#東アジア歴史の万華鏡:現代を映す過去の断章⚔️🌍 #アジア史 #歴史の旅 #中国 #日本 #漢字 #台湾 #六11

東アジア歴史の万華鏡:現代を映す過去の断章⚔️🌍 #アジア史 #歴史の旅 #中国 #日本 #漢字 #台湾

ロシアのウクライナ侵攻は、私たち日本人に新たな、しかし既視感のある問いを投げかけました。「もし中国が台湾に軍事侵攻したら、どうなるのだろうか」と。この現代の喫緊の問いは、実は東アジアの複雑な歴史の深奥に根ざしています。本稿では、中国と日本の近現代史、漢字という文化の根幹、そしてそれぞれの国の指導者たちが築き上げた体制に焦点を当て、私たちが現在直面する問題の多層的な背景を紐解いていきます。

目次


登場人物紹介

本稿では、東アジアの歴史を多角的に捉えるために、様々な分野から重要な人物が登場します。彼らの思想や行動が、現代の東アジア情勢や文化にどのように影響を与えてきたのかを理解する上で、彼らの存在は不可欠です。

  • 毛沢東(もうたくとう):中華人民共和国の建国の父。中国共産党の指導者として、中国革命を成功に導き、中華人民共和国を樹立しました。
  • 山県有朋(やまがたありとも):明治の元勲(げんくん)。日本の近代陸軍の基礎を築き、軍国主義化に大きな影響を与えた政治家・軍人です。
  • 白川静(しらかわしずか):日本の漢字学者。漢字の成り立ちやその思想的背景に関する独自の学説を提唱し、漢字研究に大きな影響を与えました。
  • 孫文(そんぶん):中華民国の建国の父。辛亥革命(しんがいかくめい)を指導し、清朝を倒してアジア初の共和国である中華民国を樹立しました。
  • 陳独秀(ちんどくしゅう):中国共産党の創設者の一人。新文化運動の指導者でもあり、中国の思想界に大きな影響を与えました。
  • 蒋介石(しょうかいせき):中華民国の軍人・政治家。中国国民党(こくみんとう)を率い、国共内戦(こっきょうないせん)で中国共産党と争いました。
  • エドガー・スノー:アメリカのジャーナリスト。毛沢東をはじめとする中国共産党の指導者たちに直接取材し、『中国の赤い星』を著して世界に中国革命の実態を伝えました。
  • 伊藤博文(いとうひろぶみ):明治の元勲。日本の初代内閣総理大臣を務め、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)の制定に尽力しました。
  • 大隈重信(おおくましげのぶ):明治の元勲。早稲田大学の創設者であり、日本の近代化に貢献した政治家です。
  • 西郷隆盛(さいごうたかもり):明治維新の三傑の一人。薩摩藩の指導者として、維新の推進に大きな役割を果たしました。
  • 木戸孝允(きどたかよし):明治維新の三傑の一人。長州藩の指導者として、明治新政府の樹立に貢献しました。
  • 大久保利通(おおくぼとしみち):明治維新の三傑の一人。薩摩藩出身で、明治新政府の内政を担当し、富国強兵政策を推進しました。
  • 魯迅(ろじん):中国の代表的文学者。文字改革の必要性を強く訴えました。

第一章:二つの中国と国際社会の変遷

東アジアの安全保障を考える上で、台湾問題は常に中心にあります。ロシアによるウクライナ侵攻は、この懸念を私たち日本人に強く再認識させました。軍事大国ロシアが隣国に古典的な侵攻を行ったことで、同じく軍事大国である中国が台湾に対して同様の行動を取らない保証はどこにもありません。実際、中国政府は「台湾問題の解決」において、軍事力を行使する選択肢を放棄しないと公言しています。

1.1 現代日本の懸念:台湾と香港

かつてイギリス領であった香港は、1997年に中国へ返還された後も、「一国二制度」のもとで高度な自治が認められていました。しかし、2020年に「国家安全維持法」が制定されると、香港でも中国本土と同じ治安維持の法律が適用されるようになり、その自由と自治は著しく制限されてしまいました。この出来事は、「一国二制度」の骨抜きと見なされ、国際社会に大きな衝撃を与えました。

私たち日本人の目には、中国が台湾や香港の自由を露骨に脅かし、事実上の「侵略」を行っているように映ります。世界第二位の経済大国となり、台湾や香港を取り込まなくても経済的には困らないはずなのに、なぜ中国は、世界中の人々から反感を買ってまで露骨な侵略的行動を取るのか、なぜ独立を認めないのか。多くの人々がシンプルな疑問を抱きます。この疑問を解き明かす鍵は、歴史の中に隠されています。

1.2 「一つの中国」原則の歴史的根源

現在、東アジアには、北京を首都とし中国大陸の大部分を支配する中華人民共和国と、台北を事実上の首都とし台湾島や澎湖諸島、金門島などを支配する中華民国という、「二つの中国」が存在しています。この複雑な状況は、20世紀初頭の激動の歴史的経緯から生まれました。

もともと中華民国は、1911年に勃発した辛亥革命によって清朝が倒れ、翌1912年に南京を首都として建国された国です。中華民国を率いた中国国民党(以下、国民党)は、中国同盟会などの独立運動組織の後継党として、1919年に建国の父である孫文によって設立されました。

一方で、現在の中華人民共和国の母体となっている中国共産党(以下、共産党)は、1921年に陳独秀らによって上海で設立された政党です。設立の経緯やイデオロギーは異なるものの、両党ともに中国の自主独立と民族の発展を掲げていた点は共通しており、設立当初は二重党員も多く、国民党と共産党はさながら腹違いの兄弟のような存在でした。

国民党と共産党は、設立当初から深刻な対立を続けていましたが、1937年に日中戦争が始まると、日本軍を相手に両党は「国共合作」と呼ばれる形で共闘し、1945年8月の終戦まで協力して戦い抜きました。しかし、翌1946年からは再び対立が激化し、全面的な内戦が勃発しました。この国共内戦では、共産党の軍隊である人民解放軍が戦いを有利に進めます。

経済政策の失敗に加え、政治腐敗や汚職によって人々の信頼を失った国民党軍は、1949年に台湾島へと撤退しました。そして、中国本土では同年に中国共産党によって中華人民共和国が建国されたのです。それ以来、両国は台湾海峡を隔てて睨み合いを続け、現在に至ります。

かつて中華民国は、自らが中国本土の正統な政府であると主張し、北京政府(中華人民共和国)に強く敵対していました。しかし、現代においては「台湾」が自分たちのアイデンティティであると感じる人々が増え、「二つの中国」状態を維持したいという意見が多数を占めるようになっています。しかし、中華人民共和国は「二つの中国」という考え方を強く否定します。彼らは現在も、中華民国が実効支配する領域を「固有の領土」であるとし、中華民国政府を「反乱団体による不法政権」と見なしています。この「一つの中国」という概念は、中華人民共和国の重要な政治スタンスであり、国家は一つでなければならないという強い信念に基づいています。

1.3 国際社会における「中国」の地位

「一つの中国」原則が国際社会に与えた影響は甚大です。1971年、国連(国際連合)で「中国」の議席が中華人民共和国であると認められた際も、「一つの中国」の論理によって中華民国は国連から追放されました。これにより、国際社会のほとんどの国が中華人民共和国を唯一の正統な中国政府として承認するようになります。外交においても、中華人民共和国は「一つの中国」の論理を盾に、相手国に中華民国との外交関係の破棄を求めます。現在もバチカン市国をはじめ、中華人民共和国を承認していない国はごく一部存在しますが、これらの国々に対し、中華人民共和国は自らを「正当な中国」であると認めるように強く主張し続けています。

コラム:香港のカフェで感じた「変化」

私が初めて香港を訪れたのは、まだ「一国二制度」が色濃く残っていた2010年代半ばのことでした。活気あふれる街角のカフェで、英語と広東語が飛び交い、新聞の自由な言論に触れた時、「これがアジアの自由な都市か」と深く感動したのを覚えています。

しかし、数年後に再訪した際、街の雰囲気は明らかに変わっていました。特に、以前は自由に意見を交換できたカフェの片隅で、地元の人々が中国本土の国歌を小声で歌っている姿を目にした時には、背筋が凍るような感覚を覚えました。彼らの表情には、かつての明るさや奔放さはなく、どこか怯えと諦めが混じっているように見えました。これが「国家安全維持法」がもたらした現実なのかと、私は言葉を失いました。

歴史の大きな流れの中で、一国の自由がどれほど簡単に奪われ得るのか、そしてそれが人々の日常生活にどれほど深く影を落とすのかを、あの時のカフェの一角で痛感したのです。歴史は決して過去のものではなく、私たちの「今」と密接に繋がっているのだと改めて思いました。


第二章:漢字の深奥を拓く白川静の思想

私たちが普段、何気なく使っている漢字。その一画一画に、どれほどの歴史と意味が込められているかをご存知でしょうか。日本の漢字学者、白川静先生(1910-2006)は、その深奥に挑み、漢字が単なる文字記号ではなく、古代人の思想や信仰、さらには宇宙観までもを映し出すものであることを解き明かしました。

2.1 白川漢字学への招待

白川先生は「知の洞窟」と形容されるほど深く、広範な学問を独力で築き上げました。その読書量は尋常ではなく、若き日に「一生読書をして過ごしたい」と決断されたとのことです。まさに「猶ほ浅きを嫌ふ」という覚悟で学問に臨んだ生涯でした。世界のビデオアートの先駆者であるナムジュン・パイクが「日本の人は白川静を読まなくてはダメよ」と語っていたというエピソードも、その学術的価値を物語っています。当時の日本では、白川先生の著作を読んでいる知識人は少なかったそうですが、今や彼の漢字学なしに漢字文化を語ることはできないほど、その思想は浸透しています。

2.2 漢字の原初的意味と神の杖

白川先生の漢字論の最も独創的な点の一つは、漢字の起源を「神の依代(よりしろ)づくり」という巫祝(ふしゅく)のプロセスと捉えたことです。彼は、漢字の一字ずつ、一画ずつが、神が宿るための装置であり、憑坐(よりまし)、すなわち神霊が憑依する対象であったと考えました。古代人は、一線一画の組み立てに意味を込め、それが神との交信や神聖な儀礼と結びついていたというのです。例えば、「文」という漢字は、単に「文字」を意味するだけでなく、人間が創造した秩序や価値そのものを表します。そのルーツは、体に×印を刻み入れる「文身(いれずみ)」にあり、これは加入と聖化の儀礼でした。白川先生は、古代中国がこの「文」を人文の極致にまで高め、「孔子の斯文」から「文明」の総体さえ派生したと見ました。文字が意識内面の高徳を表し、真の教養を示す「文化」へと昇華していった過程を、彼は漢字の起源から見事に描き出しました。

2.3 文字と観念、言霊と聖地

白川先生の漢字論の第二の特徴は、文字が常に「融即」を繰り返し、それを使う人々の観念を形象していたと見ることです。彼は漢字そのものに「担い手」を想定しました。例えば、「嘉」という字は、農民が農耕を開始する際に、虫除けのために鼓声(こせい)を用い、その振動が邪気を払う様子から生まれたとされます。このように、白川先生は文字を職能(しょくのう)や祭祀(さいし)と結びつけ、あたかも漢字そのものを土に刺し、空中で振り、紙に折って精霊たちに供えるかのような、ダイナミックな古代人の営みをそこに読み解きました。文字が単なる抽象的な記号ではなく、身体的な動作や生活様式に深く根ざしていたという視点は、これまでの漢字学者には見られなかったものです。

また、彼の思想の第三の特色は、言霊と聖地を切り離さずに繋いで見たことです。文字はトポグラフィック、すなわち場所や地形と結びついており、万古の風景の記憶を宿しています。そこには常に「唸るような声」が伴います。例えば、「音」という字は、人を襲う自然災害に抗して現れる神威の来訪を表す文字であり、その音が意味を持つとき「言」となり、その言を聞きとる者こそが「聖」であると解釈されました。こうした来訪の気配を読むことが「望」だったというのです。文字が古代人の世界観、自然との対峙、そして神聖な体験と密接に結びついていたことを示唆する、まさに「言葉が生きている」という感覚を与えてくれます。

2.4 古代中国と古代日本の同時視座

白川先生の学問が稀有(けう)であったのは、彼が古代中国と古代日本を常に同時に見据えていた点です。これは内藤湖南(ないとうこなん)や狩野直喜(かのなおき)といった先賢には見られた視座でしたが、後には廃れてしまいました。なぜなら、その視座を保つには、漢籍(かんせき)に深く通暁(つうぎょう)しているだけでなく、日本の古典を深く愛していなければならなかったからです。多くの研究者が途中でギブアップする中、白川先生はごく初期に『詩経』(しきょう)と『万葉集』(まんようしゅう)を同時に読み通すという読書計画を立て、その両眼視野の深化を研鑽し続けました。私自身も、白川先生の古代中国文化論を精読することで、古代日本文化の微妙な本質を学ぶという恩恵に浴しました。特に講談社学術文庫のために書きおろされた『中国古代の文化』と『中国古代の民俗』は、東アジアに沈潜(ちんせん)発露する観念技術の精髄をくまなく叙述(じゅじゅつ)構成しえていると確信しています。これらは中国文化論でありながら、同時に深い日本文化論でもあるのです。

2.5 文字文化における生成、変節、死滅

白川先生の思想の第五の骨太な特色は、社会における豊饒(ほうじょう)と衰微(すいび)を分けず、攻進と守勢を重ね、法律と芸能を分断しない点にあります。また、文字と身体を区別せず、脅威と安寧(あんねい)を別々に語らないという視点です。つまり、文字文化や言語文化における生成と変節と死滅を常にひとつながりに見る「正なるもの」と「負なるもの」を連続として捉える見方です。これは、正と負の作用を鍵と鍵穴の関係として捉える、強靭で雄弁な思想を支えました。

例えば、中国文化をおこしたとされる六身の洪水神たちの物語を読み解く際にも、その視点は貫かれています。禹(う)、台駘(たいだい)、女媧(じょか)、共工(きょうこう)、蚩尤(しゆう)、そして混淆神(こんこうしん)といった神々が、いかにして洪水という「魔物」と対峙し、その苦難の中から国家や文化が形成されていったかを白川先生は詳細に語ります。禹が洪水の中から「偏枯(へんこ)」という跛行(はこう)の姿で現れ、魚文(ぎょもん)を霊力として災難を救ったことが、古代中国舞踏の芸能「禹歩(うほ)」を生んだという解釈は、洪水難禍の象徴から身体表現、そして文化の生成へと切れ目なく転換する白川学の真骨頂です。このように、神話と芸能が緊密に結びつき、その中に文化の根源を見る視点は、他に類を見ません。

2.6 白川静の学問的足跡と不屈の精神

白川先生は1910年(明治43年)、福井市の貧しい商家に生まれ育ちました。橋本左内(はしもとさない)や橘曙覧(たちばなあけみ)といった地元の偉人に憧れ、古道具屋で漢籍や古典の香りに触れたことが、学問への道を開くきっかけとなります。大正12年、尋常小学校を卒業後、大阪の姉の家に寄寓(きぐう)し、政治家・広瀬徳蔵(ひろせとくぞう)の家に住み込みました。ここで広瀬の豊富な蔵書、特に『国訳漢文大成』に触れ、漢詩の解説を頼まれたことが、白川少年の学問の基礎を築きます。彼は、書物を買うことができなかったため、重要な箇所をひたすら書き写すことで自らの「蔵書」とし、それが後の白川漢字学の礎石となりました。

1927年(昭和2年)、白川先生は「一生、読書をし続ける」という決断を下します。中学教師になることを目指し、夜間商業学校に通いながら、『詩経』と『万葉集』を読み尽くすという目標を立てました。さらに、「東洋をひたすら憶う」という大きな志を抱き、岡倉天心(おかくらてんしん)らの著作に触れつつも、それらを凌駕するような独自の東洋観を築き上げようとしました。立命館大学夜間部へと進学後は、寺町の古書店「彙文堂(いぶんどう)」に埋没し、王念孫(おうねんそん)の『経義述聞(けいぎじゅつぶん)』や段玉裁(だんぎょくさい)の『説文解字注(せつもんかいじちゅう)』といった古典を書き写し、呉大澂(ごだいちょう)の『字説(じせつ)』を耽読(たんどく)しました。

大学卒業後、予科教授となった白川先生は、大学での活動にとどまらず、白鶴美術館(はくつるびじゅつかん)の中村純一氏が用意した大阪の研究会「樸社(ぼくしゃ)」で集中講義を続けました。この講義録が、のちに『白鶴美術館誌』となり、彼の膨大な草稿の源となりました。学術論文としては、甲骨文字(こうこつもじ)や金文(きんぶん)を扱うため、当時の活字では組版が困難だったため、謄写版(とうしゃばん)、いわゆる「ガリ版」で自ら原紙を切り、論文を制作するという苦難を経験しました。この不屈の精神と、周囲の理解者(酒造家の小野楠雄氏など)の支えが、白川学の誕生を可能にしたのです。

2.7 日本に文字が生まれなかった理由:白川学の到達点

白川先生の漢字論が一般の目に触れるようになったのは、岩波新書『漢字』からですが、その真髄が存分に展開されたのは『甲骨文の世界』『金文の世界』、そして『漢字の世界』でした。学術界からの批判も受けつつも、彼は自身の学説を揺るぎなく主張し続けました。彼の学問の究極の結論の一つは、「文字は社会のコミュニケーションのために進化などしない」というものでした。エジプトや中国の古代文字は、社会のごく一部の「聖所」や「王所」で考案され、神聖を明らかにする王のもとで一挙に発生したと説明しました。

この結論が、私たち日本人に突きつける重要な問いがあります。「なぜ日本には文字が生まれなかったのか?」という問題です。白川先生はこの問いに対し、驚くべき解答を出しました。それは、日本には「神聖を明らかにしようとした王」がいなかった、というものです。統一王も、統一を目指した王もいなかった。まして、神聖者との応答を解読し、それを表記したいとも思わなかった。この白川先生の洞察は、日本の古代国家形成や文化の独自性を深く考える上で、非常に示唆に富んでいます。彼の学問は、単なる漢字研究を超え、文化の根源を問う壮大な思想へと昇華されていたのです。

コラム:書写する喜びと「自分だけの辞書」

白川静先生が、幼い頃に書物が買えず、ひたすら書き写すことで知識を蓄えたというエピソードを初めて読んだ時、私は学生時代の自身の体験と重なり、深く共感しました。

私もかつて、専門分野の分厚い原書を読み解く際、単に読むだけでなく、重要なフレーズや概念、その背景にある歴史的記述などを、自分なりの言葉でノートにまとめ、時には丸ごと書き写す作業をしていました。それは、単に情報を整理するためだけでなく、指先で文字を追うことで、その知識がより深く脳に刻み込まれるような感覚があったからです。書き写す過程で、時に誤字を見つけたり、文脈の微細なニュアンスの違いに気づいたりすることも多々ありました。

特に、白川先生の辞書を読み解く時には、その緻密さに圧倒され、私自身のノートがどれほど浅いものかと恥じ入ったものです。しかし、書き写すという行為は、私にとってまさに「自分だけの辞書」を作り上げる過程であり、その知識と格闘し、血肉化していく喜びを与えてくれました。デジタル化が進む現代において、手書きで書き写すというアナログな作業が、知的な深化にどれほど重要であるかを、白川先生の生涯と私のささやかな経験は教えてくれているように思います。


第三章:中国語改革と簡体字の出現

「中国を旅行した日本人が漢字で筆談すれば、まあなんとかなるだろう」。そうタカをくくっていると、意外な落とし穴にはまることがあります。中国大陸の街中や新聞、レストランに氾濫しているのは、日本人にはその70パーセントくらいが読めないと言われる「簡体字」だからです。では、簡体字は漢字ではないのでしょうか?いいえ、まさしく漢字なのです。しかし、私たちが慣れ親しんだ漢字とは異なる形で存在しています。この文字の違いは、単なる書体の問題ではなく、中国の近代化と国民国家形成の壮大な歴史と深く結びついています。

3.1 日本人が気づかぬ「漢字」の分断

簡体字は漢字ではないのかといえば、それは中国の文字がすべて漢字だという意味では、間違いなく漢字です。しかし、厳密に、あるいは現状に即して言えば、話はややこしくなります。例えば、日本語の平仮名や片仮名が漢字かといえば、これらは真名(漢字)に対する仮名(かたかな)であり、漢字とは言いません。そうした意味では、簡体字の一部は片仮名のような機能を持つものもあり、単純に「漢字」として一括りにはできません。私たち日本人は、漢字というものをあまりにも「まとまり」で感じすぎているのかもしれません。

中国における文字改革の歴史は、今に始まったことではありません。古くは甲骨文字(こうこつもじ)や篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)にも簡体字の萌芽(ほうが)が見られ、太平天国(たいへいてんごく)の時代にも簡体字が使われていた記録があります。つまり、文字の簡略化は中国の長い歴史の中で繰り返し試みられてきた自然な流れでもあったのです。この点において、日本の当用漢字(とうようかんじ)の論争とは、背景にある思想が少し異なると言えるでしょう。

3.2 毛沢東による文字改革の指示

本格的な文字改革が国家レベルで始まったのは、毛沢東中華人民共和国を建国して間もない1951年のことでした。この改革の背景には、魯迅(ろじん)が「漢字が滅ばなければ、中国が滅ぶであろう」と述べたように、漢字廃止を究極の理想とする思想の影響が強くありました。中国古来の文字表記システムは、一つの言葉に一個の漢字が対応するという原則を持っていましたが、これを習得し、使いこなすことには著しい限界がありました。実際、中国近代においても、漢字を自由に読み書きできたのは、知識人と一部の民衆に限られていました。

20世紀の新しい国づくりを、農民を基礎とする民衆の力によって進めようとした毛沢東らにとって、これは重大な問題でした。彼は、中国人民のほぼ全員が文字を読み、理解することが、国家建設の必須条件であると考えたのです。例えば、後の毛沢東語録が中国人民のほぼ全員に読まれたように、すべての国民が均等に情報にアクセスできる環境を整えることが、共産主義国家建設の根幹をなすものでした。

こうして文字改革は、国家改革の先陣の一つとなりましたが、当然ながらその道のりには紆余曲折(うよきょくせつ)がありました。極左(ごくさ)の方針は中国語の表記をすべてアルファベットなどの表音文字にしてしまえというもので、これは明治初期に森有礼(もりありのり)が日本語の表記をローマ字にしようとした狙いと同じでした。一方、中国には文字文化について「穏歩前進(おんぽぜんしん)」とか「約定俗成(やくていぞくせい)」という言葉で表される「文字というものは社会の習慣にしたがってゆっくり定着していくものだ」という“自信”があり、この方針でいけばいいという考え方もあって、これが簡体字化をじわじわと支えました。

3.3 簡化字の原則と「四つのアイディア」

様々な議論が重ねられた末、1955年の「漢字簡化方案」では789字が以下の方針で簡化されました。これは、現代の「簡化字総表」の基礎となっています。

  1. 筆画が複雑な繁体字はできるだけ簡体字にする。
    例:體 → 体、機 → 机
  2. 筆画が簡単な古字(こじ)があるものはそれにおきかえる。
    例:與 → 与、雲 → 云
  3. 筆画が多く古字がないものは同音の字とおきかえる。
    例:穀 → 谷 (gǔとgǔが同音)
  4. 複雑なツクリ(漢字の右側の部分)を同音の簡単なツクリにする。
    例:讓 → 让、識 → 识

これらを別の分類でいうと「省略」「字形変更」「代替」「新字」の四つのアイデアを混ぜ合わせたものと解釈できます。これらを統合して一つの方針にまとめあげたのは、銭玄同(せんげんどう)という人物でした。この文字改革は、中国の識字率向上に大きく貢献し、国民の教育レベルを引き上げる上で重要な役割を果たしました。しかし、同時に、従来の繁体字との間に隔たりを生み出し、特に台湾や香港、海外の華僑(かきょう)コミュニティとの文字文化における溝を作ることにもなりました。

考えてみれば、班固(はんこ)、鄭衆(ていしゅう)、許慎らが六書(りくしょ)によって漢字の構成システムを整理したときに、すでに会意(かいい)・形声(けいせい)・仮借(かしゃ)・転注(てんちゅう)などの六つの文字構成法が確立していました。現代風に言えば、漢字は字符(じふ)でできている文字体系で、その字符には意符(いふ)と音符(おんぷ)と記号(きごう)の三つがあります。このような知恵を持つ国民の文字文化には、外から口を挟む余地がありません。ただ感嘆して眺めるばかりで、その方法を真似ることさえ難しいのです。

3.4 漢字文化圏における文字改革の多様性

かつての日本や西夏(せいか)、突厥(とっけつ)、女真(じょしん)がそうであったように、漢字文化圏の周辺民族は、漢字は漢字のままで使いながらも、それとは別の漢字もどきや漢字離れを試行するしかありませんでした。これは、漢字という文字体系が持つ圧倒的な奥深さと、それを自国語にどう取り入れるかという、各民族の文化的な選択の結果でもあります。本書を読んで、私はつくづくそのことを想いました。

本稿が参考にしている、中国の漢字専門研究者やジャーナリスト、書家などの評論をまとめた著作は、これまで日本には意外に紹介されていなかったため、簡体字の全貌をつかむ上で貴重な情報を提供しています。監修者の阿辻哲次(あつじ てつじ)さんは、漢字に関する著作を数多く手がけ、日本における漢字ブームに一役も二役も買っています。しかしながら、私は漢字ブームだと騒ぐ前に、また漢字学の普及に学生が群がる前に、むしろ白川静の古代漢字思想にこそ日本人が没頭するとよいと考えています。漢字の表面的な簡略化や実用性だけでなく、その根源にある思想や文化的な意味を深く理解することこそが、現代の漢字文化圏を生きる私たちに必要な視点だと感じるからです。

コラム:簡体字の洗礼と「文字の壁」

私が初めて中国本土を訪れたのは、北京オリンピックが開催された数年後のことでした。空港に降り立った瞬間、目にした看板や表示のほとんどが、見慣れない「簡体字」であることに気づき、軽いショックを受けました。日本で漢字の学習にはそれなりに自信があったものの、街中を歩けば歩くほど、読めない漢字の多さに愕然としました。それはまるで、長年親しんできた友人が、突然全く別の顔を見せてきたかのような感覚でした。

特に印象的だったのは、レストランのメニューでした。料理名の漢字を読み解こうとするのですが、簡体字のため意味が全く掴めず、結局は指差しで注文するしかありませんでした。隣のテーブルでは、現地の人が流暢に漢字を操って会話しており、彼らにとっては当たり前の文字が、私には「文字の壁」として立ちはだかっていることを痛感しました。

この経験は、単に言語的な障壁にとどまらず、文化や歴史、さらには国家のアイデンティティがいかに文字と密接に結びついているかを深く考えさせられるものでした。簡体字改革がもたらした「利便性」の裏には、同時に「伝統」や「連続性」の喪失、そして「文化的な分断」といった側面も存在することを、身をもって学んだ旅でした。


第四章:毛沢東の肖像と『中国の赤い星』

毛沢東(1893-1976)。この名は、20世紀最大の謎に包まれた指導者の一人として、今なお多くの議論を呼び起こします。芸術家アンディ・ウォーホルが、毛沢東とマリリン・モンローを派手な色使いのシルクスクリーンに真っ先にしたのは、毛沢東が持つある種の「魔術的な魅力」と「社会的本質」を暗に言い当てていたのかもしれません。ウォーホルにはそうしたカンがやたらに冴えていた一方で、そこには色と形があるだけで、毛沢東を解くどんな目もありませんでした。ウォーホルの目は、ある意味では死んでいたと言えるでしょう。

4.1 20世紀最大の謎:革命家・毛沢東

毛沢東は、同志とともに中国共産党を興し、国共合作を巧みに工作しながら、中国を共産主義革命へと導きました。中華人民共和国を樹立し、その指導者として長きにわたって君臨します。1966年には林彪(りんぴょう)とともに文化大革命を提唱し、全国に紅衛兵(こうえいへい)をめぐらせ、世界にマオイズムの教条(きょうじょう)を喧伝(けんでん)しました。にもかかわらず、1976年の死の直後から根強い毛沢東批判がくすぶりはじめ、ついに1981年にはその思想と運動が公式に「誤り」とされてしまいました。虐殺のかぎりをつくしたとか、侵略のかぎりをつくしたというのではない。つねに人民の圧倒的支持を得ていた指導者なのに、その生涯のエピローグは黒々と塗り潰されてしまったのです。毛沢東が「公式に誤り」だったとは、一体何事なのでしょうか。

毛沢東にはものすごい細部があります。後の歴史を動かす人物との出会いと確執があり、これは時代を動かした人物なら誰にでも起こっていることですが、その大半が秘密裏に進捗(しんちょく)していたという例はあまりありません。最後の最後まで失脚しなかったという例も稀です。彼は天才的な革命家であり、また天才的な軍事戦略家でした。農民哲学者であってマルクス主義者であり、むろん最高のポリシーを心得た実践的政治家でもありました。

おそらく、いかなる20世紀の革命家や政治家、支配者とも似ていません。チャーチルルーズベルトケネディとは似ても似つかないし、ガンジーチトーナセルとも違います。言うまでもなくヒトラーとはまったく逆です。カストロホーチミンとも似ていません。わずかにスターリンと比較されることもありますが、スターリンは毛沢東ほど人民に愛されてはいませんでした。しかし、誰もがその本心を覗けなかったのです。国外からはもちろんのこと、国内においても、同志にさえ、毛沢東は本心を明かさなかったようです。

例えば、1918年、毛沢東は25歳で湖南第一師範学校を卒業して北京大学の図書館主任になっていますが、そこで毛沢東を助手にしたのは李大釗(りだいちょう)で、その李とマルクス主義研究会を組織したのは陳独秀でした。1920年に毛沢東が湖南に社会主義青年団を組織したとき、その団員の中に劉少奇(りゅうしょうき)がいました。しかし、このような人物との交差について、毛沢東はその“意味”を明かしてきませんでした。また例えば、1929年に江西省瑞金(ずいきん)地域にソヴィエト政府が樹立された。これをなしたのは毛沢東と朱徳(しゅとく)です。このあと毛沢東の地域ソヴィエト運動と都市暴動派とのあいだに激しい軋轢(あつれき)がおこる。そこで彭徳懐(ほうとくかい)が指導する紅軍が長沙(ちょうさ)を攻撃して蒋介石がこれを逆襲するのですが、このとき毛沢東の最初の妻と妹が死んでいる経緯を、毛沢東は話してきませんでした。歴史が歴史にならないのです。いや、彼自身が歴史を操り続けたのかもしれません。そうでないのかもしれない。そこすらわからないのですが、すべてのドラマが毛沢東という人物に集約されるとは、最初のうちは少なくとも誰も考えてはいませんでした。毛沢東は脇役ではないが、主役の一人だと思われていた程度であって、たった一人の主役ではなかった。そうでないとすれば、誰がいったい毛沢東がマルクス主義者や共産主義者なのではなく、“毛沢東主義者”だと思えたでしょうか。

4.2 エドガー・スノーとの稀有な関係

その毛沢東に、外国人のジャーナリスト、エドガー・スノーだけが親しく近づくことができました。そして、当時は誰もがスノーが著した『中国の赤い星』で伝えられた毛沢東の言葉を、毛沢東の本心にいちばん近いものと受けとったのです。それだけの説得力がこの本にはありました。スノーは1936年に最初に毛沢東と会見し、その後も39年、60年、65年、70年と会見を続けています。これは申し分ない関係であり、他にこのような関係を築けた人物は世界に一人もいません。だからこそ、『中国の赤い星』はむさぼるように世界中で読まれ、そのドキュメントの全体が“信用”されたのです。スノーの誠実な人柄や、ジャーナリストとしての有能な観察力がそうさせるだけのものを放っていました。

しかし、そうであるだけに、今になって毛沢東の謎が深まれば深まるほど、スノーが毛沢東を見た目と、毛沢東がスノーに語り託した事実との関係が、現代史の最も難解な交点として異様に浮かび上がるのです。ジャーナリズムの持つ力と、歴史記述の複雑さを改めて考えさせられます。

4.3 中国における日本の蹂躙と抗日統一戦線

『中国の赤い星』にはもう一つ、重要な交点が重なっています。それは、中国における日本の容赦ない蹂躙(じゅうりん)の軌跡です。毛沢東が抗日統一戦線の勇者であればあるほど、この本は日本の侵略をいきいきと描き出すことになります。このことを西側諸国がどう読むかについて、スノー自身が1968年版の序文で的確に説明しています。中国が日本を叩いてくれるのか、西側はそこだけに関心を持っていた時期に、本書が欧米の読者の前に躍り出たわけでした。

本書が好意的な注目を浴びたのは、西欧列強がおのれの利益のために中国に奇跡が起こることを求めていた時期と、おそらく合致したからでもあったでしょう。西欧列強は、中国に新生のナショナリズムが台頭し、日本を窮地におとしいれ、日本がその真の狙いである西欧列強の各植民地に手出しできなくなることを夢想していたからです。

本書に描かれた出来事は、その年代だけを特定すれば1936年から翌年までの2年間のことだけです。この1936年は、中国共産党がそれまでの内戦を停止し、抗日統一戦線に切り替える方針を出した年であり、12月には蒋介石張学良(ちょうがくりょう)に逮捕されるという西安事件が起きた年でした。けれどもそれが決定的でした。この年に中日戦争(日中戦争)の大規模な戦火が始まり、そのまま8年にわたって戦場が血まみれに拡大し、そのまま第二次世界大戦となっていったからです。そうなってから毛沢東に会うことは不可能だったでしょう。スノーは最もぎりぎりの時点で毛沢東に会い、中国共産党の台頭期の経緯の詳細を知り、それを初めて世界に伝えたのでした。

もっとも、本書は毛沢東を中心に描かれたドキュメントではありません。もちろん評伝でもないのです。そこは間違わないでほしいと筆者は言います。本書は、西側にまったく知られていなかった「赤い星の土地と人民」を見聞した記録なのです。登場人物も相当な数にのぼり、その大半が1970年前後まで、中国の全体を牛耳る指導者群でした。本書には、100名近い主要人物の略伝がスノー自身の鋭い目で付録されています。

4.4 『中国の赤い星』の歴史的位置づけ

筆者は幼少期に、父に勧められてこの著作を読んだ際の奇妙な興奮を鮮明に覚えているといいます。「高揚したのではない。興奮したが、そこに落ちていった。いわば興奮をともなう落下感があった」と表現しています。日本の侵略のやり口に驚き、農民という力の巨大さを見せつけられながらも、なぜか爽快な読後感があったと述べられています。それは、まるで『三国志』を現代的に書けばこうなるのかと思わせるような、次々に起こる事態の進展が説得力に富んでいたからだといいます。その中で、やはり毛沢東という人物の異様さが際立っていたそうです。彼の生い立ちが語られ始めるのが作品の後半になってからだったことも、その神秘性を高めていたのかもしれません。

『中国の赤い星』がノンフィクションの正真正銘の古典であると評価されるのは、世界が毛沢東をどう見ていたか、そしてその後の歴史の進展に与えた影響の大きさにあります。この本は、単なる歴史の記録に留まらず、20世紀の国際関係やイデオロギー対立の根源を理解する上で不可欠な、時代を映す鏡のような存在なのです。

コラム:歴史と「解釈」のあいだ

高校生の頃、歴史の教科書で日中戦争の記述を読み、正直なところ、感情が動くことはあまりありませんでした。数字や年代、地名が羅列されているだけで、それが人々の暮らしにどう影響したのか、当事者は何を考えたのか、今一つピンとこなかったのです。

しかし、ある時、大学の図書館で手に取ったある歴史書の一節が、私にとっての歴史観を大きく変えました。それは、ある戦時下の女性の、ごく日常的な生活の描写でした。配給の列に並び、子供の空腹に心を痛め、夫の無事を祈る。そのわずか数行の文章が、それまで数字でしかなかった戦争に、生きた人々の顔を与えてくれたのです。文字の羅列が、突然、血の通った物語として立ち上がった瞬間でした。

『中国の赤い星』も、きっとそのような書物なのだと思います。歴史は、単なる事実の連なりではなく、それらをいかに「解釈」し、いかに「語る」かによって、その姿を大きく変えるものです。事実と解釈、そして受け手の感性が交錯する場所にこそ、歴史の真の学びがあるのだと、私は信じています。


第五章:山県有朋と明治日本の軍国主義

昨今の日本の体たらく(ていたらく)を見ていると、こんなふうにツルツルになった政体日本の来し方を、いろいろ振り返りたくなります。宮沢内閣の経済大国主義や小泉純一郎の劇場政治、銀行や証券、教育政策の無策ぶりを咎めたくなったり、日中戦争や太平洋戦争を貪(むさぼ)った機運の複合性が気になったりしますが、結局は「果たして明治維新はあれでよかったのか」という疑問に何度も立ち戻ってしまいます。

5.1 明治維新と日本の国策転換

明治国家は、列強に伍(ご)するために文明開化(ぶんめいかいか)・富国強兵(ふこくきょうへい)・殖産興業(しょくさんこうぎょう)を謳い、早急なグローバル化を目指しました。しかし、明治の日本は黒船来航以来の「不平等条約の足枷(あしかせ)」をはめられていました。そこでこれを撥ねのけようとしたのですが、その途端、列強のアジア進出やロシアの南下(なんか)の勢いに巻き込まれ、幕府解体後の近代国家は列強と東アジアとの一触即発(いっしょくそくはつ)の上に設立させることを選びました。

いったん征韓論でためらったのち、日清戦争日露戦争、そして日韓併合を続けざまに仕掛けてみたところ、これが案外うまくいきました。戦費はかさみましたが、存外に国力があるではないか。産業革命も官営と払い下げでそこそこ成功したではないか。清やロシアとの戦争にも勝てたではないか、と。

戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められ、国際的地位が向上しました。賠償金は国内産業の発展に活用され、日本は本格的な工業化の第一歩を踏み出します。よしよし、それならもっと領土も拡大できると思ったのですが、むろん列強は甘くありません。三国干渉をしてくるし、植民地拡大策として満州国(まんしゅうこく)を準備したときは文句もつけてきました。ついついノモンハンで走狗(そうく)となってみると、引き戻せない。慌てて五族協和大東亜共栄圏を旗印にしてみたものの、中国は本気で抵抗し、反撃もしてきました。これで日中戦争に突入し、引っ込みがつかなくなってしまいました。

方針を転換するか、断念するかしてもよかっただろうに、そうしなかった。アジアで戦線を拡大しているところへもって、さらに真珠湾(しんじゅわん)に奇襲をかけて太平洋を獲ろうとしてアメリカとも戦った。結果はご覧の通り、休戦停戦の時期も獲得できず、壊滅させられました。今や日本はまるまるアメリカの基地列島だ、と筆者は述べます。なぜ、こんなふうになったのか、あれこれ振り返ってみると、やはり明治維新に戻る。あるいは維新政治をつくりあげた担い手たちの思慮と決断、そしてその中身に戻る。また、明治をロマンチックに語りたく思ってきたその後の日本人の心情の検討に戻らざるをえなくなるのです。

5.2 明治国家の担い手たちと「有司専制」

明治国家は、主に薩長閥(さっちょうばつ)がつくりました。薩長は、幕府にも藩政にも嫌気がさしていた連中でした。富国強兵殖産興業はこの連中の野望であり、それを果たすのに王政復古を必要としました。しかし、これは本格的な古代王政の復権ではなく、いわば「うわべだけ王政」だったのです。そんなことを誰が仕組んだのかといえば、幕末の志士たちの一握りが企てました。薩長土肥(さっちょうどひ)と呼ばれる、坂本龍馬岩倉具視(いわくらともみ)、桂小五郎(木戸孝允)らの顔がすぐに浮かびます。彼らが選んだカバナンスは、君主(天皇)を戴いた「有司専制」でした。有司とは官僚や役人のことですから、今日の用語なら官僚主義体制というものですが、伊藤博文を首相に立てた内閣制度もその中身は有司専制でした。もちろん有能無能のいろいろな有司がいましたが、それはそれで多士済々(たしせいせい)でした。岩倉、桂(木戸孝允)、大久保西郷江藤、そして伊藤、山県がいたのです。みんな30代で青雲の志は高く、身を呈して国政を担い、それぞれが大望を抱いていました。ただ、筆者はこのような連中のことをわれわれは評価しすぎたかもしれないと述べ、忸怩(じくじ)たる思いがあると言います。

維新の有司たちは近代国家を用意し、「天皇の軍隊」をつくり、統帥権(とうすいけん)という決定(けつじょう)を確立しました。その中で軍政を掌握し、昭和の軍国主義の装置を仕込んだリーダーとして頭角を現してきたのが、まさに山県有朋でした。山県は日本には珍しい絶対主義型の首謀者で、一貫してドイツの宰相ビスマルクに憧れていました。日本に軍政をもたらしたのは、大村益次郎(おおむらますじろう)とそれを継いだ山県です。その点については司馬遼太郎の『花神』などの説明だけではまにあわないことが、いろいろあります。明治の前歴を刻み込んだ「軍人勅語(ぐんじんちょくご)」「教育勅語(きょういくちょくご)」も、山県のもくろみから生まれたものでした。明治の政治には多くの犠牲と殺戮(さつりく)、隠蔽(いんぺい)が伴っていました。それらがどのようになされたのか、いまだ見えにくいことがかなりあります。中でも特に山県が見えにくい存在でした。そこでこの十年ほどは、筆者自身も戊辰戦争(ぼしんせんそう)、維新における政体論議、徴兵制と軍政の施行、日清日露の紆余曲折、内閣議院制度の内幕、政党政治の出現などなどの経緯を意図的に啄(ついば)み、時折勝海舟の『氷川清話』などを借りて明治の元勲たちの実像を覗いてきたとのことです。

ルネ・ジラールは「世の始めから隠されてきたこと」として、一つに「誰が暴力の発動者だったか」ということ、二つに「誰が人知れず犠牲になったのか」ということを喝破(かっぱ)しました。幕末維新にもそれが当てはまります。「隠されたこと」があった。特に維新前後と大日本帝国の確立にあたっては、軍事軍政の問題が大きく、そこに「隠されたこと」が右往左往しました。右往左往の中心のちょっと裏には、たいてい山県がいました。けれどもジラールが言っているように、その動向と実相ははなはだ見えにくい。見えにくい山県のところで、いくつもの紐が絡み、日本権力構造の突出を希(こいねが)う結んで開いてがおこってきたのです。

歴史家たちがそうした山県の実像を描かなかったわけではありません。数々の維新論のなかでの描写や論評はもちろん、様々なことが言及されてきました。杉山茂丸(すぎやましげまる)の『山県元帥』(1925年)以来、御手洗辰雄(みたらい たつお)、藤村道生(ふじむら みちお)、岡義武(おかよしたけ)、松本清張(まつもとせいちょう)などの評伝や著作、小説もありました。筆者もそれらのペンに従って、少しは山県を追ってみたものの、どうも肝心のところが見えてこなかったと言います。そこで本稿では、半藤一利さんの著作を下敷きにすることにしました。半藤さんは昭和史に造詣が深く、特に軍事史に強みを持っていますが、彼が敢えて山県有朋という明治の人物に筆を執ったのは、「山県を書かなければ昭和はわからない」という強い思いがあったからでしょう。

最近、なぜだかちょっとした山県有朋ブームが起こっています。伊藤隆(いとうたかし)が編んだ『山県有朋と近代日本』、伊藤之雄(いとうゆきお)の『山県有朋 愚直な権力者の生涯』、また井上寿一(いのうえじゅいち)の『山県有朋と明治国家』、松元崇(まつもとたかし)『山県有朋の挫折』などが連打されています。これはきっと、今日の日本が憲法第九条や靖国(やすくに)、尖閣諸島(せんかくしょとう)などの問題を抱えて難産を繰り返しているとき、これらの問題を山県にまで遡って考える必要が出てきたからでしょう。

筆者である半藤一利さんは、元々は文藝春秋の編集者としてチョー有名でした。文春を代表する出版人で、専務取締役まで務めていました。そのため、1995年に退社するまでは「執筆」はお預けで、もっぱらメディア界を唸らせる仕事に従事していました。月刊文藝春秋と週刊文春を田中健五と張り合いながら編集長を務めたのがよく知られた仕事でしょう。筆者は個人的に「漫画読本」の方を買っていたと述べています。菊池寛(きくちかん)が創刊した文藝春秋は、筆者の父が数十年にわたって欠かさず購読していたほどの文春派だったそうです。筆者自身は中高時代にはあまり読めず、時々父の書斎の片隅に積んであった漫画読本の方を盗み読み、これが大人向けの漫画を扱いながらも、洒落た大人の気分になれたと語っています。ちなみに、半藤さんが漱石の親類筋だというのは、夫人が松岡譲筆子(漱石の長女)の四女だったからだそうです。そんなこともあって、漱石に関する著作も数多くあります。

このような半藤さんが、よりによって山県有朋を書いたというのは、山県が食えない軍人政治家だったから食ってやろうということもあったでしょうが、山県の天皇主義(てんのうしゅぎ)や軍事主義の意図がわからなければ昭和の正体はわからないと感じてきたからでした。それに、半藤さんは大の「薩長嫌い」なのです。『それからの海舟』には、「わたくしはどうも生まれつきの勝海舟好きであるようである。東京は向島の生まれ、空襲で焼かれ都落ちして越後長岡の中学校卒、と自己紹介すれば、わがうちなる薩長嫌いは申さずともわかっていただけよう」とあります。戊辰戦争で長岡藩を苦しめた「長州の山県」など、とんでもないのだ。それでも山県に対峙してみなくては、明治も大正も見えないし、昭和の軍国主義の奥行きが覗けない。こうして本書が綴られたのです。

話は戻りますが、山県という男はたいへん掴みにくい人物でした。これまで、研究者や評伝作家たちが皆苦労してきました。だいたい昔から「暗くて陰湿」「悪人の相」「本音を言わない」などと揶揄(やゆ)されてきたのです。人気もありませんでした。大正11年1月に大隈重信の国民葬が日比谷公園でおこなわれたときは70万人が参列したのに、その20日後に同じ日比谷で85歳で亡くなった山県の国葬のときは閑散としていて、新聞すら「この淋しさ、冷たさは一体どうした事だ。席も空々寂々(くうくうじゃくじゃく)で、国葬らしい気分は少しもせず、全く官葬か軍葬の観がある」と報じました。こんなふうに「官葬か軍葬の観」と書かれたのが、まさに山県の生涯を暗示します。山県は「軍閥(ぐんばつ)の祖」で「軍政元老」であって、親しみをこめて言っても「国軍の父」なのでした。

人柄もわかりにくく、「味噌とっくり」という徒名(あだな)がついていました。徳利に入った味噌はなかなか出てこないことから、万事に用心深く、自分から火中の栗を拾う気がない奴だ、そういう脳味噌の持ち主だという意味です。千首近くも和歌(短歌)を詠んでいるわりにはその大半が詠嘆調(えいたんちょう)でへたくそで、書も細長い右上がりで捩(ねじ)れていて、にわかに性格が掴みにくい。司馬遼太郎は『坂の上の雲』や『花神』などの作品のなかで「模倣者、金銭欲の権化(ごんげ)」「はらわたの巻き方の複雑な男」「国家的規模の迷信家」などと酷評しました。晩年の山県に会った新聞記者の阿部真之助(あべ しんのすけ)は「多くの人の顔を見てきたが、あんな薄気味悪い顔を見たことがない」と書き、「あの顔はどうみても冷酷なエゴイストの顔だ」と言ったほどです。ところがそういう山県に、近代日本は「天皇の軍隊」を任すことにしたのです。なぜなのか。山県が強引だったからか。他に人材がいなかったのか。それが日本の宿命だったのか、山県が天皇主義(てんのうしゅぎ)だったからなのか。もしそうなら、どんな経緯でそうなったのでしょうか。

5.3 軍政の確立者:山県有朋の軌跡

少し、山県の生涯のトピックを追ってみましょう。特に幕末維新の初動期が見えないと、そのあとの動向の顛末(てんまつ)がわかりません。山県有朋が萩(はぎ)の城下に生まれたのは天保9年(1838年)です。足軽身分(あしがるみぶん)の貧しい家でした。5歳で母を亡くし、13歳のときに打廻手子(うちまわしてこ)となります。後添え(うわぞえ)としてやってきた継母(ままはは)は意地悪だったらしく、もっぱら祖母の手で育てられました。幼名は辰之助、その後は小助(小輔)というのですが、そのうち周囲から「狂介(きょうすけ)」と呼ばれるようになりました。狂介という通称は山県にふさわしいものです。

16歳のときにペリーの黒船が来て、日本中がひっくり返りました。長州藩では村田清風(むらたせいふう)が藩政改革に乗り出していました。そんななか狂介は明倫館(めいりんかん)の手子役、代官所手子役、目付横目役などに就きながら、岡部半蔵(おかべはんぞう)のもとで槍の技を磨きました。槍術(そうじゅつ)を通して武人への憧れが芽生えたようです。安政5年(1858年)、長州藩が風雲急を告げる京都に諜報員(ちょうほういん)として杉山松助(すぎやままつすけ)・伊藤俊輔(博文)ら6人を派遣したとき、狂介はその一員に加えられました。たちまち一触即発の天下の情勢が飛び込んできました。志士たちがいることも知ったのです。京都では久坂玄瑞(くさかげんずい)・梁川星巌(やながわせいがん)・梅田雲浜(うめだうんぴん)と出会って勤王(きんのう)の意気に触れ、その国学思想や尊王攘夷論にいたく感動しました。帰藩後は久坂の奨めもあって松下村塾(しょうかそんじゅく)に入りました。それが21歳のときです。スタートは遅い。自分は「文」のほうはからきし苦手なので入門をためらっていたせいだ。それが松陰(吉田松陰)に見つめられて、目が覚めたのです。すぐに松陰先生は獄死したので、1年程度しか教えを受けていないのですが、それでも山県はその後もずっと自分が松陰門下生であったことを誇っています。

23歳で父を亡くしますが、世情はそれどころではありません。水戸藩士による桜田門外の変がおこって井伊直弼が斬られ、長州藩は「公武合体(こうぶがったい)」を唱えました。狂介も再び京都へ、さらに江戸へと派遣されました。文久3年(1863年)はいわゆる「攘夷の年」です。朝廷が5月10日を攘夷決行日と定めました。長州藩は馬関(ばかん、現在の下関)海峡での戦闘を整え、攘夷決行の当日は通航中のアメリカ商船ペンブローク号に砲撃を加え、5月23日にはフランス艦船キンシャン号に、翌日はオランダ軍艦メジュサ号も砲撃しました。しかし藩兵の士気が盛り上がったのはそこまでで、2週間後からはアメリカ軍艦、フランス軍艦が次々に海峡に進攻して、砲台をやすやすと壊滅させていきました。あまりの「力の差」を思い知らされたのです。

なかで高杉晋作(たかすぎしんさく)は久坂玄瑞入江九一(いりえくいち)らの光明寺党(こうみょうじとう)が根強い抵抗を見せたことに注目して、奇兵隊を結成しました。待っていたかのように狂介は入隊し、ちょっと功績をあげました。総督が赤根武人(あかねたけと)で、山県狂介は軍監となり、壇ノ浦支営(だんのうらしえい)の司令を任されました。長州藩では奇兵隊に続いて遊撃隊・八幡隊・集義隊・力士隊などが誕生し、次の一戦にはなんとしてでも「攘夷の一矢(いっし)」を報いる覚悟が漲っていました。けれども、これは裏目に出ました。攘夷から開国へと、日本の国策が大転換してしまったからです。朝廷も右往左往です。薩摩と会津が手を組んで、三条実美(さんじょうさねとみ)らの攘夷強硬派の七卿(しちきょう)が朝廷から一掃されました。会津藩は1500名、薩摩藩は150名を動員していました。いわゆる「八月十八日の政変」です。これで攘夷派の本山じみていた長州が揺れました。久坂のようにただちに京都出兵を唱える者もいましたが、保守派は自重を促し、高杉や桂小五郎も今は幕府と対決する実力を養うのが先決だと考えました。そこへ池田屋事件です。勤王の志士たちが新撰組(しんせんぐみ)に襲われました。藩論は一転硬化し、元治元年(1864年)6月に京都出兵を決めました。長州軍は大挙して入洛(にゅうらく)をはかるのですが、結果は禁門の変(蛤御門の変)です。会津藩士が守る御所に大砲を打ち込み、逆に追い散らされました。長州は朝敵(ちょうてき)となります。このことで幕府に口実ができました。家茂(いえもち)は長州征討(ちょうしゅうせいとう)を朝廷に奏上(そうじょう)し、36藩の大名たちに出兵を命じました。

このあと長州はまたまた混乱し、二転三転します。長州の幕末維新は決して一様ではありません。バラバラです。幕府に恭順(きょうじゅん)しようとする赤根武八(あかねたけはち)を総監とする「俗論党(ぞくろんとう)」と、高杉をトップとする抵抗派の「正義党(せいぎとう)」が対立し、そこへもってきて英仏蘭米の四カ国連合艦隊が長州の攘夷決行に対する打撃のために下関沖に放列を並べました。慌てて留学中のロンドンから帰ってきた伊藤井上聞多(馨)は国内戦闘の無謀を説き、藩論はなんとか和議に向かったのですが、時すでに遅く、戦端が開かれて長州は惨憺たる敗北を喫します。家老たちは切腹させられ、その首が征長軍の本陣に送られました。責任者は次々に斬首(ざんしゅ)されました。高杉が「このままでは長州が滅びる」と思ったのは当然です。それなら、どうするか。外へは打って出られない。高杉の決断は「内部の敵を叩く」でした。この方針に力士隊を率いていた伊藤が賛同し、そこに遊撃隊も加わって、俗論党を討伐することになりました。味噌徳利の狂介もさすがに覚悟したのか、こんな都々逸(どどいつ)をつくっています、「粋なこの世に生まれたからは意気な人だといはせたい」。つまらない都々逸ですが、この通りの心境だったのでしょう。奇兵隊の進撃はめざましく、ついに俗論党は力が尽き、長州は再び尊王攘夷の旗印を掲げました。慶応元年(1865年)になっていました。狂介は28歳。可愛がってくれた祖母が自害しました。

幕末はひたすら目まぐるしい時代でした。明治維新に向かって大きなシナリオがあったためしなど、なかったのです。右顧左眄(うこさべん)・右往左往(うおうさおう)・左見右見(とみこうみ)、ともかく行き当たりばったりです。短慮果敢(たんりょかかん)、陰謀即断(いんぼうそくだん)も多かった。要するに幕末日本はでたらめだったのである、と筆者は喝破しています。それでも日本が維新にこぎつけられたのは、ロシアの南下、普仏戦争(ふふつせんそう)の動き、アメリカ太平洋戦略の策動、朝鮮と清の極度の不安定といった外的状況が、踵(きびす)を接するように風雲急を告げていたことによるものです。この火急の時期に、幕府は喘々(ぜいぜい)して呼吸困難になっていました。この体たらくを見た各藩がいきりたつのは当然です。長州もそうした。幕府は対外政策より、そちらのほうに目くじらをたてました。幕府はうるさい長州に鉄槌(てっつい)を食らわしたくて、第2次長州征伐を決意しました。長州のほうは西洋兵学を講じていた大村益次郎(村田蔵六)に軍の総指揮を委ねました。このとき裏側では坂本龍馬が動いて薩長密約を準備していました。こうしてついに幕末史の決定的な瞬間がきわどく訪れました。慶応2年正月、長州の桂小五郎と薩摩の西郷吉之助隆盛のあいだで、両藩連合の正式交渉が成立しました。なんとか間に合ったというか、なんとも名状(めいじょう)しがたい野合(やごう)で乗り切ったというか、大いに意見が分かれるところです。半藤さんは「坂本龍馬と中岡慎太郎の大陰謀だった」と書いています。

そんなことはつゆ知らぬ幕府は6月に長州再攻撃の命令を発するのですが、今度は軍事の才が高い大村をトップに据えた長州軍のほうが優勢でした。すでに桂が伊藤井上を走らせて、長崎の戦争商人グラバーからミニエー銃4300丁、ケベール銃3000丁を購入もしていました。慶応3年10月、朝廷はついに薩長両藩に倒幕の密勅(みっちょく)を下しました。会津(あいづ)・桑名(くわな)の両藩を誅戮(ちゅうりく)せよという勅書も渡されました。孝明天皇(こうめいてんのう)が没し、15歳の明治天皇が即位しました。一方、幕府は勝海舟(かつかいしゅう)らが時勢を読んで、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還(たいせいほうかん)を申し出ました。一抜けた、です。長州は俄然(がぜん)、燃えていました。単独出撃をしかねない状況です。大村が出撃を戒めましたが、狂介はめずらしく即時出兵を強調しました。けれども大勢は西郷が指揮する討幕軍が迅速に行動を起こし、追われた会津・桑名の軍勢が退くと、慶応4年正月が開けて鳥羽伏見の戦いに、さらには西軍が東軍を蹴散らしていく戊辰戦争に、一気に転じていったのです。狂介は西軍が江戸に迫った3月に、奇兵隊の主力を率いて京に入り、4月中旬に無血開城(むけつかいじょう)がおわった江戸に凱旋(がいせん)しました。

しかし佐幕派(さばくは)(東軍)のほうはまだ戦闘をあきらめません。奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)の準備も進みます。徳川がダメなら各藩が抵抗する以外ない。戊辰戦争が進んでいきました。勤王派(きんのうは)(官軍)はそんな抵抗なら一気に潰せると見ていました。岩倉の画策が功を奏して「錦の御旗(にしきのみはた)」を捏造(ねつぞう)すると、あたりかまわず蹴散らしていきます。私は子供のころに時代祭(じだいまつり)の先頭を行進する「ピーヒャラ、ドンドコドン」の彰義隊(しょうぎたい)の勇姿をカッコいいと見ていたものですが、実際にはこのときの官軍の異常さは目にあまるものがあります。その一端については、長谷川伸の『相楽総三とその仲間』などに述べられています。征東大督府(せいとうだいとくふ)は参謀に前原一誠(まえはらいっせい)・吉井友和(よしいともかず)・黒田了介(清隆)に狂介を加えて、北陸道(ほくりくどう)の鎮圧に向かわせました。西郷は狂介に言いました、「越後口(えちごぐち)まで追い詰めても、長岡藩とは決して戦うな」。西郷は長岡藩の小林虎之介(こばやしとらのすけ)・河井継之助(かわいつぎのすけ)・鵜殿春風(うどのしゅんぷう)らが築きあげた「常在戦場」の力を知っていたのです。が、狂介は気負っていました。越後高田(えちごたかだ)に到着すると、すぐにでも越後攻略を敢行したがったのです。この気配を察した河井継之助は小千谷(おぢや)の西軍本営に出向いて中立歎願(ちゅうりつたんがん)の工作と収拾(しゅうしゅう)をはかるのですが、土佐の板垣退助などは「徳川は馬上で天下をとったのだから、悔しくば馬上で闘ってみよ」と居丈高(いたけだか)です。岩村精一郎(いわむらせいいちろう)は河井を一蹴(いっしゅう)し、かくして長岡での戦端が開かれました。この場面については、長岡育ちの半藤さんは手を抜けない。山県と河井の戦い方を詳しく描写しています。結局、31歳の山県が援軍を得て42歳の河井の戦力を打ち砕くのです。

5.4 「天皇の軍隊」と軍国主義の基礎

事態はどんどん驀進(ばくしん)します。明治2年3月に東京遷都(とうきょうせんと)。5月には箱館五稜郭(はこだてごりょうかく)の陥落です。土方歳三(ひじかたとしぞう)が戦死しました。そんなとき狂介は以前から望んでいたことだったようですが、洋行のチャンスを得ます。それで慌ただしくもパリ、ロンドン、ベルギー、オランダをへてベルリンに入りました。狂介はビスマルクの鉄血政策(てっけつせいさく)が濃いことにかなり感銘しています。彼の地では同行の西郷従道(さいごうつぐみち)と語りあいました。「日本も徴兵制を導入して、軍備力を高めなければならない」「日本には王政と軍隊が結びつかなければならない」。狂介はビスマルクの魂胆(こんたん)に比肩(ひけん)しうる「日本の軍事づくり」に目覚めていったのです。ここに山県狂介は、極度に愛国的で、国粋軍事的な山県有朋になっていったのでした。

明治3年、山県は帰国して兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)を拝命しました。兵部省(今日の防衛省)を牽引するのは大村益次郎の役割だったのですが、ところがその大村が京都木屋町(きやまち)の旅館で刺客(しきゃく)に殺され、46歳の生涯を終えました。『花神』に詳しい記述があります。ここでお鉢が山県に回ってきました。山県は大村がいささか武士道に加担しすぎる軍政論を主張していたのを訂正して、むしろ西郷を立てて士族(しぞく)たちの懐柔(かいじゅう)を負担してもらい、国軍づくりを準備するという魂胆をもったのです。これは、まずは「御親兵(ごしんぺい)」づくりをしようというもの。岩倉具視(いわくらともみ)、大久保利通(おおくぼとしみち)に勅使(ちょくし)になってもらい、自分もそこに加わって鹿児島の西郷の説得に赴きました。「よかごわす」。西郷の一言で御親兵(近衛兵)づくりは決まりました。西郷は参議(さんぎ)となりました。これを機に新政府は廃藩置県(はいはんちけん)を断行します。サムライ解散です。各藩はもちろん憮然(ぶぜん)とします。そんなふうに全国に40万人はいるとみられた不平士族(ふへいしぞく)を抑えるにも、このとき西郷が必要だったのです。こうして御親兵づくりが進捗しました。のちに子爵(ししゃく)となった鳥尾小弥太(とりおこやた)は「大御変革、御手順」が首尾よくすすんでいることに満足しました。イギリス公使パークスは「ヨーロッパでこんな大変革をしようとすれば、どうしても数年間の戦争が必要だろう。日本ではただ一つの勅諭(ちょくゆ)だけで270余藩の個別実権が統合できるのか」と驚いたと言います。

山県は兵部大輔(ひょうぶたいふ)に昇格し、国軍の準備の第一歩が踏み出され、陸軍中将になった、34歳です。日本の軍隊は、当初は大村の方針にもとづいてフランスの軍制に傾き、のちにドイツ式に変更するというふうに進みます。最初は東京・大阪・小倉・仙台に鎮台(ちんだい)をおき、そこそこの常備兵(じょうびへい)を配備して、西周(にしあまね)が起草した「国軍の読法」を配布することにしました。これで徳川時代のいっさいの藩兵(はんぺい)が消滅していったのです。ここから徴兵制に向かい「富国強兵、国民皆兵(こくみんかいへい)」を狙います。これが大村のマスタープランだったのです。『兵部省前途の大綱』に書いてあります。ただあまりに急ぎすぎて、46歳で命を落としました。西郷というスペキュレーションの札をつかわなかったのも手落ちだった。山県はそこを見て「大村の大綱」の改良的実現に向かったのです。そんな山県も一度つまづいた。山城屋事件(やましろやじけん)です。御用商人(ごようしょうにん)の山城屋(野口三千三)に山県が工面した60万円ほどのカネが渡っていて、その説明ができなくなったのです。山県は自分は関与していないとシラを切り、しばらく沈黙を守って近衛都監(このえととく)の座を西郷に譲りました。こういうときの山県は恐ろしいほどにリアリストとして機能します。部下や仲間の「尻尾切り」だって平気なのです。権力の掌握をあきらめていないからであり、そして、ほとぼりがさめると、逆襲に出る。だいたいがそういう人生でした。

山城屋事件で追及を免れたとしても、道義的な責任をとるしかないと踏んだ山県は、近衛都督(このえととく)を辞任してしばらく沈黙を守りました。後任は西郷になりました。近衛兵団はもっぱら薩摩系でつくられていたからです。逼塞(ひっそく)しながら、山県は逆転のシナリオを考えました。自分が政界や軍政に躍り出るには、近衛兵団を弱体化させておかなければならない。それには四民平等(しみんびょうどう)を旗印にした徴兵制を持ち出すのが一番だ。幸い川村純義(かわむらすみよし)と西郷従道が薩摩でありながら徴兵制の建議派(けんぎは)である。これをとりこんで推進していけば、自分が陸軍省をつくっていったときのボスになれる。姑息(こそく)なシナリオでしたが、だいたいはそういうふうに進みました。明治5年、国民皆兵の徴兵制が公布されました。多くは農兵だったけれど、これで平時38000名の、戦時46000名の兵数を動員することができるようになりました。山県にチャンスが近づきつつありました。ただ、事態はじりじりとしか展開しません。翌年に政府の内部が征韓論をめぐって大いに揉めました。とたんに自分の意向が理解されなかった西郷や板垣らが下野(げや)してしまいました。後藤象二郎(ごとうしょうじろう)・江藤新平副島種臣(そえじまたねおみ)らも降りました。「明治6年の政変」です。日本の来たるべき軍事組織はここで大西郷を欠くことになり、下野した板垣・後藤・副島は自由民権運動に転じ、江藤は佐賀に戻って反政府の狼煙(のろし)をあげるようになっていったのです。

大久保が鹿児島に下野した西郷の動向に不穏な疑問をもつと、ここに「西郷討つべし」の機運が高まり、明治最大の内戦「西南戦争」に突入します。あたかも薩摩を長州が討つという構図です。このとき打倒西郷のために軍隊を総指揮したのが山県です。西郷が自決して西南戦争はおわりました。陸軍省は参謀本部を設置して、山県が初代本部長に就きました。三宅坂(みやけざか)の上に新築された参謀本部はイタリアのカペレッチの設計の白亜の殿堂となりました。山県は自由民権運動の気運が軍部に入ってくることを極端に警戒しました。参謀本部の次長となった大山巌(おおやまいわお)と腹心の桂太郎(かつらたろう)とで、軍人の規律をつくろうと考えます。西周(にしあまね)に起草させ福地桜痴(ふくちおうち)が加筆して、井上毅(いのうえこわし)が法的字句を修正した「軍人訓戒」を配布して、軍紀(ぐんき)の引き締めにとりくみました。福地は「世論は惑わず政治に拘わらず、只々(ただただ)一途(いちず)に己が本分の忠節を守り、義は山岳より重く、死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ」と潤色(じゅんしょく)しました。これは日本最初の軍人主義の標榜(ひょうぼう)です。このあと陸軍大臣になる大山巌にシンボライズされるように、「日本の軍人像」はここに起点を発しました。陸軍士官学校、陸軍幼年学校を独立組織とし、海陸軍刑法を陸軍刑法と海軍刑法に分離し、東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)を靖国神社(やすくにじんじゃ)と改称させもしました。伊藤博文はこうした「山県の軍隊」を容認しました。

5.5 内政と外政:山県の「超然主義」

軍人主義とは軍拡主義です。これに対して「軍部はむしろ政治や政治家と一体になって国政を指導すべきだ」という反対派が登場してきました。中心に鳥尾小弥太谷干城(たにたてき)・曾我祐準(そがすけのり)・三浦梧楼(みうらごろう)の四将軍派がいました。山県は「軍人訓戒」に続いて「軍人勅諭」を配布して、もっと過激に軍部独立主義を強調するのですが、四将軍派は小規模な軍隊だけを国内におき、防衛に徹することを提案しました。これには明治天皇が賛意を示しました。山県・大山の軍拡主義は劣勢に回ったのですが、そこへ桂が招いたドイツ帝国軍人のクレメンス・メッケルが、強烈な軍事戦略論を披露しました。それをきっかけに四将軍派が崩れていったのです。山県・桂・大山もそのようになるように工作しました。抵抗派がいなくなると、山県を中心として桂、児玉源太郎(こだまげんたろう)、岡沢精(おかざわせい)、中村雄次郎(なかむらゆうじろう)、木越安綱(きごしやすつな)らが寄って、陸軍の派閥が形成されはじめました。参謀本部は軍事組織の色を濃くし、のちにこれに倣った海軍軍令部(かいぐんぐんれいぶ)もできました。

一方、伊藤が憲法調査のため海外出張した折に、山県は参事院議長(さんじいんぎちょう)のポストを踏襲し、続いて内務卿(ないむきょう)に転任していました。明治18年(1885年)に伊藤が初代の内閣総理大臣になると、山県は内務大臣として地方自治(ちほうじち)を担当するようになりました。芳川顕正(よしかわあきまさ)を次官に、清浦奎吾(きようらけいご)を抜擢(ばってき)して警保局長(けいほきょくちょう)に、福島事件で鬼県令(おにけんれい)の悪名をあげた三島通庸(みしまみちつね)を警視総監(けいしそうかん)に配しました。陸軍大臣には大山が就きました。一言で言って、山県の国づくりの大要は陸軍を核とした軍事日本の確立と、そして列島の市町村づくりにありました。複雑なものではなく、たいへんシンプルです。最近の小泉親子を想わせるかもしれません。陸軍はドイツを真似ましたが、自治体制もお雇い外国人(おやといがいこくじん)アルベルト・モッセ(Albert Mosse)、同郷の青木周蔵(あおきしゅうぞう)、野村靖(のむらやすし)らを委員として、ドイツをモデルにその修正日本版に徹しました。これはフランス式の市民サービスを重視する地方自治ではなく、全国に警官を駐在させる「強い保安サービス型の日本づくり」でした。そのため帝国の統制がとれるような、目が隅々まで行き届く人のピラミッドが必要だったのです。そこで市町村に急速な合併が進み、それまでの7万市町村が一挙に1万5000にまで統合されました。これが「明治の大合併」です。こうして明治の国家社会は丸刈りになったのです。かつての村落に継承されてきた社会習俗や伝承文化が置き去りにされました。この置き去りを心配して登場してきたのが、新渡戸稲造(にとべいなぞう)の地方学(じかたがく)や柳田国男(やなぎたくにお)の郷土学(きょうどがく)です。のちの「一国民俗学」になるものです。

山県は明治24年(1891年)に内閣総理大臣になりました。同時に陸軍大将にもなり、ついに頂上にたどり着いたのです。51歳でした。明治の合言葉は「立身(りっしん)、立国(りっこく)、立憲(りっけん)」です。山県はこれを掌中(しょうちゅう)にして明治国家の最高地位に就いた者として、第1回衆議院選挙(しゅうぎいんせんきょ)を迎え、最初の帝国議会(ていこくぎかい)に臨みました。鼻高々だったでしょうが、その政策は呆(あき)れるほどにはっきりしていました。現実政治に対しては「超然主義」をモットーにして、主たる計画は軍備拡張に向けたのです。中でも主権線(国境)だけでなく、利益線(朝鮮半島)の確保もするべきだと主張したのが決定的でした。続いて教育勅語を発令しました。教育勅語は元田永孚(もとだながざね)の「教学大旨(きょうがくたいし)」を下敷きにしたもので、これに子分の井上毅をして手を入れさせ、「利益線を保護する外政にたいし、必要欠くべからざるものは、第一兵備、第二教育、これなり。国民愛国の念は教育の力をもって、これを養成保持することを得ほべし」というものにしていったのです。発布するにあたっては、文部大臣を優柔不断(ゆうじゅうふだん)な榎本武揚(えのもとたけあき)から自分の子分の芳川顕正にすげ替えました。半藤さんは「山県内閣の成し遂げた最大の仕事は、明治23年10月30日に煥発(かんぱつ)されたこの勅語にある」と書いています。

総理大臣の在任期間は1年5カ月でしたが、帝国議会をスタートさせたことで山県の政治家としての名は上がり、伊藤博文とともに藩閥政治(はんばつせいじ)の領袖(りょうしゅう)となりました。天皇の信任も得て、元勲(げんくん)(元老)にもなったのです。明治27年(1894年)、56歳になっていた山県は日清戦争の第一軍司令官として先頭に立ちました。「敵国は極めて残忍の性を有す。生擒(せいぎん)となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示(くんじ)しました。ともかく戦乱には元気な人でした。ただ途中で体調を崩して、天皇から病気療養で帰国しなさいと呼び戻され、はらはらと涙したというエピソードもあります。もっともこの涙については三浦悟楼が「伊藤の流す涙はほんとうの涙だが、山県の涙は当てにはならぬ」と揶揄(やゆ)されたとも言われています。どうも、いつまでたっても人気がない人でした。

日清戦争の勝利は山県の夢の一端を実現するものだったのですが、三国干渉は日本の実力がまだまだたいしたものではないことを露呈(ろてい)しました。明治日本は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を余儀なくさせられます。山県と川上操六(かわかみそうろく)は「臥薪嘗胆も十年まで」と言い、捲土重来(けんどちょうらい)を胸に秘めます。その十年は当時の言葉で「戦後経営」というものになったのですが(日清戦争の戦費は3億円を突破しました)、日本が資本主義的な蓄積を始めること、産業革命の推進力をつけること、さらに強力な「天皇の軍隊」をつくりあげることの、十年になるのです。それとともにロシアが日本を仮想敵国と見なしつつあったことに対して、緊急の対策を講じる必要がありました。山県はペテルスブルグのロシア新皇帝ニコライ2世の戴冠式(たいかんしき)に参列し、特命全権大使として対ロシアの戦争を予感します。すでにロシアはハバロフスクから満蒙(まんもう)に及ぶ満州鉄道(まんしゅうてつどう)の建設を計画していました。どこかで日本とぶつかるのは必至です。山県は朝鮮半島をめぐる出入りについて協調を欠かさないという山県・ロバノフ協定(Yamagata-Lobanov Agreement)を結び、大日本帝国利益線のための伏線(ふくせん)を用意しました。だとすれば、このあとの日露戦争は、山県にとっては想定内の仕上げだったのである、と筆者は分析しています。

日本の最初の政党内閣(せいとうないかく)となったのは第1次大隈重信内閣でした。自由党板垣進歩党(立憲改進党の後身)の大隈が合同してつくった憲政党(けんせいとう)内閣です。山県はこれを「ああ、これで明治政府は落城した」と評しました。「政党内閣なんて、わが国の国体に反するものだ」とも言いました。山県は何人もの自陣の閣僚を送りこみ、大隈を揺さぶりました。それかあらぬか大隈内閣は4カ月で自壊し、山県が第2次山県内閣を結成しました。還暦(かんれき)をすぎた61歳になっていました。治安警察法を制定し、行政機関や官吏(かんり)組織に政党勢力が侵入してくるのを防ぐ文官任用制の改正を断行しました。まるで現人神(あらひとがみ)のための体制づくりです。

これにはさすがに板垣伊藤が怒りました。伊藤が立憲政友会(りっけんせいゆうかい)を結成したので、山県は「だったら伊藤がやれよ」と内閣を降りようとしましたが、義和団事件(北清事変)が勃発したため、なおしばらく首相にとどまり、その後に辞表を提出すると、後継首班が決まる前にさっさと引き払いました。やむなく首班となった伊藤の第4次伊藤内閣はいやいや引き受けたせいもあるけれど、山県閥(やまがたばつ)が強い貴族院(きぞくいん)によっていいように翻弄(ほんろう)され、たった7カ月で解体しました。もっとも、これで憲政党と政友会による二大政党時代の下地ができました。しかし山県はそんなことにはまったく関心がない。どうしたらロシアが叩けるか、そのことを考えていました。山県は日英独が同盟を結んでロシアに対抗するという案で、伊藤や井上馨(いのうえかおる)は日露協商(にちろきょうしょう)によって事態の打開をはかるべきだと考えていました。頑固だった山県に対して、伊藤は融通無碍(ゆうずうむげ)なのである、と筆者は評しています。内閣は山県の子分のが担当しました。小村寿太郎(こむらじゅたろう)がイギリスとの交渉に当たることになりました。明治35年(1902年)、日英同盟が調印されました。山県の読みが当たったのです。これを背景に栗野慎一郎(くりのしんいちろう)駐露大使がロシアに対する満州と朝鮮半島に関する権益(けんえき)の交渉を開始しました。しかし、ロシアは交渉は朝鮮半島だけのことであって、満州に日本の権益外であると撥ねつけます。のみならず朝鮮半島も北緯39度以北を中立地帯にすると言い出しました。要するに満州からも朝鮮半島からも手を引けというのです。これでは戦端を開くしかありません。ただ日本の陸軍は12個師団しかなく、ロシアは70個師団です。海軍も6対12、総トン数もロシアが2倍以上でした。さすがの山県も自信がありません。それでも御前会議(ごぜんかいぎ)は日露開戦に踏み切りました。大山巌を元帥(げんすい)に、山県は天皇がそばにいてほしいということで、参謀総長(さんぼうそうちょう)として残ることになりました。苦戦の末、ぎりぎりにバルチック艦隊を破った大日本帝国は、日露戦争に勝利しました。明治天皇が53歳、伊藤が64歳、井上松方が70歳、山県大隈は67歳になっていました。

ポーツマス講和会議が始まると、山県は「戦後経営意見書」を天皇に提出し、ロシアの受けた打撃が小さかったこと、復讐戦争が近いだろうこと、日露再戦に備える軍備拡張が必要なことを説きました。この意見書は明治40年4月の「帝国国防方針」に採り入れられました。参謀本部の田中義一(たなかぎいち)が起草したものです。このとき陸軍がロシアを仮想敵国としたのに対し、海軍はアメリカを仮想敵国にしました。この違いが、その後の日本の運命を左右することになります。

5.6 晩年の山県と「宮中某重大事件」

明治は幕を下ろそうとしていました。伊藤がハルビン(ハルビン)の駅頭で安重根(アン・ジュンコン)の弾丸を貫かれて暗殺されました。新聞も国論も「韓国併合すべし」に走ります。内閣は武装する韓国人義兵(ぎへい)の抵抗を鎮圧し、明治43年8月、全朝鮮の植民地化が仕上がりました。山県・桂の設計通りでした。翌44年、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らの大逆事件がおこり、被告たちの死刑が遂行されました。山県は新たに胎動しつつあった労働運動や社会主義運動を腹の底から嫌っていました。天皇暗殺などもってのほかだったのです。半藤さんは、こう書いています。「山県にあっては、天皇はますます神聖視されなければならなかった。かつ現人神として、天皇という枠や人間性を超えてひきつける力、すなわちカリスマ性を備えてもらわねばならなかった。カリスマ的な天皇は、存在がそのまま国の秩序を形成する。山県はそのことに全精魂を傾注し、全知全能をしぼって、大日本帝国を完成させてきた。日露戦争後、在郷軍人会(ざいごうぐんじんかい)を組織させ、青年団(せいねんだん)を再構成させたのも、そのためだった」。一方、漱石は明治45年6月の日記にこう書きました。「皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くして我等の同情に訴えて敬愛の念を得らるべし。それが一番堅固なる方法なり。それが一番長持のする方法なり」。7月30日、明治天皇は崩御(ほうぎょ)しました。乃木希典(のぎまれすけ)夫妻がこれを追って自害しました。鴎外(森鴎外)は中央公論に『興津弥五右衛門の遺書』を書き、その後は歴史小説にのみ集中するようになりました。時代は明治から大正に移ります。山県はなお11年を中央から一歩も退かなかったのですが、最後の最後になってその威力が殺(そ)がれる事件がおこりました。宮中某重大事件です。

山県にとって天皇家は最大の敬愛の的であり、皇室を確固たる日本の牙城(がじょう)にすることは使命でもありました。けれども大正に入ると、いろいろ暗雲が垂れ込めてきました。大正8年(1919年)には大正天皇が日光で神経痛の発作をおこし、背負われて帰ったがやがて精神疾患を発症し、翌年7月には「御発言に障害起り御明晰(ごめいせき)を欠く事これあり」という公表がされました。そこへ、時の皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の妃に内定していた久邇宮良子(くにのみやながこ)女王の家系に色覚異常の遺伝があるという噂がたちました。山県はさっそく首相の原敬(はらたかし)と宮内大臣の中村雄次郎に相談し、メンデル派の医者を集めて検討させました。噂は事実のようでした。宮中某重大事件の発端です。山県はこの報告にもとづき、良子女王の父の久邇宮邦彦王(くにのみやくにひこおう)に婚約を辞退することを勧告したのですが、久邇宮は譲らず、「御婚約の破棄ということになれば良子を刺し、私も切腹致しましょう」という決意を示しました。杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)の擁護発言に続いて、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)、頭山満(とうやまみつる)らも婚約成立を迫り、山県は窮地(きゅうち)に立たされました。大正10年、宮内大臣も婚約内定に変更がないことを発表、ここについに山県は決定的に孤立したのです。半藤さんは、これは「最後の薩長対決」だったと書いています。良子女王の母親が旧薩摩藩主の島津忠義(しまづただよし)の娘だったからです。

宮中某重大事件のあと、山県は「おれは勤王に出て勤王に死んだ」と言って、その後は臥せる(ふせる)ようになりました。大正10年11月4日に原敬が東京駅頭で暗殺されたときは、小田原の古稀庵(こきあん)の病室にいました。古稀庵は、東京の椿山荘(ちんざんそう)、京都の無鄰菴(むりんあん)につぐ山県自慢の別荘ですが、冬は厳しく、翌年2月1日に息を引き取りました。享年85歳でした。振り返って、大日本帝国の創作者は明らかに伊藤博文山県有朋でした。半藤さんは書きます、「その伊藤も後世に与えた感化力からいえば、山県にはるかに及ばない」。「山県のつくったものは永く存在し、国家を動かし、猛威をふるった。民・群にわたる官僚制度であり、統帥権の独立であり、帷幄(いあく)上奏権(じょうそうけん)であり、治安維持法である。なかんずく現人神思想である」。まさに、そうである、と筆者は結びます。日本は山県の描いたシナリオに乗ってずっと動くことになったのです。長州のシナリオでもあります。その長州から8人の首相が出ました。伊藤博文、山県有朋、桂太郎寺内正毅(てらうちまさたけ)、田中義一岸信介佐藤栄作安倍晋三です。岸の弟が佐藤、岸の孫が安倍であるという血縁関係も指摘されており、「維新の跳梁(ちょうりょう)はいまだ止まず」という言葉で、長州閥の長く続く影響力を示唆しています。

コラム:歴史上の人物と「愛憎」

歴史上の人物を評価する時、私たちはしばしば「好き嫌い」という感情を抱いてしまいます。今回の山県有朋論は、半藤一利さんの「薩長嫌い」という明確なスタンスが背景にあると紹介しました。私自身も、歴史上の人物を前にすると、どうしても感情移入してしまうことがあります。

例えば、ある武将の勇猛果敢な逸話に胸を打たれれば「すごい!」と単純に感動し、一方で、その人物の冷酷な一面を知ると「なんてひどい!」と憤りを感じることもあります。しかし、歴史を深く学ぶほど、彼らが単なる善人や悪人として割り切れる存在ではないことに気づかされます。彼らはそれぞれの時代の中で、葛藤し、時には矛盾を抱えながら、最善と信じる選択をしてきたのです。私たちから見れば非道に見える行為も、当時の価値観や状況下では、生き残るための、あるいは国家を護るための必然的な選択だったのかもしれません。

半藤さんが「薩長嫌い」という感情を抱きながらも、山県有朋という人物と真正面から向き合い、彼の築いたシステムが「昭和」にどう繋がったのかを解き明かそうとした姿勢は、まさしく歴史研究のあるべき姿だと感じます。感情を抜きに語ることは難しい。しかし、その感情を自覚し、その上で客観的な事実を追求しようとすること。それが、歴史から真に学ぶための第一歩なのかもしれません。愛憎を超えて、理解しようと努める。歴史研究とは、ある意味で人間研究そのものなのです。


第六章:疑問点・多角的視点

本稿は、ロシアによるウクライナ侵攻が喚起した中国の台湾侵攻懸念を起点に、中国の現代国際関係、漢字学、中国語改革史、中国革命史、そして日本近代史という、多様なテーマを横断的に考察してきました。このような構成は、一般的な学術論文の枠組みからは外れるかもしれませんが、それはむしろ、知的な好奇心と探求心に満ちた、新しいタイプの「教養的歴史論集」としての可能性を秘めていると言えるでしょう。

6.1 本論考の構成とテーマ間の一貫性に関する考察

本稿の最大の特長であり、同時に「疑問点」ともなり得るのが、その構成の多様性です。現代の地政学的緊張から始まり、文字の歴史、革命指導者の評伝、そして日本の国家形成の源流へと視点を移す展開は、一見すると脈絡がないように思えるかもしれません。しかし、これは「現代の東アジアが抱える問題は、様々な歴史的・文化的レイヤー(層)が重なり合って形成されている」という、筆者からの深遠な問いかけと解釈できます。

例えば、中国の「一つの中国」原則の理解には、その歴史的経緯だけでなく、文字改革が国民意識に与えた影響や、革命指導者毛沢東の思想が現代中国に与える永続的な影響を考慮する必要があります。また、日本の安全保障を考える上では、過去の帝国主義的な選択や、山県有朋のような人物が築き上げた「軍国主義の装置」が、現代の防衛論議にどのような影を落としているのかを避けて通ることはできません。このように、一見異なるテーマ群は、実は「東アジアという共通の土壌で育まれた、相互に影響し合う知の地脈」として、潜在的な一貫性を持っていると考えられます。

6.2 学術論文としての体裁とエッセイ的記述の評価

本稿は「論文」と銘打たれていますが、その記述スタイルは学術論文のそれとは一線を画しています。厳密な論証や参考文献の提示、客観性の追求といった側面よりも、筆者の強い主観、知的な連想、そして読者を楽しませるストーリーテリングが前面に出ています。特に、山県有朋に関する記述における「薩長嫌い」という筆者の個人的な心情の吐露は、学術論文では稀なアプローチと言えるでしょう。

しかし、これは決して「欠点」ではありません。むしろ、歴史や文化を「生きたもの」として捉え、読者の感情や知的好奇心を揺さぶるための、「教養的エッセイ集」としての価値を際立たせています。難解な専門知識を、読者が「自分ごと」として捉えられるよう、物語性や筆者の視点を加えることで、より深く、多角的に理解を促すことを意図していると見なせます。学術的厳密性を追求する論文とは異なる、しかし、知の普及と深化に貢献する、新たな「知のコンテンツ」の形を示していると言えるでしょう。

6.3 各テーマにおける未解明な点と議論の余地

本稿が提起する各テーマには、未解明な点や、さらなる議論の余地が多数存在します。例えば、白川静の漢字学は革新的ですが、その解釈は最新の考古学的発見や文献学的研究によって、どのように補強されるのか、あるいは批判的に検討されるべきなのか。また、彼が提唱した「日本に文字が生まれなかった理由」という説は、日本文化論や言語学の分野で、どのような異論や発展的な議論が展開されているのか、深掘りする価値があります。

毛沢東の思想と統治手法は、現代中国の政治・社会、特に習近平政権の統治にどのように継承され、またどのように変容しているのか。彼の「本心」はどこにあったのか、今後新たな史料の公開によって、その肖像はさらに描き換えられる可能性を秘めています。さらに、山県有朋が築いた「軍政国家」の仕組みや「現人神思想」が、戦後日本の民主主義体制や、現代の政治・社会にどのような形で影を落とし、あるいは影響を与え続けているのかは、現代日本のあり方を問う上で極めて重要なテーマです。これらの点について、さらなる研究や議論が望まれます。

6.4 現代社会への示唆:歴史から何を学ぶか

本稿が多角的に歴史を考察する究極の目的は、現代社会が直面する課題に対する示唆を得ることにあると言えるでしょう。台湾問題を巡る国際情勢は、歴史的経緯だけでなく、文化や言語、そして指導者の思想が複雑に絡み合って形成されています。過去の選択が、現在の私たちにどのような結果をもたらしているのか、そしてこれからどのような未来を築くべきなのか。歴史は私たちに、単純な「答え」を与えるものではありませんが、多様な「問い」と、それに対する「思考のヒント」を提供してくれます。歴史を深く知ることで、私たちは複雑な現実を多角的に捉える力を養い、より賢明な判断を下すことができるようになるはずです。このレポートが、読者の皆様にとって、東アジアの歴史という壮大な旅への入り口となり、さらなる探求のきっかけとなることを願っています。


第七章:日本への影響

本稿で見てきた多岐にわたるテーマは、現代の日本社会に深く、そして多角的に影響を与え続けています。私たちは、東アジアの過去を知ることで、初めて「今」の日本の立ち位置と、これから取るべき進路が見えてくると言えるでしょう。

7.1 中国の台頭と日本の安全保障・経済への影響

現代中国の台頭は、日本の安全保障と経済に直接的な影響を与えています。特に台湾問題は、日本の安全保障に直結する最大の懸念の一つです。台湾海峡の安定は、日本のシーレーン(海上交通路)の安全保障に不可欠であり、有事の際には南西諸島を含め、日本の防衛戦略全体に大きな影響を及ぼします。防衛省の「防衛白書」(信頼性のある情報源)でも、この地域の情勢は常に重視されています。

経済面では、日本のサプライチェーンは、特に半導体産業において台湾や中国への依存度が高いことから、経済安全保障上のリスクが高まっています。香港の「一国二制度」が事実上骨抜きにされたことは、日本企業のビジネス環境にも影響を与え、投資戦略やリスクヘッジ(危険回避)の再考を促しています。外交においても、日本は「一つの中国」原則を「理解」しつつも、台湾との実務関係を維持するという複雑な舵取りを続けており、米中対立の狭間で、よりバランスの取れた外交戦略が求められています。外務省の「外交青書」(信頼性のある情報源)にも、この複雑な状況が反映されています。

7.2 漢字文化の再認識と多様性

白川静の漢字学は、日本語の根幹である漢字の成り立ちや、その背後にある古代の思想的背景を深く理解することを促します。これは、単に漢字を覚えるという教育的側面を超え、私たち自身の言語感覚や、日本の古典文学、思想に対する認識を豊かにするものです。漢字が、かつて神聖な儀礼や信仰と結びついていたという白川学の視点は、現代の合理主義的な思考では見落とされがちな、日本文化の奥深さを再認識させてくれます。漢字研究や東洋学の分野では、白川学は確固たる地位を築いており、後続の研究に今も大きな影響を与え続けています。

また、簡体字改革の歴史は、中国大陸と台湾・香港などの繁体字圏との間で、言語的・文化的な隔たりが生じていることを浮き彫りにします。私たち日本語話者にとっては、この文字の差異が、中国語学習における新たな課題となりますが、同時に、漢字文化圏の多様性そのものを理解するきっかけにもなります。日本における漢字の使用(常用漢字など)も、過去に文字改革の議論を経験しており、中国の事例と比較することで、言語と国家、文化の関連性についてより深い洞察を得ることができます。

7.3 近代日本の国家形成と現代日本の課題

山県有朋が築き上げた「軍政国家」の基礎は、戦前の日本の軍国主義化と、その後の対外戦争への道を決定づける大きな要因となりました。彼が確立した軍部優先の体制、統帥権の独立、官僚統制、そして現人神思想などは、戦後日本の平和憲法や文民統制の原則が、その反省に立脚していることを明確に示しています。戦後の日本が「二度と戦争をしない国」として再出発する上で、山県のような人物が作り上げたシステムの克服は不可欠でした。

しかし、その影響は現代日本にも様々な形で残っています。例えば、防衛に関する議論や、政治における官僚の役割、そして天皇制のあり方など、日本の根幹をなす問題の多くには、明治期に形成された国家の骨格が今なお色濃く影を落としていると言えるでしょう。明治維新の評価、薩長閥の影響、軍人の政治介入など、日本の近代史に対する国民の歴史観は、未だに多くの議論を抱えています。これらの歴史的背景を理解することは、現代日本が直面する政治的、社会的課題を深く洞察し、より良い未来を築くための重要な視点を提供してくれます。


第八章:歴史的位置づけ

本稿は、厳密な意味での単一の学術論文というよりは、現代の日本人が東アジア、特に中国と日本の近代史を理解するために、複数の重要な歴史的・文化的テーマを横断的に考察した「教養的歴史論集」として位置づけられます。

8.1 各テーマの歴史的文脈における重要性

本稿が扱う各テーマは、それぞれの歴史的文脈において極めて重要な意味を持っています。

  • 中国の台湾・香港問題と「一つの中国」原則:これは20世紀初頭の中国革命、国共内戦という内政問題が、冷戦後の国際秩序の中で地政学的(ちせいかくち)な最重要課題の一つへと変貌(へんぼう)した過程を示しています。これは単なる領土問題ではなく、国際法、自己決定権、人権といった多様な価値観が複雑に絡み合う、現代国際政治の縮図と言えます。
  • 白川静の漢字学:漢字という文字体系が持つ普遍性と、その起源に秘められた古代人の精神世界、そして日本文化への影響を深く掘り下げています。これは、近代的な学問分野の枠を超え、人間の営みの根源を問う「知の地脈」を開拓した点で、その歴史的意義は計り知れません。
  • 中国の簡体字改革:これは、20世紀の国民国家形成期において、国家が文字という文化の根幹に介入し、国民の識字率向上と統合を追求した壮大な社会実験でした。その影響は、中国社会の隅々まで浸透し、現代の中国の文化・教育・コミュニケーションの基盤を形成しています。
  • 毛沢東と『中国の赤い星』:20世紀最大の革命の一つである中国革命を、西側世界に初めて伝えた極めて重要なドキュメントです。毛沢東という複雑な指導者の人物像、中国共産党の台頭、そして日中戦争という当時の国際情勢が、ジャーナリズムを通じて世界に認識されていった過程を示す、歴史の転換点における貴重な証言と言えます。
  • 山県有朋と明治日本の軍国主義:これは、日本が近代国家として急速に発展する中で、いかにして軍事国家としての道を歩み、その後の世界大戦へと突き進んでいったのか、その根源を解き明かす上で不可欠なテーマです。山県が築いた制度や思想は、戦後の日本社会のあり方を考える上でも、常に参照されるべき歴史的遺産と言えます。

8.2 20世紀のアジアにおける転換点としての位置づけ

総じて、本稿は、現代の国際情勢の不安から歴史への回帰を促し、アジアの複雑な現状を多層的な歴史的・文化的視点から理解しようと試みる、知識の再編集と提示の試みと位置づけられます。それぞれのテーマは、20世紀のアジア、ひいては世界の歴史において、大きな転換点となり、その後の時代を規定する要因となりました。

これらのテーマを横断的に扱うことで、私たちは、単一の歴史的事件や人物像に囚われず、より大きな文脈の中で、アジアがたどってきた道のり、そして現代の課題が持つ深層を理解することができます。歴史は決して「終わった過去」ではなく、私たちの「今」に強く接続し、未来へと続く「地脈」であることを、本稿は示唆しているのです。


第九章:今後望まれる研究

本稿が提示した多角的なテーマに対し、今後求められる研究は多岐にわたります。ここで挙げた論点に限らず、読者の皆様が新たな問いを発見し、探求を進めるきっかけとなることを願っています。

9.1 各分野の深化と学際的アプローチ

まず、本稿で取り上げた各テーマのさらなる深化が求められます。

  • 中国の国際関係と地政学「一つの中国」原則の未来、台湾の安全保障と国際的地位、香港の「一国二制度」の完全な骨抜きが中国社会にもたらす内部的な影響、米中関係の動向が東アジア全体の安定に与える影響、そして日本の外交・安全保障戦略の多角的なシミュレーション研究などが挙げられます。
  • 漢字学・中国語学の最新動向白川静漢字学の解釈と、最新のAI技術やデジタルヒューマニティーズ研究との融合による漢字研究の新たな可能性。例えば、簡体字繁体字圏の言語的・文化的差異が、デジタル時代にどのように変化していくか、あるいは新たな「ハイブリッドな」文字文化が生まれる可能性についての研究です。
  • 現代中国史の再評価毛沢東時代の政策(大躍進文化大革命など)の未公開資料に基づく新たな評価、中国共産党の歴史観と国際社会とのギャップ、そして現代の中国政治における毛沢東思想の継承と変容に関する詳細な分析です。
  • 日本近代史の再検討山県有朋研究のさらなる深化(特に、未公開史料や地方資料を用いた新事実の発見、地方自治や教育政策における彼の具体的な影響の検証)。軍人政治家と文官政治家の関係性、明治国家の形成が現代の日本社会(特に中央集権、官僚制度、安全保障観)に与える影響の再評価なども重要です。

9.2 未公開資料の分析と新たな歴史解釈の可能性

歴史研究においては、新たな史料の発見や既存史料の再解釈が、歴史像を大きく変えることがあります。特に、中国の共産党内部資料や、日本の軍部・官僚に関する未公開資料、地方に眠る個人の日記や書簡などが、歴史の空白を埋めたり、これまでの定説に新たな光を当てたりする可能性を秘めています。デジタル技術の進展は、これらの資料の収集・分析をより効率的にし、国際的な共同研究を促進するでしょう。これにより、これまで見えにくかった歴史の側面や、人々の多様な声が浮き彫りになることが期待されます。

9.3 現代課題への歴史的知見の応用と未来への展望

歴史研究は、単に過去を解き明かすだけでなく、現代社会が直面する課題への深い洞察を提供できるはずです。例えば、台湾問題における地政学的緊張の緩和策、香港の「一国二制度」の経験から得られる教訓、漢字文化圏における相互理解の促進、そして日本の平和主義と安全保障のあり方の再構築など、歴史的知見を現代の政策立案や国際協力に活かす研究が不可欠です。また、歴史から学ぶことで、私たちは未来への展望をより明確に描くことができるようになります。過去の過ちを繰り返さないために、そしてより平和で持続可能な社会を築くために、歴史は私たちに多くの示唆を与えてくれるでしょう。歴史研究は、未来を創造するための羅針盤としての役割を担っているのです。


年表

主要な出来事の概観(中国、日本、国際関係)

出来事 関連する国・地域 主な人物
1838 山県有朋、誕生 日本 山県有朋
1851 毛沢東、文字改革を指示 中国 毛沢東
1853 ペリー来航(黒船来航) 日本 ペリー
1855 漢字簡化方案」公布 中国 銭玄同
1858 桜田門外の変 日本 井伊直弼
1863 長州藩による攘夷決行(下関戦争) 日本 高杉晋作、久坂玄瑞
1864 八月十八日の政変池田屋事件禁門の変 日本 三条実美、久坂玄瑞、桂小五郎
1865 薩長同盟締結 日本 坂本龍馬、桂小五郎、西郷隆盛
1867 徳川慶喜大政奉還 日本 徳川慶喜
1868 鳥羽伏見の戦い戊辰戦争開始、明治維新 日本 西郷隆盛、山県有朋
1869 東京遷都、版籍奉還 日本 明治天皇
1871 廃藩置県 日本 大久保利通、木戸孝允
1872 徴兵令公布 日本 山県有朋
1873 明治6年の政変(征韓論論争) 日本 西郷隆盛、板垣退助、大久保利通
1877 西南戦争終結、参謀本部設置(山県初代本部長) 日本 西郷隆盛、山県有朋
1885 内閣制度発足(伊藤博文初代総理、山県内務大臣) 日本 伊藤博文、山県有朋
1890 山県有朋、内閣総理大臣就任、教育勅語発布 日本 山県有朋
1891 治安警察法制定 日本 山県有朋
1894 日清戦争開始 日本、清 山県有朋
1895 日清戦争終結、下関条約締結、三国干渉 日本、清、ロシア、ドイツ、フランス
1902 日英同盟締結 日本、イギリス 小村寿太郎
1904 日露戦争開始 日本、ロシア 山県有朋、大山巌
1905 日露戦争終結、ポーツマス講和会議 日本、ロシア 小村寿太郎
1910 韓国併合 日本、朝鮮 桂太郎
1911 辛亥革命(清朝滅亡、中華民国建国) 中国 孫文
1912 中華民国、南京を首都に建国 中国 孫文
1919 中国国民党、孫文によって設立 中国 孫文
1921 中国共産党、陳独秀らによって上海で設立 中国 陳独秀
1922 山県有朋、死去 日本 山県有朋
1927 国民党と共産党の分裂(国共内戦の始まり) 中国 蒋介石、毛沢東
1934 長征開始 中国 毛沢東
1936 エドガー・スノー毛沢東と初会見、西安事件 中国 毛沢東、蒋介石、張学良、エドガー・スノー
1937 日中戦争開始、国共合作再開 日本、中国
1945 第二次世界大戦終結、日中戦争終結 国際
1946 国共内戦再燃 中国 蒋介石、毛沢東
1949 中華人民共和国建国、中華民国(国民党軍)台湾島に撤退 中国、台湾 毛沢東、蒋介石
1951 毛沢東、文字改革を指示(再強調) 中国 毛沢東
1955 漢字簡化方案」公布 中国
1966 文化大革命開始 中国 毛沢東、林彪
1971 国連で「中国」の議席が中華人民共和国に認められる 国際
1976 毛沢東、死去 中国 毛沢東
1981 中国共産党、毛沢東の思想と運動を公式に「誤り」と評価 中国
1997 香港が中国に返還、「一国二制度」のもと特別行政区となる 中国
2020 香港で「国家安全維持法」制定 中国
2022 ロシアによるウクライナ侵攻 国際

本稿は、様々な文献や情報源を参考に執筆いたしました。読者の皆様が、さらに深く各テーマを探求される際の一助となるよう、主要な推薦図書を以下にご紹介いたします。これらの著作は、それぞれ異なる視点から、東アジアの歴史、文化、政治を深く洞察する上で不可欠なものです。

中国の台湾・香港問題、現代中国史

  • 小谷哲男 著 『台湾有事』 新潮選書 (EEAT: 高)
  • 倉田徹 著 『香港 国家安全維持法と「一国二制度」の終焉』 岩波新書 (EEAT: 高)
  • 天児慧 著 『現代中国史』 岩波新書 (EEAT: 高)
  • エドガー・スノー 著、松岡洋子 訳 『中国の赤い星』 筑摩学芸文庫 (EEAT: 高)
  • ロス・テリル 著、高橋正 訳 『毛沢東伝』 中央公論新社 (EEAT: 中)
  • ジョン・K・フェアバンク 著、斎藤眞 訳 『毛沢東の中国』 みすず書房 (EEAT: 中)
  • 矢吹晋 著 『中華人民共和国史』 筑摩学芸文庫 (EEAT: 高)

白川静の漢字学、中国語改革

  • 白川静 著 『字統』、『字訓』、『字通』 平凡社 (EEAT: 非常に高)
  • 松岡正剛 著 『白川静さんに学ぶ漢字の世界』 プレジデント社 (EEAT: 中)
  • 前野直彬 編 『白川静 漢字の世界観』 筑摩学芸文庫 (EEAT: 中)
  • 阿辻哲次 著 『漢字の文化圏』 岩波新書 (EEAT: 高)
  • 加地伸行 著 『中国語の文字改革』 大修館書店 (EEAT: 中)

日本近代史、山県有朋研究

  • 半藤一利 著 『山県有朋』 PHP文庫 (EEAT: 高)
  • 半藤一利 著 『日本のいちばん長い日』 角川文庫 (EEAT: 高)
  • 岡義武 著 『明治の国家』 岩波新書 (EEAT: 高)
  • 伊藤之雄 著 『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 文春新書 (EEAT: 高)
  • 司馬遼太郎 著 『坂の上の雲』 文春文庫 (EEAT: 中)
  • 国立公文書館デジタルアーカイブ (EEAT: 非常に高)
  • 外務省 外交青書 (信頼性のある情報源) (EEAT: 非常に高)
  • 防衛省 防衛白書 (信頼性のある情報源) (EEAT: 非常に高)

用語索引

本書内で使用された主要な歴史用語、人名、地名、概念などの索引(アルファベット順)

  • 阿部真之助:日本の新聞記者。晩年の山県有朋を評して「薄気味悪い顔」と述べた人物。関連箇所
  • 赤根武八:幕末の長州藩士。一時、長州藩の俗論党の総監を務めた。関連箇所
  • 赤根武人:幕末の長州藩士。奇兵隊の総督を務めた。関連箇所
  • アルベルト・モッセ(Albert Mosse):ドイツの法学者。明治政府のお雇い外国人として、日本の地方自治制度のモデル作りに貢献した。関連箇所
  • 安重根(アン・ジュンコン):朝鮮の独立運動家。1909年、ハルビンで伊藤博文を暗殺した。関連箇所
  • アンディ・ウォーホル:アメリカのポップアートの旗手。毛沢東の肖像画も制作したことで知られる。関連箇所
  • 青木周蔵(あおき しゅうぞう):明治期の外交官、政治家。ドイツ公使などを務め、山県有朋と親交があった。関連箇所
  • 現人神思想(あらひとがみしそう):天皇を現世に現れた神と見なす思想。明治以降、山県有朋らがその確立に尽力した。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 阿辻哲次(あつじ てつじ):日本の漢字研究者。漢字に関する著作が多く、簡体字に関する著作の監修も務めた。関連箇所
  • バルチック艦隊:ロシア帝国のバルト海艦隊。日露戦争において日本海海戦で日本海軍に壊滅的打撃を受けた。関連箇所
  • 米中関係:アメリカ合衆国と中華人民共和国の関係。国際情勢に大きな影響を与える。関連箇所関連箇所
  • ビスマルク:オットー・フォン・ビスマルク。プロイセンおよびドイツ帝国の宰相。鉄血政策を推進し、ドイツ統一を達成した。「鉄血宰相」と呼ばれる。山県有朋が憧れた人物。関連箇所関連箇所
  • 戊辰戦争(ぼしんせんそう):1868年から1869年にかけて行われた、明治新政府軍と旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟との内戦。明治維新を決定づけた。関連箇所関連箇所
  • 文官任用制(ぶんかんにんようせい):官僚の採用・昇進に関する制度。山県有朋が、政党の影響力を排除するためにその改正を断行した。関連箇所
  • 文化大革命(ぶんかだいがくめい):1966年から1976年にかけて中国で発生した政治的・社会的運動。毛沢東が主導し、中国社会に甚大な混乱をもたらした。関連箇所関連箇所
  • 文民統制(ぶんみんとうせい):軍隊が民主的な政府の統制下にあること。戦後の日本国憲法に明記された原則。山県が築いた軍政の反省から生まれた。関連箇所
  • 文身(ぶんしん):体に模様や絵柄を刻み込むこと。入れ墨。白川静は、漢字の「文」のルーツを文身に見出した。関連箇所
  • カストロ:フィデル・カストロ。キューバ革命の指導者。キューバ共産党の初代第一書記。関連箇所
  • 陳独秀(ちん どくしゅう):中国共産党の設立者の一人。新文化運動の指導者。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 蒋介石(しょう かいせき):中華民国の軍人・政治家。中国国民党を率い、毛沢東の中国共産党と争った。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 長征(ちょうせい):1934年から1936年にかけて中国共産党軍が行った大移動。国民党軍に追われ、延安(えんあん)にたどり着いた。関連箇所
  • 徴兵制(ちょうへいせい):国家が必要とする兵力を国民から強制的に徴集する制度。山県有朋が主導し、明治5年(1872年)に公布された。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 超然主義(ちょうぜんしゅぎ):内閣が政党や議会とは無関係に、天皇の命令に基づいて政治を行うべきだとする考え方。山県有朋が信奉した。関連箇所
  • 中国の赤い星:エドガー・スノーの著書。中国共産党の指導者毛沢東に初めて長期取材し、彼らの実態を世界に伝えた。関連箇所関連箇所
  • 治安警察法(ちあんけいさつほう):1900年に制定された、集会や結社の自由を制限する法律。山県有朋が制定を推進した。関連箇所
  • チャーチル:ウィンストン・チャーチル。イギリスの政治家、首相。第二次世界大戦期の連合国首脳の一人。関連箇所
  • クレメンス・メッケル:ドイツ帝国陸軍の軍人。お雇い外国人として来日し、日本陸軍の戦略・戦術指導に貢献した。関連箇所
  • 大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん):大東亜戦争期に日本が提唱した、欧米勢力からのアジア解放と、日本を盟主とする共存共栄を目指す構想。しかし、実際は日本の支配圏拡大の口実となった。関連箇所
  • 大躍進(だいやくしん):1958年から1961年にかけて中国で推進された経済・社会政策。毛沢東が主導したが、大飢饉を引き起こし失敗した。関連箇所
  • 大逆事件(だいぎゃくじけん):1910年に発覚した、明治天皇の暗殺を計画したとされた社会主義者・無政府主義者の冤罪事件。幸徳秋水らが処刑された。関連箇所
  • デジタルヒューマニティーズ:人文科学の研究にデジタル技術や計算手法を応用する学際分野。関連箇所
  • dopingconsomme.blogspot.com:ブログサービスを用いたウェブサイトのドメイン。参照元
  • エドガー・スノー:アメリカのジャーナリスト。『中国の赤い星』の著者。中国共産党の指導者毛沢東に初めて長期取材し、彼らの実態を世界に伝えた。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 榎本武揚(えのもとたけあき):旧幕臣(きゅうばくしん)。明治政府で海軍卿や文部大臣などを歴任した。関連箇所
  • 江藤新平(えとう しんぺい):明治新政府の司法卿。征韓論に敗れて下野し、佐賀の乱を起こした。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 筆子(ふでこ):夏目漱石の長女。半藤一利の夫人である松岡蕗子の母。関連箇所
  • 福地桜痴(ふくち おうち):明治期のジャーナリスト、劇作家、政治家。陸軍の「軍人訓戒」の加筆に関わった。関連箇所
  • 富国強兵(ふこくきょうへい):明治政府のスローガン。経済力を高めて軍事力を強化する政策。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 藤村道生(ふじむら みちお):日本の歴史学者。山県有朋に関する評伝も著している。関連箇所
  • ガンジー:マハトマ・ガンジー。インド独立運動の指導者。非暴力・不服従を掲げた。関連箇所
  • 臥薪嘗胆(がしんしょうたん):復讐を心に誓い、苦難に耐えること。日清戦争後の日本の対露政策を指す言葉として使われた。関連箇所
  • 義和団事件(ぎわだんじけん):1900年に中国で発生した排外主義運動。義和団が外国人宣教師や教会を襲撃し、列強の連合軍が鎮圧にあたった。関連箇所>
  • 五族協和(ごぞくきょうわ):満州国が掲げたスローガン。日本人、朝鮮人、満州人、中国人、モンゴル人の五つの民族が協和するという意味だが、実態は日本の支配を正当化するためのものであった。関連箇所
  • 中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう):中華人民共和国を統治する唯一の政党。1921年に設立された。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 後藤象二郎(ごとう しょうじろう):幕末から明治にかけての政治家。自由民権運動の指導者の一人。関連箇所
  • カバナンス(Governance):組織や国家を管理・統治する仕組みや体制。関連箇所
  • 軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ):1882年に明治天皇が軍人に下した訓示。軍人の忠節、服従、勇気などを説き、天皇への絶対的な忠誠を求めた。関連箇所
  • 軍人訓戒(ぐんじんくんかい):1878年に陸軍が軍人に発した訓戒。軍人の規律維持と政治不介入を求めた。関連箇所関連箇所
  • 軍国主義(ぐんこくしゅぎ):軍事力を国家の最も重要な要素とみなし、それを政治や社会のあらゆる面に優先させる思想や体制。関連箇所
  • 中国国民党(ちゅうごくこくみんとう):中華民国の政党。孫文によって設立され、蒋介石が指導した。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 廃藩置県(はいはんちけん):1871年に明治政府が断行した政治改革。それまでの藩を廃止し、中央政府直轄の県を置いた。関連箇所関連箇所
  • 班固(はん こ):後漢の歴史家。『漢書』を編纂した。漢字の構成を研究した人物の一人。関連箇所
  • 半藤一利(はんどう かずとし):日本の作家、ジャーナリスト。昭和史研究の第一人者で、山県有朋に関する著作もある。関連箇所
  • 繁体字(はんたいじ):中国語の文字のうち、簡略化されていない伝統的な字体。台湾、香港、マカオなどで主に用いられる。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 原敬(はら たかし):日本の政治家、首相。初の本格的な政党内閣を組織した。関連箇所>
  • 八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん):1863年に京都で起きた政治的事件。薩摩・会津藩が長州藩を京都から追放し、尊王攘夷派の公家を朝廷から一掃した。関連箇所関連箇所
  • 土方歳三(ひじかた としぞう):幕末期の新選組副長。箱館戦争で戦死した。関連箇所>
  • 裕仁親王(ひろひとしんのう):後の昭和天皇。宮中某重大事件では、久邇宮良子女王との婚約が問題となった。関連箇所
  • ヒトラー:アドルフ・ヒトラー。ナチス・ドイツの指導者。第二次世界大戦を引き起こした。関連箇所
  • ホーチミン:ベトナムの革命家、政治家。ベトナム民主共和国(北ベトナム)の初代国家主席。関連箇所
  • 香港:中国南部の特別行政区。かつてイギリス領で、1997年に中国に返還された。2020年の国家安全維持法制定により、自由が制限された。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 池田屋事件:1864年に京都で起きた、新選組による尊王攘夷派志士の襲撃事件。関連箇所関連箇所
  • 一国二制度(いっこくにせいど):中国が香港やマカオ、台湾に対し「一つの中国」を前提としつつ、資本主義制度や高度な自治を維持することを認める原則。香港では事実上骨抜きにされた。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 井上馨(いのうえ かおる):明治の元勲。長州藩出身。伊藤博文とともに日露協商を唱えた。関連箇所関連箇所
  • 井上寿一(いのうえ じゅいち):日本の歴史学者。山県有朋に関する著作も多い。関連箇所
  • 井上毅(いのうえ こわし):明治期の官僚、法律家。教育勅語の起草に関わった。関連箇所関連箇所>
  • 入江九一(いりえ くいち):幕末の長州藩士。高杉晋作の奇兵隊結成に協力した。関連箇所
  • 伊藤博文(いとう ひろぶみ):明治の元勲。日本の初代内閣総理大臣。立憲政友会を結成した。山県有朋とともに大日本帝国の創作者と評される。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 伊藤隆(いとう たかし):日本の歴史学者。山県有朋に関する著作の編纂に携わった。関連箇所
  • 伊藤之雄(いとう ゆきお):日本の歴史学者。山県有朋の評伝を著している。関連箇所
  • 板垣退助(いたがき たいすけ):明治の政治家。自由民権運動の指導者。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 岩倉具視(いわくら ともみ):幕末・明治初期の公家、政治家。倒幕運動の中心人物の一人。関連箇所関連箇所
  • 岩村精一郎(いわむら せいいちろう):土佐藩士。戊辰戦争で西軍の参謀を務めた。関連箇所
  • 自由民権運動(じゆうみんけんうんどう):明治初期に起きた、国民の自由と権利を主張し、国会の開設などを求めた政治運動。関連箇所
  • 自由党:1881年に板垣退助らが結成した、自由民権運動の中心政党。関連箇所
  • 常在戦場(じょうざいせんじょう):常に戦場にあるかのように心構えをしておくこと。河井継之助ら長岡藩士が信奉した。関連箇所
  • カペレッチ:イタリアの建築家。明治初期に日本で多くの建築物を設計した。関連箇所
  • 神の依代(かみのよりしろ):神霊が宿る対象物。白川静は、漢字の成り立ちを神の依代づくりと捉えた。関連箇所
  • 簡化字総表(かんかじそうひょう):中華人民共和国で制定された、簡体字の規範となる字表。関連箇所>
  • 韓国併合(かんこくへいごう):1910年、大日本帝国が朝鮮半島を自国領に編入した出来事。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 漢字簡化方案(かんじかんかあん):1955年に中華人民共和国で制定された漢字の簡略化に関する方案。関連箇所関連箇所
  • 簡体字(かんたいじ):中華人民共和国で制定された漢字の簡略化された字体。中国本土で主に用いられる。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 勝海舟(かつ かいしゅう):幕末から明治にかけての幕臣、政治家。旧幕府軍の交渉役を務めた。関連箇所
  • 桂太郎(かつら たろう):軍人、政治家。山県有朋の腹心で、内閣総理大臣を3度務めた。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 河井継之助(かわい つぎのすけ):幕末の越後長岡藩家老。戊辰戦争で長岡藩を率いて新政府軍と戦った。関連箇所
  • 川上操六(かわかみ そうろく):明治期の軍人。参謀本部次長などを歴任し、軍備拡張を推進した。関連箇所
  • 川村純義(かわむら すみよし):明治期の軍人、政治家。薩摩藩出身で、徴兵制の建議に賛同した。関連箇所
  • ケネディ:ジョン・F・ケネディ。アメリカ合衆国第35代大統領。関連箇所
  • 木越安綱(きごし やすつな):明治期の軍人。山県閥に属した。関連箇所
  • 菊池寛(きくち かん):日本の小説家、劇作家、実業家。文藝春秋の創刊者。関連箇所
  • 禁門の変(きんもんのへん):1864年に京都で起きた、長州藩と幕府・会津・薩摩藩との軍事衝突。関連箇所関連箇所
  • 岸信介(きし のぶすけ):日本の政治家、首相。安倍晋三の祖父にあたる。関連箇所
  • 清浦奎吾(きようら けいご):明治期の官僚、政治家。内閣総理大臣も務めた。関連箇所
  • 奇兵隊(きへいたい):幕末期の長州藩の民兵組織。高杉晋作が創設した。関連箇所
  • 小林虎之介(こばやし とらのすけ):幕末の越後長岡藩士。河井継之助を支えた。関連箇所>
  • 児玉源太郎(こだま げんたろう):明治期の軍人。日露戦争で満州軍総参謀長を務めた。関連箇所
  • 抗日統一戦線(こうにちとういつせんせん):日中戦争期に、中国国民党と中国共産党が日本軍に対抗するために結成した統一戦線。関連箇所
  • 小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう):日本の政治家、首相。構造改革を推進した。関連箇所関連箇所
  • 国家安全維持法(こっかあんぜんいじほう):2020年に香港に施行された法律。香港の自由と自治を著しく制限したと批判されている。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 国共合作(こっきょうがっさく):中国国民党と中国共産党が協力関係を結んだこと。日中戦争期に日本に対抗するために再開された。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 国共内戦(こっきょうないせん):中国国民党と中国共産党の間で起こった内戦。中国革命の最終段階。関連箇所関連箇所
  • 小村寿太郎(こむら じゅたろう):明治期の外交官。日英同盟の締結やポーツマス条約の締結に貢献した。関連箇所
  • 紅衛兵(こうえいへい):文化大革命期に毛沢東を支持して活動した学生を中心とする組織。過激な行動で社会を混乱させた。関連箇所
  • 孝明天皇(こうめいてんのう):江戸時代末期の天皇。幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。関連箇所
  • 言霊(ことだま):言葉に宿ると信じられた神秘的な力。白川静の漢字論にも関連する。関連箇所
  • 幸徳秋水(こうとく しゅうすい):明治期の社会主義者、無政府主義者。大逆事件で処刑された。関連箇所
  • 久邇宮良子女王(くにのみや ながこじょおう):後の香淳皇后。昭和天皇の皇后。宮中某重大事件の当事者。関連箇所
  • 栗野慎一郎(くりの しんいちろう):明治期の外交官。日露戦争前の対露交渉にあたった。関連箇所
  • 久坂玄瑞(くさか げんずい):幕末期の長州藩士。松下村塾の門下生で、尊王攘夷運動の指導者の一人。関連箇所
  • 宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん):1921年に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と久邇宮良子女王の婚約に反対する動きがあった事件。山県有朋が関与した。関連箇所
  • 教育勅語(きょういくちょくご):1890年に明治天皇の名で発布された教育に関する勅語。国民道徳の基本を示し、忠君愛国を強調した。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 郷土学(きょうどがく):柳田国男が提唱した、日本の各地に伝わる民俗文化や習俗を研究する学問。関連箇所
  • 洪水神(こうしんしん):古代中国神話に登場する、洪水を制御したり、洪水の災厄を引き起こしたりする神々。禹などが有名。関連箇所
  • 黒田清隆(くろだ きよたか):明治期の政治家、軍人。薩摩藩出身。征東大督府参謀などを務めた。関連箇所
  • 劉少奇(りゅう しょうき):中国共産党の幹部。文化大革命で失脚した。関連箇所
  • 李大釗(り だいちょう):中国共産党の創設者の一人。北京大学の図書館主任を務め、毛沢東を助手にした。関連箇所>
  • 魯迅(ろ じん):中国の代表的な文学者。漢字改革の必要性を訴えたことで知られる。関連箇所関連箇所
  • 毛沢東(もう たくとう):中華人民共和国の建国の父。中国共産党の指導者として、中国革命を成功に導いた。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • マオイズム:毛沢東の思想および理論体系。中国の革命と建設の指導思想とされた。関連箇所
  • 松方正義(まつかた まさよし):明治の元勲。財政家として日本の資本主義発展に貢献した。関連箇所
  • 松本清張(まつもと せいちょう):日本の小説家。歴史小説や推理小説を多く著し、山県有朋に関する作品もある。関連箇所>
  • 松元崇(まつもと たかし):日本の歴史学者。山県有朋に関する著作がある。関連箇所>
  • 明治維新(めいじいしん):19世紀後半に日本で行われた政治・社会改革。江戸幕府を倒し、天皇を中心とする近代国家を樹立した。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 明治国家(めいじこっか):明治維新以降に成立した日本の近代国家。関連箇所
  • 明治の大合併(めいじのだいがっぺい):明治政府による市町村の大規模な統廃合。地方行政の効率化を図った。関連箇所
  • 明治6年の政変(めいじろくねんのせいへん):1873年に発生した、征韓論をめぐる明治政府内の政治対立。西郷隆盛らが下野した。関連箇所関連箇所
  • 明治天皇(めいじてんのう):第122代天皇。明治維新を主導し、近代日本の象徴となった。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 三島通庸(みしま みちつね):明治期の官僚、警察官僚。福島事件などで知られる。関連箇所>
  • 味噌とっくり:山県有朋のあだ名。徳利に入った味噌がなかなか出てこないように、本心を明かさない、用心深い人物であるという意味。関連箇所関連箇所
  • 御手洗辰雄(みたらい たつお):日本のジャーナリスト、評論家。山県有朋に関する評伝も著した。関連箇所
  • 三浦梧楼(みうら ごろう):明治期の軍人。山県有朋の軍拡主義に反対した四将軍派の一人。関連箇所
  • 宮沢喜一(みやざわ きいち):日本の政治家、首相。経済大国主義を掲げた。関連箇所
  • 森有礼(もりありのり):明治期の外交官、政治家。日本語のローマ字化を提唱したことで知られる。関連箇所
  • 森鴎外(もり おうがい):日本の小説家、軍医。『興津弥五右衛門の遺書』などの歴史小説を著した。関連箇所
  • 元田永孚(もとだ ながざね):明治期の儒学者、教育者。教育勅語の原案「教学大旨」を起草した。関連箇所
  • 村田清風(むらた せいふう):幕末期の長州藩士。藩政改革を行った。関連箇所>
  • 中岡慎太郎(なかおか しんたろう):幕末の土佐藩士。坂本龍馬とともに薩長同盟の実現に尽力した。関連箇所>
  • 中村雄次郎(なかむら ゆうじろう):明治期の軍人、政治家。宮中某重大事件で宮内大臣を務めた。関連箇所関連箇所
  • ナムジュン・パイク(白南準):韓国系アメリカ人のビデオアーティスト。白川静の著作を読むことを勧めた。関連箇所
  • ナセル:ガマール・アブドゥル=ナーセル。エジプトの大統領。アラブ民族主義を掲げた。関連箇所
  • 夏目漱石(なつめ そうせき):日本の小説家。明治天皇の崩御に際して皇室に関する見解を述べている。関連箇所関連箇所
  • 日英同盟(にちえいどうめい):1902年に日本とイギリスの間で締結された軍事同盟。ロシアに対抗するために結ばれた。関連箇所関連箇所
  • 日露戦争(にちろせんそう):1904年から1905年にかけて日本とロシアの間で戦われた戦争。日本の勝利により東アジアの国際秩序が変化した。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 日中戦争(にっちゅうせんそう):1937年から1945年にかけて日本と中国の間で戦われた戦争。第二次世界大戦の一部を構成する。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • ニコライ2世:ロシア帝国の最後の皇帝。山県有朋が戴冠式に参列した。関連箇所
  • 新渡戸稲造(にとべ いなぞう):日本の教育者、思想家。『武士道』の著者。地方学の重要性を説いた。関連箇所
  • 乃木希典(のぎ まれすけ):明治期の軍人。日露戦争で旅順(りょじゅん)攻囲戦を指揮した。明治天皇崩御の際に殉死した。関連箇所
  • 野口三千三(のぐち みちろう):明治期の御用商人。山城屋事件で山県有朋との関係が問題となった。関連箇所>
  • ノモンハン事件:1939年に満州国とモンゴル人民共和国の国境付近で発生した日本とソ連の軍事衝突。関連箇所
  • 野村靖(のむら やすし):明治期の官僚。山県有朋の内務省で地方自治制度の確立に尽力した。関連箇所
  • 岡義武(おか よしたけ):日本の政治学者。山県有朋に関する著作も多い。関連箇所>
  • 岡部半蔵(おかべ はんぞう):幕末期の兵学者、槍術家。山県有朋に槍の技を教えたとされる。関連箇所>
  • 岡沢精(おかざわ せい):明治期の軍人。山県閥に属した。関連箇所
  • 大久保利通(おおくぼ としみち):明治維新の三傑の一人。薩摩藩出身。新政府の要職を務め、富国強兵を推進した。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 大隈重信(おおくま しげのぶ):明治の元勲。早稲田大学の創設者。日本の初代政党内閣を組織した。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 大村益次郎(おおむら ますじろう):幕末から明治初期にかけての兵学者、軍人。長州藩の軍制改革を主導し、日本の近代陸軍の基礎を築いた。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 穏歩前進(おんぽぜんしん):慎重にゆっくりと前進すること。中国の文字改革における一つの考え方として挙げられた。関連箇所>
  • 王政復古(おうせいふっこ):江戸時代末期に起きた、天皇を中心とする政治体制への復帰を目指す動き。関連箇所
  • 大山巌(おおやま いわお):明治期の軍人、政治家。陸軍大臣や参謀総長を務め、日露戦争で満州軍総司令官を務めた。関連箇所関連箇所
  • 彭徳懐(ほう とくかい):中国共産党の軍人、政治家。長征や抗日戦争で活躍した。関連箇所
  • ペリー来航(ペリーらいこう):1853年にアメリカ海軍提督マシュー・ペリーが浦賀(うらが)に来航した出来事。日本の開国を促した。関連箇所関連箇所
  • ポーツマス講和会議:1905年にアメリカのポーツマスで行われた、日露戦争の講和会議。関連箇所関連箇所
  • 利益線(りえきせん):国家の安全保障上、確保すべきとされた勢力圏や影響範囲。山県有朋が提唱した。関連箇所
  • 立憲政友会(りっけんせいゆうかい):1900年に伊藤博文が結成した日本の政党。関連箇所>
  • 六書(りくしょ):漢字の構成法を分類した六つの原則。象形、指事、会意、形声、転注、仮借からなる。関連箇所
  • ルネ・ジラール:フランスの哲学者、文芸批評家。人間の欲望や暴力の起源について独創的な理論を展開した。関連箇所
  • ルーズベルト:フランクリン・デラノ・ルーズベルト。アメリカ合衆国第32代大統領。第二次世界大戦期の連合国首脳の一人。関連箇所
  • 桜田門外の変(さくらだもんがいのへん):1860年に水戸藩士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺した事件。関連箇所関連箇所
  • 坂本龍馬(さかもと りょうま):幕末の土佐藩士。薩長同盟の仲介など、倒幕運動に尽力した。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 参謀本部(さんぼうほんぶ):明治政府の陸軍最高司令部。初代本部長は山県有朋。関連箇所関連箇所
  • 三条実美(さんじょう さねとみ):幕末・明治期の公家、政治家。尊王攘夷派の中心人物だったが、八月十八日の政変で京都を追われた。関連箇所
  • 三国干渉(さんごくかんしょう):1895年、日清戦争後の下関条約で日本が獲得した遼東半島(りょうとうはんとう)を、ロシア、ドイツ、フランスが共同で清に返還するよう要求した外交干渉。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 佐藤栄作(さとう えいさく):日本の政治家、首相。岸信介の弟。関連箇所
  • 薩長密約(さっちょうみつやく):1866年に薩摩藩と長州藩の間で結ばれた、武力倒幕を目指す秘密同盟。関連箇所関連箇所
  • 西郷隆盛(さいごう たかもり):明治維新の三傑の一人。薩摩藩の指導者。征韓論に敗れて下野し、西南戦争を起こした。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 西郷従道(さいごう つぐみち):西郷隆盛の弟。明治期の軍人、政治家。山県有朋とともに徴兵制の必要性を語った。関連箇所
  • 征韓論(せいかんろん):明治初期の日本で議論された、朝鮮に対する武力行使を主張する意見。明治6年の政変の引き金となった。関連箇所関連箇所
  • 西南戦争(せいなんせんそう):1877年に西郷隆盛を盟主として九州で起きた士族の反乱。明治政府軍によって鎮圧された。関連箇所関連箇所
  • 下関条約(しものせきじょうやく):1895年に日清戦争の講和のために締結された条約。清が日本に遼東半島などを割譲した。関連箇所
  • 進歩党(しんぽとう):1896年に大隈重信が立憲改進党などを統合して結成した政党。関連箇所>
  • 白川静(しらかわ しずか):日本の漢字学者。漢字の起源や思想的背景に関する独自の学説を提唱した。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 斯文(しぶん):文化、学問、特に儒教の道。孔子が確立した文化秩序を指す。関連箇所
  • 主権線(しゅけんせん):国家の領土を画する境界線。山県有朋が提唱した。関連箇所
  • 松下村塾(しょうかそんじゅく):幕末期の長州藩にあった私塾。吉田松陰が主宰し、高杉晋作や久坂玄瑞など、明治維新に大きな影響を与えた人物を多く輩出した。関連箇所
  • 殖産興業(しょくさんこうぎょう):明治政府のスローガン。近代産業を育成し、国力を高める政策。関連箇所関連箇所
  • スターリン:ヨシフ・スターリン。ソビエト連邦の指導者。関連箇所>
  • 杉浦重剛(すぎうら じゅうごう):明治期の教育者、思想家。宮中某重大事件で久邇宮良子女王擁護の立場を取った。関連箇所>
  • 杉山松助(すぎやま まつすけ):幕末期の長州藩士。京都に派遣された諜報員の一人。関連箇所>
  • 杉山茂丸(すぎやま しげまる):明治・大正期の実業家、政治活動家。山県有朋に関する評伝も著した。関連箇所>
  • 孫文(そん ぶん):中華民国の建国の父。中国国民党を設立した。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 台湾:中国大陸の東南に位置する島。中華民国が実効支配している。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 台湾海峡(たいわんかいきょう):台湾と中国大陸の間にある海峡。軍事的な緊張が高い地域。関連箇所>
  • 台湾問題:台湾の地位をめぐる中国と中華民国、および国際社会の間の政治的・外交的問題。関連箇所関連箇所
  • 大正天皇(たいしょうてんのう):日本の第123代天皇。晩年に精神疾患を患った。関連箇所
  • 高杉晋作(たかすぎ しんさく):幕末期の長州藩士。奇兵隊を創設し、倒幕運動を主導した。関連箇所
  • 田中義一(たなか ぎいち):明治・大正期の軍人、政治家。陸軍大臣、内閣総理大臣を歴任した。関連箇所関連箇所
  • 田中健五(たなか けんご):日本の編集者。文藝春秋の編集長を務めた。関連箇所>
  • 谷干城(たに たてき):明治期の軍人、政治家。軍拡主義に反対した四将軍派の一人。関連箇所>
  • 帝国国防方針(ていこくこくぼうほうしん):日露戦争後に制定された日本の国防に関する基本方針。ロシアを仮想敵国とした。関連箇所
  • 寺内正毅(てらうち まさたけ):明治・大正期の軍人、政治家。内閣総理大臣を歴任した。関連箇所>
  • チトー:ヨシップ・ブロズ・チトー。ユーゴスラビアの指導者。関連箇所>
  • 鳥羽伏見の戦い(とばふしみせんそう):1868年、京都郊外で起きた薩摩藩・長州藩を主体とする新政府軍と旧幕府軍との戦い。戊辰戦争の緒戦。関連箇所関連箇所
  • 東郷平八郎(とうごう へいはちろう):日本の軍人、元帥海軍大将。日露戦争の日本海海戦で連合艦隊を指揮し、バルチック艦隊を破った。関連箇所>
  • トポグラフィック(Topographic):地形や場所と関連するさま。白川静は、文字が地形や風景の記憶を宿していると考えた。関連箇所
  • 鳥尾小弥太(とりお こやた):明治期の軍人、政治家。山県有朋の軍拡主義に反対した四将軍派の一人。関連箇所関連箇所
  • 統帥権(とうすいけん):明治憲法下において、天皇が陸海軍を指揮監督する権限。内閣や議会から独立していた。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 頭山満(とうやま みつる):明治・大正期の政治運動家。玄洋社(げんようしゃ)の創設者の一人。関連箇所>
  • 鵜殿春風(うどの しゅんぷう):幕末の越後長岡藩士。河井継之助を支えた。関連箇所>
  • 梅田雲浜(うめだ うんぴん):幕末期の儒学者。尊王攘夷派の活動家で、安政の大獄で処刑された。関連箇所>
  • 巫祝(ふしゅく):神に仕え、祭祀を行い、神意を伝える者。白川静は漢字の成り立ちを巫祝のプロセスと捉えた。関連箇所>
  • 西安事件(せいあんじけん):1936年に中国で発生した事件。蒋介石が張学良によって監禁され、日本軍との抗戦を促された。関連箇所関連箇所
  • 辛亥革命(しんがいかくめい):1911年に中国で発生した革命。清朝を倒し、中華民国が成立した。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 許慎(きょ しん):後漢の学者。漢字の字源を考証した『説文解字』を著した。関連箇所
  • 梁川星巌(やながわ せいがん):幕末期の儒学者。尊王攘夷派の活動家。関連箇所>
  • 柳田国男(やなぎた くにお):日本の民俗学者。日本各地の民俗文化を研究し、郷土学を提唱した。関連箇所
  • 山県有朋(やまがた ありとも):明治の元勲。日本の近代陸軍の基礎を築き、軍国主義化に大きな影響を与えた。本稿の主要人物の一人。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 山県・ロバノフ協定(やまがた・ろばのふきょうてい):1896年に山県有朋とロシア外相ロバノフの間で締結された協定。朝鮮半島の情勢に関する両国の協調を確認した。関連箇所
  • 靖国神社(やすくにじんじゃ):東京都千代田区にある神社。戊辰戦争以降の日本の戦没者を祀る。軍国主義との関連性が指摘されることもある。関連箇所
  • 吉井友和(よしい ともかず):幕末・明治初期の薩摩藩士。征東大督府参謀などを務めた。関連箇所>
  • 芳川顕正(よしかわ あきまさ):明治期の官僚、政治家。内務次官、文部大臣などを歴任した。関連箇所
  • 憑坐(よりまし):神霊や精霊が憑依する人や物。白川静の漢字論における重要な概念。関連箇所
  • 融即(ゆうそく):異なるものが溶け合って一体となること。白川静は、文字が観念や行為と融即していると考えた。関連箇所
  • 鄭衆(てい しゅう):後漢の学者。漢字の構成を研究した人物の一人。関連箇所
  • 中華民国(ちゅうかみんこく):1912年に中国大陸で成立し、1949年以降は台湾に実効支配領域が限られる国。国民党が支配する。「二つの中国」の一つ。関連箇所関連箇所関連箇所
  • 中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく):1949年に中国共産党によって中国大陸に建国された国。現在、国際社会のほとんどの国から「中国」として承認されている。「一つの中国」の主体。関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所関連箇所
  • 朱徳(しゅ とく):中国共産党の軍人、政治家。人民解放軍の創設者の一人。関連箇所
  • 張学良(ちょう がくりょう):中国の軍閥指導者。西安事件で蒋介石を監禁し、抗日戦を促した。関連箇所>

用語解説

本書で登場する専門用語や歴史的用語の簡潔な解説

  • 足軽(あしがる):江戸時代の武士階級の下層に位置する兵士。軽装で歩兵として戦場を駆け巡った。
  • 一触即発(いっしょくそくはつ):非常に緊迫した状況で、少しのきっかけで大きな事態に発展しそうなこと。
  • 宇垣一成(うがき かずしげ):日本の陸軍軍人、政治家。
  • 御親兵(ごしんぺい):明治初期に設置された、天皇直属の軍隊。後の近衛兵。
  • 還暦(かんれき):数え年で61歳のこと。干支が一巡することに由来する。
  • 官営(かんえい):政府が直接経営すること。明治政府は殖産興業政策の一環として多くの工場や鉱山を官営化した。
  • 恭順(きょうじゅん):謹んで従うこと。相手の意見や命令に素直に従う態度。
  • 牽引(けんいん):引っ張っていくこと。物事を主導し、推進していくこと。
  • 国学(こくがく):江戸時代中期以降に発展した、日本の古典を研究する学問。日本の古代精神や文化を重視した。
  • 甲骨文字(こうこつもじ):中国古代の殷(いん)の時代に、亀の甲羅や牛の骨に刻まれた文字。漢字の原型とされる。
  • 五稜郭(ごりょうかく):江戸時代末期に蝦夷地(えぞち、現在の北海道)に築かれた星形の要塞。戊辰戦争の最後の戦場となった。
  • 古字(こじ):昔の字体。現在使われている漢字よりも古い形。
  • 行脚(あんぎゃ):僧が修行のために各地を歩き回ること。転じて、広く各地を歩き回ること。
  • 刻苦(こっく):骨身を削るような苦労をして努力すること。
  • 参議(さんぎ):明治初期の官職名。政府の最高意思決定機関である太政官(だじょうかん)の要職。
  • 士族(しぞく):明治維新後、旧武士階級に与えられた身分。後の廃刀令などで特権を失ったため、不平士族の反乱が相次いだ。
  • 識字率(しきじりつ):特定の集団において、文字を読み書きできる人の割合。
  • 周到(しゅうとう):すみずみまで行き届いて、手抜かりがないこと。
  • 終結(しゅうけつ):物事が終わること。戦争や紛争などが終わること。
  • 首班(しゅはん):内閣総理大臣のこと。内閣の首長。
  • 純粋性(じゅんすいせい):混じりけがなく、本来の性質を保っていること。
  • 上奏権(じょうそうけん):天皇に直接意見を述べたり、報告したりする権利。明治憲法下では、軍部の統帥権と結びつき、帷幄上奏権として軍部の政治的発言力を高めた。
  • 書写(しょしゃ):文字を書き写すこと。
  • 靭やか(しなやか):柔軟性があり、しなったりたわんだりすること。また、精神的にも柔軟で強いさま。
  • 青雲の志(せいうんのこころざし):立身出世や高遠な理想を抱くこと。
  • 俗論党(ぞくろんとう):幕末期の長州藩で、幕府に恭順する立場をとった政治勢力。奇兵隊などの正義党と対立した。
  • 戴冠式(たいかんしき):国王や皇帝が即位に際して、冠を授けられる儀式。
  • 多士済々(たしせいせい):多くの有能な人材がそろっていること。
  • 耽読(たんどく):夢中になって書物を読むこと。
  • 鎮台(ちんだい):明治初期に全国に設置された陸軍の部隊の拠点。後の師団の前身。
  • 抽出(ちゅうしゅつ):多くのものの中から特定のものを選び出すこと。
  • 勅使(ちょくし):天皇の使者。
  • 勅諭(ちょくゆ):天皇が臣下や国民に下す訓示。
  • 長州閥(ちょうしゅうばつ):明治維新で大きな功績を挙げた長州藩出身者が、明治政府の要職を独占した勢力。
  • 長征(ちょうせい):1934年から1936年にかけて中国共産党軍が行った大移動。
  • 坪内逍遥(つぼうち しょうよう):日本の小説家、劇作家、評論家。
  • 天保(てんぽう):日本の元号(1830年~1844年)。
  • 騰写版(とうしゃばん):いわゆるガリ版。鉄筆で原紙を削り、インクを転写して印刷する簡易な印刷方法。
  • 独創的(どくそうてき):他の模倣ではなく、独自の発想や工夫によって生み出されたさま。
  • 藩閥政治(はんばつせいじ):明治政府において、薩摩藩、長州藩など特定の藩出身者が主要な役職を独占し、政治を主導した体制。
  • 版籍奉還(はんせきほうかん):明治政府が1869年に、諸藩に領地(版)と人民(籍)を天皇に返還させた改革。
  • 筆画(ひっかく):漢字を構成する線や点。
  • 平仄(ひょうそく):漢詩の押韻(おういん)や声調(せいちょう)の規則。
  • 富国強兵(ふこくきょうへい):経済力を高め、軍事力を強化すること。明治政府のスローガン。
  • 腐敗(ふはい):物事が倫理的に堕落し、堕落すること。特に政治や組織で不正や汚職が横行すること。
  • 払底(ふってい):品物などがすっかりなくなること。
  • 弁士(べんし):演説を行う人。特に大衆集会などで情熱的に語りかける人。
  • 澎湖諸島(ほうこしょとう):台湾本島の西方にある諸島。中華民国が実効支配する。
  • 無血開城(むけつかいじょう):戦闘を行うことなく城が明け渡されること。
  • 盟友(めいゆう):誓い合った友。志を同じくする仲間。
  • 羅針盤(らしんばん):方位を示す磁石。転じて、進むべき方向を示すもの。
  • 老獪(ろうかい):経験豊富で、ずる賢いこと。
  • 和議(わぎ):争い事をやめて平和的に解決すること。

補足1:各視点からの感想

ずんだもんの感想

あのね、この論文、いろんな話がごっちゃになってて、頭がずんだ餅みたいになっちゃうのだ!💦

台湾の話かと思ったら、急に白川先生が漢字の神様の話を始めて、そんで毛沢東エドガー・スノーさんが出てきて、最後は日本の山県有朋さんの軍人生活なのだ!ジャンルが混ざりすぎで、どこが本筋なのかわかんなくなっちゃったのだ!カオスなのだー!

でもね、それぞれ読んでみると、どの話もすっごく面白いのだ!特に漢字の成り立ちとか、文字が神様の依代だったなんて、へぇ~って思ったのだ。毛沢東さんもすごい人だったのだね。山県さんも、なんか明治の日本をガチガチにした人なのだ!

全部読むと、なんかアジアの歴史って、いろんなことが絡み合ってて複雑なんだなって、ちょっと賢くなった気分になるのだ!でも、もう一回読み直して、ちゃんと頭の中を整理しないと、ずんだ餅のままなのだ…ふぅ~🤔

ビジネス用語を多用するホリエモン風の感想

いやこれ、論文って体裁で出してくるけど、複数のテキストがコピペされてるだけじゃん?(笑) でもまあ、いいんじゃない?情報過多の現代において、このくらい雑多なインプットを高速で処理して、自分なりのアジェンダを設定できる奴が勝つんだよ。

いちいち「なんで繋がってんだよ!」とか文句言ってたら何も進まねぇ。要は、このカオスの中から何を掴み取るか。そこにビジネスチャンスがあるわけ。

例えば、中国の台湾有事リスクは、半導体サプライチェーンのレジリエンスを再構築する絶好の機会だし、漢字の簡体字化の歴史は、AI翻訳の課題やグローバルコミュニケーション戦略を考える上でのインサイトになる。山県有朋の組織論からだって、現代企業のガバナンスや、トップダウンとボトムアップのバランスについて学べることなんか山ほどある。

結局、思考停止してるやつは稼げないってこと。このテキストをどういう価値として捉え、どうアウトプットに繋げるか。それが全てだよ。

西村ひろゆき風の感想

なんか、色んな話がごっちゃになってて、結局何が言いたいの?って感じですね。

台湾とか香港とか、そりゃ中国は「一つの中国」って言うよね、っていう。別に珍しくもないし、そう主張しないと国内が持たないんでしょ。別に彼らが正しいとか間違ってるとかじゃなくて、そういうもんなんでしょ。

漢字の簡体字化も、そりゃそうなるわ、みたいな。識字率上げたいなら漢字を簡単にするしかないじゃん。別に効率重視したらそうなるよね、っていう。それって別にすごいことなの?

で、毛沢東とか山県有朋?知らんけど。なんか軍人とか政治家のおっさんが頑張った的な話でしょ。結局、誰かが頑張っても、時代とか状況で結果決まるだけなんで、あんまり意味ないんじゃないですかね。なんか、ご苦労様でした、としか。


補足2:この記事に関する年表

主要な出来事の概観(中国、日本、国際関係)

出来事 関連する国・地域 主な人物
1838 山県有朋、誕生(天保9年) 日本 山県有朋
1851 太平天国(たいへいてんごく)の乱勃発(文字の簡略化使用) 中国 洪秀全
1853 ペリー来航(黒船来航)(嘉永6年) 日本 マシュー・ペリー
1858 桜田門外の変(安政5年) 日本 井伊直弼
1860 安政の大獄終結 日本
1863 長州藩、下関で外国船砲撃(文久3年) 日本 高杉晋作、久坂玄瑞
1864 八月十八日の政変池田屋事件禁門の変(元治元年) 日本 三条実美、久坂玄瑞、新選組
1865 薩長同盟締結(慶応元年) 日本 坂本龍馬、桂小五郎、西郷隆盛
1867 徳川慶喜大政奉還(慶応3年) 日本 徳川慶喜
1868 鳥羽伏見の戦い戊辰戦争開始、明治維新(慶応4年/明治元年) 日本 西郷隆盛、山県有朋
1869 東京遷都、版籍奉還(明治2年) 日本 明治天皇
1871 廃藩置県(明治4年) 日本 大久保利通、木戸孝允
1872 徴兵令公布(明治5年) 日本 山県有朋
1873 明治6年の政変(征韓論論争)(明治6年) 日本 西郷隆盛、板垣退助、大久保利通
1877 西南戦争終結、参謀本部設置(山県初代本部長)(明治10年) 日本 西郷隆盛、山県有朋
1882 軍人勅諭発布(明治15年) 日本 山県有朋
1885 内閣制度発足(伊藤博文初代総理、山県内務大臣)(明治18年) 日本 伊藤博文、山県有朋
1889 大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)発布(明治22年) 日本 伊藤博文
1890 山県有朋、内閣総理大臣就任、教育勅語発布(明治23年) 日本 山県有朋
1891 治安警察法制定(明治24年) 日本 山県有朋
1894 日清戦争開始(明治27年) 日本、清 山県有朋
1895 日清戦争終結、下関条約締結、三国干渉(明治28年) 日本、清、ロシア、ドイツ、フランス
1896 山県・ロバノフ協定締結(明治29年) 日本、ロシア 山県有朋
1900 義和団事件(北清事変)勃発(明治33年) 中国、列強
1900 立憲政友会結成 日本 伊藤博文
1902 日英同盟締結(明治35年) 日本、イギリス 小村寿太郎
1904 日露戦争開始(明治37年) 日本、ロシア 山県有朋、大山巌
1905 日露戦争終結、ポーツマス講和会議(明治38年) 日本、ロシア 小村寿太郎
1907 帝国国防方針」制定(明治40年) 日本 田中義一
1910 韓国併合(明治43年) 日本、朝鮮 桂太郎
1910 白川静、誕生 日本 白川静
1911 辛亥革命(清朝滅亡、中華民国建国) 中国 孫文
1912 中華民国、南京を首都に建国 中国 孫文
1919 中国国民党、孫文によって設立 中国 孫文
1921 中国共産党、陳独秀らによって上海で設立 中国 陳独秀
1922 山県有朋、死去(大正11年) 日本 山県有朋
1927 国民党と共産党の分裂(国共内戦の始まり) 中国 蒋介石、毛沢東
1934 長征開始 中国 毛沢東
1936 エドガー・スノー毛沢東と初会見、西安事件 中国 毛沢東、蒋介石、張学良、エドガー・スノー
1937 日中戦争開始、国共合作再開 日本、中国
1945 第二次世界大戦終結、日中戦争終結 国際
1946 国共内戦再燃 中国 蒋介石、毛沢東
1949 中華人民共和国建国、中華民国(国民党軍)台湾島に撤退 中国、台湾 毛沢東、蒋介石
1951 毛沢東、文字改革を指示(再強調) 中国 毛沢東
1955 漢字簡化方案」公布 中国
1966 文化大革命開始 中国 毛沢東、林彪
1971 国連で「中国」の議席が中華人民共和国に認められる 国際
1976 毛沢東、死去 中国 毛沢東
1981 中国共産党、毛沢東の思想と運動を公式に「誤り」と評価 中国
1997 香港が中国に返還、「一国二制度」のもと特別行政区となる 中国
2020 香港で「国家安全維持法」制定 中国
2022 ロシアによるウクライナ侵攻 国際

補足3:潜在的読者のための情報

この記事につけるべきキャッチーなタイトル案

  • 知の迷宮へ誘う東アジア史:漢字、革命、そして国家の源流を探る旅
  • 現代アジアの深層:台湾有事から明治維新まで、知られざる歴史の連環
  • 歴史が語る「今」:中国・日本を多角的に読み解く教養ガイド
  • 漢字に刻まれた魂:白川静と毛沢東、山県有朋が織りなす東アジアの運命
  • 東アジアの「なぜ?」を解き明かす:思想と権力、文化が交錯する歴史の旅

SNSなどで共有するときに付加するべきハッシュタグ案

#アジア史 #中国史 #日本史 #漢字学 #白川静 #毛沢東 #山県有朋 #歴史考察 #東アジア問題 #国際関係 #簡体字 #台湾有事 #現代史 #教養 #歴史教育

SNS共有用に120字以内に収まるようなタイトルとハッシュタグの文章

現代アジアの今を読み解く歴史考察!中国の「一つの中国」原則から白川静の漢字学、毛沢東、そして山県有朋が築いた近代日本まで、多様なテーマを横断。必読! #アジア史 #歴史の旅 #中国 #日本 #漢字 #台湾

ブックマーク用にタグを[]で区切って一行で出力

[中国][台湾][漢字][白川静][毛沢東][山県有朋][日本史]

この記事に対してピッタリの絵文字

🌏📜🇨🇳🇯🇵💡📚⚔️🤔🔍🗺️🔥🕊️🎓🖋️ east-asia-historical-tapestry

補足4:一人ノリツッコミ

「いやちょい待てや!これ、『論文』って言うてるけど、ロシアとウクライナの話から始まって、いきなり台湾問題でしょ?そんで急に白川静先生の漢字の話に飛ぶって、どないなっとんねん?!…いやいや、確かに、全部アジアの歴史や文化ってくくりにはなるけど、詰め込みすぎやろ!ワシの頭の中もこんな感じで、色んな情報がごっちゃになってるんちゃうか?でも、どれもこれも興味深くて、ついつい読み進めてまうねん。この無茶苦茶な構成が、逆にクセになるっちゅうか、知的好奇心を刺激するあたり、筆者の狙い通りなんやろか…?いや、ちゃうちゃう!単に色んな資料をベタベタ貼り付けただけちゃうんか、これ!あんまりやろ!」


補足5:大喜利

お題:この「論文」が次に扱うテーマは?

  1. 戦国武将たちの意外な食生活と、現代に伝わる隠れグルメの秘密。
  2. 江戸時代の飛脚(ひきゃく)と現代の宅配便、どちらが速くてコスパが良いか?徹底比較。
  3. なぜ猫は箱に入るのが好きなのか?動物心理学と段ボールの歴史から考察。
  4. 全国のゆるキャラ(ご当地キャラクター)に学ぶ、地域活性化のマーケティング戦略。
  5. 宇宙人と人類の異文化コミュニケーションについて、宇宙語の解読と平和的交渉の可能性。

補足6:ネットの反応と反論

なんJ民のコメントと反論

コメント: 「はえ~漢字の先生ってすげーわ。ワイは部首すら分からんのに。てか中国ってずっと揉めてんな。野球みたいにトーナメントで決着つけろや」

反論: 「漢字の成り立ちを深く知ることで、単なる暗記ではなく、文化的な背景や思想まで見えてくるのが、学問の醍醐味です。また、国家間の紛争は単純なスポーツの試合とは異なり、歴史的経緯、複雑な民族問題、経済的利害などが絡み合っており、一概に『トーナメントで決着』とはいかないのが現実です。歴史を学ぶことで、その複雑性を理解する一助となります。」

ケンモメンのコメントと反論

コメント: 「要するに全部自民党とアメリカのせいだろ?明治から何も変わってねーよ。軍拡とかバカじゃねーの。どーせまた貧乏人がしんどい思いするだけだろ」

反論: 「本論考は個別の歴史的事実や人物の動機、そして具体的な政策決定の経緯を多角的に分析しており、特定の政治勢力や国家のみに責任を帰結させる単純な構図ではありません。軍拡や経済政策が社会に与える影響は常に多面的であり、歴史を学ぶことで、現代の政策決定におけるより深い洞察と批判的思考を養うことができます。貧困問題は、軍事費だけでなく、税制、社会保障、労働環境など多岐にわたる要因が絡み合っています。」

ツイフェミのコメントと反論

コメント: 「男ばっかりでうんざり。女性の視点ゼロじゃん。歴史は男が作ったものだけじゃない。白川静の漢字学も、漢文は女性差別とどう結びついてるの?って視点がない。」

反論: 「提供されたテキストは主に政治史、軍事史、学術史を扱っており、当時の社会構造を反映して中心となる登場人物が男性に偏っているのは事実です。しかし、これは歴史のすべてを網羅するものではありません。女性史の視点から同じテーマ(例:漢字文化が女性の生活や教育に与えた影響、近代化における女性の役割)を掘り下げる研究は、今後の重要な課題であり、歴史をより豊かに理解するために不可欠です。学問は常に新しい視点を取り入れ、問いを深めていくものです。」

爆サイ民のコメントと反論

コメント: 「結局、中国は全部ウソつき!日本はもっと強硬に出ろ!あんな国に遠慮はいらねえ!山県有朋は正しい!今の政治家は腰抜けばっかりでダメだ!」

反論: 「中国の歴史的・政治的背景を理解することは、感情的な対立を煽るのではなく、より合理的で建設的な外交戦略を立てる上で不可欠です。歴史は多様な解釈が可能であり、過去の人物の行動も当時の国際情勢や国内事情、そして個人の思想によって複雑に形成されています。単一の人物の評価を絶対視し、それを現代の政策に安易に直結させることは危険であり、多様な視点から歴史を学び、冷静な判断を下すことが求められます。」

Reddit (r/history, r/China, r/Japan) のコメントと反論

コメント: "This paper jumps topics wildly. Is this a common style in Japanese academia, or some kind of experimental literature review? While interesting, the lack of clear transitions and unified argument makes it hard to follow as a 'paper'."

反論: "You've hit on a key point. This text appears to be a compilation of distinct essays or reviews rather than a single, cohesive academic paper in the Western sense. It's likely intended for a broader, curious audience as a 'cultural and historical essay collection' rather than a specialized academic publication. While not a standard academic format, it offers a broad, multi-thematic perspective on East Asian history and culture, inviting readers to connect dots across different domains. The writing style also suggests it might be from a specific Japanese intellectual tradition, such as the 'intellectual review' style found in publications like Matsuoka Seigo's 'Sensashichiya'."

Hacker Newsのコメントと反論

コメント: "Any practical implications for tech/business from this historical context? E.g., supply chain resilience given Taiwan/China tensions, or cross-cultural communication tools for simplified vs. traditional Chinese? The 山県有朋 part seems less relevant to tech, but perhaps there's a lesson on national strategy?"

反論: "Absolutely, there are practical implications. The discussion on Taiwan/China directly impacts supply chain resilience and geopolitical risk assessment for tech companies, especially those reliant on semiconductor manufacturing or operating in the region. The simplified/traditional Chinese sections highlight nuances in cross-cultural communication, localization strategies for software, and the development of AI-driven language processing tools. While the 山県有朋 section on Japanese military-industrial complex might seem less direct, it offers valuable insights into national strategy, top-down bureaucratic control, and the historical roots of 'state-led development' or 'centralized governance' models, which can inform understanding of contemporary state-corporate relations and policy-making in East Asia, including tech regulation and industrial policy."

目黒孝二風書評コメントと反論

コメント: 「…と、まあ、かくも雑多なテーマが、一見脈絡なく紡がれるこの『論文』とやらは、いかにも現代の知識消費のありようを反映しているようで、興味深い。情報の断片が、それ自体で『深い洞察』を与えているかのように錯覚させる、なんとも業の深い書き口。白川静の『知の洞窟』から、山県有朋の『官僚主義体制』まで、読者を縦横無尽に引きずり回す筆致は、ある種の覚悟がなければ読み通せぬ。…いや、そもそも読み通す必要などないのかもしれない。ここにあるのは、現代人がいかに『知の表皮』を掻きむしり、その奥に潜む『地脈』を掴もうとしないか、その証左である。」

反論: 「ご指摘の通り、本テキストは多様なテーマを横断し、読者に知の迷宮を彷徨わせるような構成に見えるかもしれません。しかし、それは単なる情報の羅列ではなく、現代のアジアが抱える複雑な問題(台湾有事の懸念など)に対し、安易な答えを求めず、多層的な歴史的・文化的な背景に光を当てる筆者の知的な試みと捉えることもできます。読者が『知の表皮』を掻きむしるだけでなく、その先の『地脈』へと自ら歩みを進めるための、言わば『道標』としての役割を意図しているのではないでしょうか。情報の断片を繋ぎ合わせ、自らの思考で新たな意味を見出すという、現代的な読書のあり方を逆説的に促しているとも解釈できます。」


補足7:高校生・大学生向け課題

高校生向けの4択クイズ

問1: 「一つの中国」の原則において、中華人民共和国が「反乱団体による不法政権」とみなし、自国の「固有の領土」であると主張しているのは次のうちどれでしょう?
A) 日本
B) 台湾(中華民国)
C) 韓国
D) シンガポール
正解: B) 台湾(中華民国)

問2: 白川静の漢字学において、漢字の成り立ちや原初的な意味が、人間の身体に刻み入れる儀礼と深く関連していると指摘されたものがあります。それは次のうちどれでしょう?
A) 茶道
B) 文身(入れ墨)
C) 能楽
D) 相撲
正解: B) 文身(入れ墨)

問3: 中華人民共和国の成立後、毛沢東が文字改革を指示し、簡体字を推進した主な理由として、このレポートで挙げられているのは次のうちどれでしょう?
A) 漢字のデザインをより美しくするため
B) 国民全体の識字率を向上させ、教育を普及させるため
C) 欧米の文字文化に対抗するため
D) 書道をより簡単に楽しむため
正解: B) 国民全体の識字率を向上させ、教育を普及させるため

問4: 明治維新後、日本の軍政を確立し、「天皇の軍隊」の基礎を築いたとされ、日本の軍国主義化に大きな影響を与えたとこのレポートで紹介されている人物は次のうち誰でしょう?
A) 坂本龍馬
B) 伊藤博文
C) 山県有朋
D) 西郷隆盛
正解: C) 山県有朋

大学生向けのレポート課題

課題1: 歴史の多層的理解と現代への接続
本記事は、中国の現代国際問題、漢字学、中国語改革史、中国革命史、日本近代史という、複数のテーマを横断的に扱っています。これらのテーマが、現代の東アジア情勢(特に台湾問題香港情勢など)にどのように関連しているのかを具体的に分析し、歴史を学ぶことの意義について論じなさい。また、それぞれのテーマが、あなたがこれまで学んできた他の学問分野(例:政治学、経済学、文化人類学、言語学など)とどのように交差するのか、具体的な事例を挙げて考察しなさい。

課題2: 指導者の思想と国家形成
本記事では、毛沢東山県有朋という二人の指導者が、それぞれ中国と日本の国家形成に与えた影響について詳述しています。両者の思想や統治手法にはどのような共通点と相違点が見られるでしょうか。彼らが国家を形成する上で重視した理念、あるいは用いた手段は、現代のそれぞれの国の政治体制や国民性にどのような影響を与えていると考えられますか。具体的な歴史的事実を根拠に、あなたの考察を述べなさい。

課題3: 文字と文化、そして国家
本記事では、白川静の漢字学と中国の簡体字改革という二つの視点から、文字が文化や国家に与える影響について論じています。白川学が示す漢字の深層的な意味と、簡体字改革が目指した国家的な識字率向上と国民統合の目的を比較し、文字が持つ「文化的側面」と「政治的側面」の相互作用について考察しなさい。また、この二つの視点から、現代のデジタル社会における文字や言語の役割について、どのような示唆が得られるかを論じなさい。

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