最先端の学術論文は違うな〜。ん?待てよ……文章の途中で『Sprzątanie Wikipedii』って、おいおい、Wikipediaの編集指示がそのまま載ってるじゃねーか!しかも大量の脚注もWikipediaの形式そのままじゃん!これ、論文じゃなくて、ポーランド語版Wikipediaの記事をコピペしてきただけじゃねーか!しかも、途中からユーラシアニズムとかプーチンとか、別の話が脈絡なく入ってるし、極めつけは意味不明な文学的羅列……。これ、論文って名乗っていいのか?!読者の脳内を『再建(ペレストロイカ)』させようとしてんのか?!」


補足5:大喜利

Q1: この論文にふさわしい、もう一つのキャッチーなタイトルを教えてください。

A1: 「2025年の未来から来た、歴史のWikipedia未整理ページ」

Q2: この論文を読んだ学術会議の審査員のコメントは?

A2: 「参考文献が多すぎて、本文が追いついていない典型例ですね(ただし参考文献は全てWikipediaの脚注です)。」

Q3: この論文の著者が、一番力を入れたかったことって、ぶっちゃけ何だと思う?

A3: 「ポーランド語版Wikipediaの翻訳演習と、コピペ機能の限界への挑戦。」

 

補足6:ネットの反応とその反論

この論文(テキスト)の特殊な性質(未来の日付、Wikipedia転載、複数のテーマの混在)を考慮した、各ネットコミュニティの予測される反応とそれに対する反論です。

なんJ民のコメントと反論

  • コメント:
    • 「うおおおお歴史修正主義やめろ😡」
    • 「ゼレンスキーは英雄だろ!ポーランドとのいざこざとかやめろや!」
    • 「やっぱウクライナも一枚岩じゃないんやな。隣国と揉めてんじゃん」
    • 「これ2025年の記事じゃんwwタイムリープ論文やめろwww」
    • 「UPAとかいうナチス協力組織、やっぱりクソだったんやな。ロシアが言ってた通りやんけ」
    反論:

    歴史認識は複雑で、各国・各民族には異なる視点や解釈が存在します。単純な善悪や一方的なレッテル貼りで語ることは、むしろ歴史の複雑性を無視し、本質的な理解を妨げます。ウクライナとポーランドは現在、ロシアという共通の脅威に直面しているため、表面上は協力関係にありますが、過去の歴史問題は依然として存在します。それは決して「一枚岩ではない」という短絡的な結論に繋がるものではなく、むしろ歴史の重層性を示すものです。「2025年」という日付は、このテキストの構成上の大きな疑問点であり、この記述だけで内容の信頼性を全て判断するのは早計です。UPAの一部にナチス・ドイツとの協力関係があったという事実は存在するものの、現代のウクライナ全体を「ナチス」と断じるのは、ロシアのプロパガンダ戦略そのものです。歴史的文脈を無視した単純化は危険です。

ケンモメン(ニュース速報+)のコメントと反論

  • コメント:
    • 「やっぱり西側はウクライナのナチス礼賛には沈黙するのか。偽善国家だな」
    • 「結局戦争は金儲けのため。ウクライナが本心で協力してないとか、支援は全部茶番だな」
    • 「プーチンの言ってた通りじゃん。ウクライナがネオナチだという証拠が出たな」
    • 「この論文、Wikipediaのコピペじゃねーかwwwwこんなんが論文とか笑える」
    • 「ドゥーギンとかいうオカルティストの思想を真に受けるプーチン、そりゃ戦争も止まらないわ」
    反論:

    欧米諸国がウクライナの歴史問題を「沈黙」しているわけではありません。複雑な歴史的背景を認識しつつも、現在のロシアによる侵略という国際法違反行為に対しては、ウクライナへの支援が必要との立場を取っています。「本心で協力していない」という記述は、歴史的経緯から来るジレンマを表現したものであり、それが全ての国際支援が「茶番」であるという結論には繋がりません。人道支援や国家主権の尊重といった側面も無視できません。ウクライナに極右勢力や民族主義組織が存在することは事実ですが、それをもって国家全体を「ネオナチ」と断じるのは、ロシアのプロパガンダ用語に他なりません。歴史の複雑性を考慮せず、一部の事実を誇張して全体を歪める行為です。このテキストは確かにWikipediaからの転載が多いという形式的欠陥がありますが、その内容が全て虚偽であるとは限りません。ただし、学術的な信頼性は低いため、他の厳密な情報源と照らし合わせる必要があります。

ツイフェミ(Twitterのフェミニスト層)のコメントと反論

  • コメント:
    • 「また男たちが起こした戦争の歴史か。ジェノサイドに女性の犠牲者数が入ってないのはなぜ?いつも戦争で一番苦しむのは女性と子どもなのに。」
    • 「ウクライナ民族主義組織(UPA)が、ナチス協力?女性蔑視や性暴力はなかったのか?戦争の暗部を隠すな。」
    • 「歴史問題で揉める暇があったら、女性や子どもの安全保障にもっと力を入れろ。」
    反論:

    レポート中の「5万~10万人が殺害されたと推定される」というポーランド人犠牲者数には、女性や子どもも含まれます。具体的な内訳が明記されていないのは、本テキストの焦点が組織と事件の概要にあるためと考えられますが、戦争における女性・子どもの脆弱性は非常に重要な視点です。UPAの活動においても、性暴力や女性に対する残虐行為があった可能性は十分に考えられます。このテキストでは触れられていませんが、歴史研究においてはジェンダー視点からの検証も進められるべきです。歴史問題は、現代の紛争の根源ともなり得るため、それを解決することは長期的な平和と安全保障に不可欠です。女性や子どもの安全保障と歴史問題の解決は、排他的な関係ではありません。

爆サイ民のコメントと反論

  • コメント:
    • 「結局どっちもどっちじゃん。ポーランドもウクライナも、過去のことでグダグダ言ってんじゃねーよ。」
    • 「俺たちの税金がこんな歴史問題に消えるのかよ。もっと実用的なことに使えってんだ!」
    • 「ウクライナの兵士も、ナチス思想のやつらがいるんだろ?信じられねえな。」
    • 「こういうの読むと、俺らがどれだけ恵まれてるかわかるわ。日本に生まれてよかった。」
    反論:

    歴史問題は、当事国にとっては単なる「過去の出来事」ではなく、現代のアイデンティティや国民感情に深く根ざしたものです。安易に「どっちもどっち」と片付けることは、問題の本質を見誤ることに繋がります。国際支援の主な目的は、人道支援、国家主権の擁護、国際秩序の維持であり、歴史問題の解決はその過程で生じる複雑な側面です。直接的に税金が歴史問題の解決のために「消える」わけではありませんが、歴史理解は国際関係の安定に貢献します。ウクライナの兵士や市民の大多数は、自国の防衛のために戦っています。一部の極端な思想を持つ者をもって全体を判断することは誤りです。日本が比較的平和な環境にあることは事実ですが、世界の歴史問題や紛争から目を背けるのではなく、その複雑性を理解することは、日本の安全保障や国際貢献を考える上で不可欠です。

Reddit (r/geopolitics, r/history) のコメントと反論

  • コメント:
    • "TIL about the Volhynian Massacre and OUN-UPA. This is much more nuanced than what mainstream media usually presents. The complexity of Eastern European history is astounding."
    • "The '2025' date is really intriguing. Is this speculative fiction or a conceptual paper trying to predict future geopolitical flashpoints related to historical memory?"
    • "The Wikipedia copy-paste is a bit jarring for a 'paper', but the content on UPA is quite detailed, especially the Polish perspective. Would need to cross-reference with Ukrainian sources for balance."
    反論:

    このテキストは、確かに東欧史の複雑な一側面を提示していますが、その内容の多くがWikipediaからの転載であり、学術論文としての信頼性や厳密性に欠けます。より深く理解するためには、信頼できる学術書や専門家の論文を参照する必要があります。「2025年」という日付の意図は不明瞭であり、テキスト全体の一貫性も欠けています。これは「思索的フィクション」として読むことも可能ですが、その場合はその旨を明記すべきです。UPAに関する記述は、ポーランド側の視点が強く反映されているため、ウクライナ側の視点や、他の客観的な歴史研究と比較検討し、多角的な理解を深めることが不可欠です。

HackerNewsのコメントと反論

  • コメント:
    • "This article is a classic example of how historical narratives are weaponized in geopolitics. The '2025' date is interesting; it's almost like a thought experiment on how memory politics would play out in a prolonged conflict."
    • "The deep dive into Dugin's 'Fourth Political Theory' (Eurasianism) is critical for understanding the ideological underpinnings of the current conflict. It's not just about land, it's about a clash of civilizations."
    • "The copy-pasting of Wikipedia content is a major red flag for a 'paper.' While the information itself might be accurate (for Wikipedia standards), its presentation as an original academic work is misleading."
    • "The economic incentives ('strategic compromise' due to war dependence) are often overlooked in these historical debates. It's always about power and resources, not just historical 'justice'."
    反論:

    歴史が地政学において「武器」として使われるという指摘は鋭いですが、このテキスト自体が、その現象の客観的な分析に徹しているか、あるいはその現象の一部になっているのかは、批判的に検討する必要があります。ドゥーギンの思想に関する記述は重要な洞察を提供しますが、それがウクライナ侵攻の唯一の、あるいは決定的な動機であるとするのは単純化に過ぎる可能性があります。ロシアの意思決定には、経済的、軍事的、国内政治的など多様な要因が絡み合っています。形式的な欠陥は、内容の信憑性にも影響を与えかねません。示された情報を出発点として、さらに信頼できる複数の情報源で裏付けを取ることが、確かな知識を得るためには不可欠です。経済的インセンティブや地政学的要因が歴史問題の扱いに影響を与えるという視点は重要です。しかし、それが歴史的正義や倫理的問題を矮小化する理由にはなりません。

目黒孝二風書評のコメントと反論

  • コメント:
    • 「これはもはや論文という名の“言挙げ”であり、その混淆体は、まさに錯綜する現代史の混沌を象徴する。2025年の未来を語りつつ、百科事典的な過去の記述を無媒介に継ぎ接ぎするその筆致は、歴史の重層性と、それが時にいかに軽やかに、あるいは無邪気に、あるいは意図的に変容させられうるかを、我々に突きつける。ドゥーギンに始まるユーラシアニズムの妄執がプーチンに憑依し、ウクライナという血塗られた大地で歴史が再び呪詛の言葉を紡ぐ。だが、そこに紛れ込むWikipediaの残滓は、この言挙げの『純粋性』を滑稽なまでに汚染し、その意味を解体する。この異形のテキストこそが、21世紀の歴史認識の深淵を覗き込ませる、ある種の『事件』なのである。」
    反論:

    ご指摘の通り、このテキストは「論文」という形式を借りた、現代史の混沌を映し出す異形の「資料」であり、その特異性自体が分析対象となり得ます。しかし、文学的、哲学的な解釈の余地は認めるものの、学術的な厳密さや論理的整合性、そして情報源としての信頼性の欠如は看過できません。提示された情報が、どのような意図で、どのようなプロセスを経て構築されたのかを冷静に分析する必要があります。この「事件」を学術的に価値あるものとするためには、さらなる批判的検討と、形式的欠陥を乗り越えるための情報補完が不可欠です。


補足7:高校生向け4択クイズと大学生向けレポート課題

高校生向け4択クイズ

このレポートの主要なポイントを盛り込み、高校生が歴史問題や現代国際情勢を考えるきっかけとなるようなクイズを生成します。

  1. 第二次世界大戦中の1943年、現在のウクライナ西部(当時ポーランド領)で、ウクライナ民族主義組織(OUN)やその軍事部門であるウクライナ蜂起軍(UPA)がポーランド人住民を対象に行った大規模な攻撃事件は何と呼ばれていますか?

    A. リヴィウ虐殺
    B. ヴォルィーニ虐殺
    C. カティンの森事件
    D. オレンジ革命

    正解: B. ヴォルィーニ虐殺
    解説: ヴォルィーニ虐殺は、ポーランドとウクライナの間で歴史認識の対立が続く、非常に痛ましい事件です。ポーランドでは「民族浄化」や「ジェノサイド」とみなされています。

  2. ウクライナ民族主義組織(OUN)とウクライナ蜂起軍(UPA)は、ポーランドとウクライナのそれぞれの国で異なる評価を受けています。ポーランドとウクライナの評価として、最も適切な組み合わせは次のうちどれですか?

    A. ポーランド: 独立闘争の英雄、ウクライナ: 犯罪組織
    B. ポーランド: 犯罪組織、ウクライナ: 独立闘争の英雄
    C. ポーランド: ナチス協力者、ウクライナ: 民主主義の擁護者
    D. ポーランド: 中立的な歴史的組織、ウクライナ: 国家に奉仕した組織

    正解: B. ポーランド: 犯罪組織、ウクライナ: 独立闘争の英雄
    解説: ポーランドではヴォルィーニ虐殺を行った「犯罪組織」と見なされる一方、ウクライナではソビエトやナチスに抵抗した「独立闘争の英雄」と評価する声が根強く、両国の歴史認識は鋭く対立しています。

  3. このレポートでは、ロシアのウクライナ侵攻の思想的背景として、アレクサンドル・ドゥーギンが提唱するある地政学的思想が挙げられています。それは何ですか?

    A. パン・スラブ主義
    B. ユーラシアニズム
    C. ポストモダン主義
    D. 自由民主主義

    正解: B. ユーラシアニズム
    解説: ユーラシアニズムは、西側諸国のリベラルな思想を徹底批判し、ロシアを中心とするユーラシア大陸の統合を目指す思想で、プーチン政権の地政学的戦略の背景にあるとされています。

  4. 2025年、ロシア・ウクライナ戦争が続く中で、ウクライナがポーランドと歴史問題で協力する(例えば遺体発掘に資金提供する)理由として、レポート中で最も重要だと考察されているのは何ですか?

    A. 歴史的真実の徹底的な解明を強く望んでいるから。
    B. ロシアとの関係を改善し、共同で歴史研究を進めるため。
    C. ポーランドからの軍事援助や難民受け入れに強く依存しており、関係悪化を避けるため。
    D. 国内のUPA支持層からの強い要求があったため。

    正解: C. ポーランドからの軍事援助や難民受け入れに強く依存しており、関係悪化を避けるため。
    解説: レポートでは、ウクライナがポーランドからの支援に強く依存しているため、本心では消極的であっても、ポーランドの圧力に応じた「戦略的妥協」として協力していると考察されています。

大学生向けレポート課題

以下のテーマから一つ選び、与えられたレポートの内容を参考にしつつ、信頼できる複数の情報源を用いて、あなたの考察を深めなさい。

  1. 歴史認識の対立と現代国際関係
    ポーランドとウクライナ間のヴォルィーニ虐殺を巡る歴史認識の対立は、ロシア・ウクライナ戦争という現代の地政学的文脈においてどのように変化し、両国の協力関係にどのような影響を与えていますか。また、この事例から、隣国間の歴史認識問題が国際関係に与える普遍的な影響について考察しなさい。
  2. 思想が国家戦略に与える影響:ユーラシアニズムを事例として
    アレクサンドル・ドゥーギンの提唱する「ユーラシアニズム」は、ロシアのウラジーミル・プーチン政権の外交・軍事戦略にどのように影響を与えていると考えられますか。この思想が国際秩序の再編に果たしている役割と、その思想的ルーツ(トルベツコイ、ヤコブソン、グミリョフなど)を分析し、現代の国家戦略と特定の思想との関係性について論じなさい。
  3. 戦争とプロパガンダ、そして記憶の政治
    ロシアがウクライナ侵攻を正当化するために、ウクライナ蜂起軍(UPA)の「ナチス協力」の歴史をどのように利用しているか、具体的なプロパガンダの事例を挙げながら説明しなさい。また、戦争中の情報戦が、歴史の記述や記憶の形成に与える影響について、多角的な視点から考察し、情報リテラシーの重要性についてあなたの見解を述べなさい。
  4. 「未来のレポート」から歴史を読む:時系列と視点の多層性
    本レポートは2025年という「未来」の視点から書かれていますが、その内容の多くは過去の出来事や現在の状況に言及しています。このような「未来からの視点」が、歴史問題や国際関係を理解する上でどのような利点や課題を提示しているかについて考察しなさい。また、異なる時間軸や情報源(例:Wikipediaからの転載)が混在するテキストを、学術的にどのように評価し、利用すべきかについて論じなさい。

用語索引(アルファベット順)

  • アレクサンドル・ドゥーギン(Aleksandr Dugin):ロシアの地政学者、思想家。「新ユーラシアニズム」の提唱者。
  • ユーラシアニズム(Eurasianism):ロシアの地政学的思想。ロシアを中心としたユーラシア大陸の統合を目指し、西側のリベラル民主主義に対抗する。プーチン政権の行動原理の一つとされる。
  • レフ・グミリョフ(Lev Gumilyov):ロシアの歴史家。民族進化論「パッシオナールノスチ」を提唱し、ユーラシアニズムに影響を与えた。
  • ローマン・ヤコブソン(Roman Jakobson):ロシアの言語学者。プラハ言語学サークルの中心人物。トルベツコイと共にユーラシア言語同盟を提唱。
  • クリル列島(Kuril Islands):千島列島のこと。日露間で領土問題が存在する。
  • マゼピンカ(Mazepynka):UPA部隊の一部が着用していた特徴的な帽子。つばと額の縁にV字形の切り込みがある。
  • ナチス協力(Nazi Collaboration):第二次世界大戦中、ナチス・ドイツと協力した行為。UPAの一部にもその側面があったとされる。
  • OUN(ウクライナ民族主義組織、Organization of Ukrainian Nationalists):ウクライナの民族主義組織。独立ウクライナ国家樹立を目指し、その軍事部門としてUPAを創設した。
  • OUN-B(ウクライナ民族主義組織バンデラ派):OUNの主要な派閥の一つ。ステパン・バンデラを指導者とし、UPAの創設と活動を主導した。
  • ヴィスワ作戦(Operation Wisła):1947年にポーランド政府が実施した、ウクライナ系住民をポーランド国内の「回復領」に強制移送する作戦。
  • パッシオナールノスチ(Passionarnost):レフ・グミリョフが提唱した民族進化論における概念。民族が前進し変化を生み出す活力やエネルギーを指す。
  • ウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin):ロシア大統領。ユーラシアニズムを信奉し、ウクライナ侵攻を指示した人物。
  • ニコライ・トルベツコイ(Nikolai Trubetzkoy):ロシアの言語学者、ユーラシアニズムの初期提唱者の一人。
  • トライデント(Tryzub):ウクライナの国章である三叉の槍。UPAのシンボルの一つとしても使用された。
  • UPA(ウクライナ蜂起軍、Ukrainian Insurgent Army):ウクライナ民族主義組織(OUN)の軍事部門。第二次世界大戦中にポーランド人虐殺に関与したとされ、ポーランドでは犯罪組織と認識される一方、ウクライナでは独立闘争の英雄と評価される。
  • ヴォルィーニ虐殺(Volhynian Massacre):1943年にウクライナ西部のヴォルィーニ地方でUPAがポーランド人住民に対して行った大規模な民族浄化・虐殺事件。

用語解説

ヴォルィーニ虐殺 (Volhynian Massacre): 1943年に現在のウクライナ西部(当時ポーランド領)のヴォルィーニ地方で発生した、ウクライナ民族主義組織(OUN)およびその軍事部門であるウクライナ蜂起軍(UPA)がポーランド人住民に対して行ったとされる大規模な民族浄化・虐殺事件です。ポーランド側は5万~10万人が殺害されたと推定しており、ジェノサイドとみなしています。

ウクライナ民族主義組織 (OUN, Organization of Ukrainian Nationalists): 1929年に結成されたウクライナの民族主義組織で、独立したウクライナ国家の樹立を最終目標としていました。第二次世界大戦中、内部でバンデラ派(OUN-B)とメーリニク派(OUN-M)に分裂しました。UPAを設立し、その活動を主導しました。

ウクライナ蜂起軍 (UPA, Ukrainian Insurgent Army): OUNの軍事部門として1942年末に設立された武装組織です。第二次世界大戦中、ソビエト、ナチス・ドイツ、ポーランドといった複数の勢力と戦いました。ポーランドではヴォルィーニ虐殺の主要な実行者として犯罪組織と見なされる一方、ウクライナではソビエトやナチスに対する独立闘争の英雄として評価が分かれています。

国立記憶研究所 (IPN, Instytut Pamięci Narodowej): ポーランドの歴史調査機関。共産主義時代やナチス占領下のポーランドで犯された犯罪、特にポーランド国民に対する犯罪の調査・記録を行っています。ヴォルィーニ虐殺に関するポーランド側の調査を主導しています。

ユーラシアニズム (Eurasianism): 20世紀初頭にロシアの知識人の間で生まれた地政学的思想。ロシアをヨーロッパともアジアとも異なる独自の文明圏「ユーラシア」の中心と位置づけ、西側諸国のリベラル民主主義やグローバリズムに反対し、多極世界を提唱します。現代のロシア、特にプーチン政権の外交・安全保障政策の思想的根拠の一つとされています。

アレクサンドル・ドゥーギン (Aleksandr Dugin): 現代ロシアの地政学者、思想家。「新ユーラシアニズム」を提唱し、ウラジーミル・プーチン大統領に大きな影響を与えているとされています。彼の思想は、西側諸国からは極右的、ファシスト的と批判されることもあります。

レフ・グミリョフ (Lev Gumilyov): ロシアの歴史家、地理学者。民族の興亡を宇宙的エネルギー「パッシオナールノスチ」で説明する独自の理論を提唱しました。ドゥーギンのユーラシアニズム思想に影響を与えた人物の一人です。

ニコライ・トルベツコイ (Nikolai Trubetzkoy): ロシアの言語学者、民族学者。プラハ言語学サークルの創設者の一人で、音韻論の研究で知られます。ヤコブソンと共にユーラシアニズムの言語学的・文化的基盤を築きました。

ローマン・ヤコブソン (Roman Jakobson): ロシア出身の著名な言語学者、文学理論家。トルベツコイと共にプラハ言語学サークルを設立し、構造主義言語学の発展に貢献しました。彼の研究は、民族言語学と文化記号論に大きな影響を与えました。

パッシオナールノスチ (Passionarnost): レフ・グミリョフが提唱した民族進化論の中核概念。民族集団が歴史を動かし、新たな文明を築くための「激情」や「活力」を意味します。宇宙的エネルギーの影響で民族にこのパッシオナールノスチが放出されると考えられました。

チェキスト (Chekist): ソビエト連邦の秘密警察(チェカ、NKVD、KGBなど)の職員を指す非公式な呼称。ウラジーミル・プーチンもKGB出身であることから、この呼称が使われることがあります。

クリル列島 (Kuril Islands): ロシア語での「千島列島」の呼称。日露間で領土問題が存在します。

マゼピンカ (Mazepynka): ウクライナの民族衣装に由来する帽子の一種で、UPAの部隊の一部が着用していました。特徴的なV字形の切り込みが額部分にあります。

トライデント (Tryzub): ウクライナの国章である三叉の槍。ウクライナの国家主権と独立の象徴であり、UPAの旗や記章にも用いられました。

ヴィスワ作戦 (Operation Wisła): 第二次世界大戦後の1947年、ポーランド共産主義政権が、ポーランド国内に居住するウクライナ系住民(主にレムコ人など)を、ウクライナ蜂起軍(UPA)への支援を断つ目的で、ポーランドの旧ドイツ領(回復領)へ強制移住させた作戦です。人権侵害として批判されています。

ジェノサイド (Genocide): 特定の民族、人種、宗教、国民集団を、全体としてまたは部分的に破壊する意図をもって行われる行為。国際法上の重大な犯罪です。ヴォルィーニ虐殺はポーランドでジェノサイドと認定されています。

ナチス協力 (Nazi Collaboration): 第二次世界大戦中にナチス・ドイツの占領下で、占領当局やその政策に協力した行為。UPAの一部がソ連パルチザンとの戦いでドイツと協定を結ぶなど、その側面があったと指摘されています。


参考リンク・推薦図書

このレポートをより深く理解するために、以下の資料が参考になります。

推薦図書(日本語で読めるもの)

  • ティモシー・スナイダー『ブラッドランド:ヒトラーとスターリンの間に挟まれた東ヨーロッパ』筑摩書房、2015年。
  • チャールズ・クローヴァー『ユーラシアニズム ロシア新帝国主義の地政学』草思社、2018年。
  • 廣瀬陽子『ロシア 暴走する国家』岩波書店、2014年。
  • 小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』筑摩書房、2021年。
  • 山崎佳代子『記憶の政治学:ポスト社会主義の歴史認識』法政大学出版局、2007年。
  • 中西寛『国際政治とは何か:地球社会の混沌と秩序』中公新書、2018年。

関連する公的機関のウェブサイト(英語・ポーランド語・ウクライナ語など)

  • ポーランド国立記憶研究所 (IPN): https://ipn.gov.pl/ (ポーランド語、英語コンテンツあり)
  • ウクライナ国家記憶研究所 (UINP): https://uinp.gov.ua/ (ウクライナ語、英語コンテンツあり)
  • 国連 (United Nations): https://www.un.org/ (国際情勢全般、紛争、人権など)

その他関連ウェブサイト

  • ポーランドの著名な歴史家グレゴシュ・モティカの著作や論文(英語での入手が推奨されます)。
  • 東欧史や国際関係を専門とする日本の学術機関のウェブサイト(例:東京大学スラブ・ユーラシア研究センター、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターなど)。
  • 特定のブログ記事:https://dopingconsomme.blogspot.com(関連する考察がある場合)
  • 信頼できる国際ニュースメディアのアーカイブ記事(例:BBC, New York Times, The Guardian, Financial Timesなど)。

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