労働でいい汗をかける時代は終わった。

 「仕事では汗をかけないから、人はジムに行く」

深夜一時のコンビニジムに、スーツ姿の男がいる。昼間はほとんど身体を動かしていないはずなのに、彼はランニングマシンの上で汗だくになっている。左手首のApple Watchが心拍数を計測し、イヤホンからは「生産性」を語るYouTube動画が流れている。彼は疲れている。だが、その疲れは昼間の仕事では得られなかった種類のものだ。

現代人は、昔より肉体的には楽になった。工場労働は減り、重い荷物は物流システムが運び、AIが議事録を書き、ChatGPTが企画書の叩き台を作る。だが、私たちはなぜか昔より「働いた気がしない」。

Slack通知に反応し、Zoom会議で愛想笑いをし、Notionでタスクを整理し、KPIを追い、副業のSNSを更新する。脳は一日中稼働している。だが、そこには「今日も生きた」という感覚が薄い。疲れているのに、汗をかいた実感がない。

たぶん、「いい汗」とは身体現象ではなかったのだ。

昭和の労働観において、汗は道徳だった。汗をかくことは、共同体への参加証明だった。頑張っている姿は、そのまま人格の証明でもあった。『プロジェクトX』が描いたのは技術ではなく、「努力する身体」の神話である。もちろん、その時代には過労や同調圧力もあった。だが少なくとも、「働くこと」と「自分が必要とされている感覚」は、まだ接続されていた。

現代の労働は違う。成果だけが抽出され、過程は圧縮される。AIはその流れをさらに加速させる。以前なら数時間かけて悩んでいた文章を、今では数十秒で生成できる。便利だ。だが、便利さは時々、奇妙な空虚を残す。思考の摩擦が減るほど、「自分で到達した」という感覚も消えていく。

これは失業の話ではない。自己実感の話だ。

人間は本来、「苦労した」という身体感覚を通じて、自分を確認してきた。だから現代人は、仕事で失われた身体性を別の場所で回収し始める。筋トレ、サウナ、マラソン、キャンプ。仕事では座ったまま数字を動かしている人間が、夜になると金を払って重いバーベルを持ち上げる。

あれは健康ブームというより、「意味ある疲労」を取り戻す儀式なのかもしれない。

SNSはさらに状況を奇妙にした。努力は体験ではなく、演出になった。朝活の写真、勉強風景、ランニング記録。現代では「努力していること」より、「努力しているように見えること」のほうが価値を持つ。努力は共同体への奉仕ではなく、自己ブランド化の素材になった。

だから私たちは、常に疲れているのに、どこか空虚なのだ。

汗が消えたのではない。汗の意味が変わったのである。

かつて汗は、「この世界のどこかに自分の居場所がある」という感覚と結びついていた。だが今の労働は、速さと最適化ばかりを要求する。タイパを追うほど、人生の輪郭は薄くなる。リモートワークは通勤の苦痛を消したが、「会社を出る解放感」まで消してしまった。AIは作業時間を短縮するが、「自分が積み上げた」という感覚まで削っていく。

現代人は、疲労している。しかし、その疲労が何にも接続されていない。

だから深夜のジムで、人はわざわざ汗を流す。そこでは努力が、まだ身体に残っているからだ。筋肉痛だけが、「今日は確かに何かをした」という感覚を与えてくれる。

労働でいい汗をかける時代は終わった。

だが本当に終わったのは、労働そのものではない。人間が労働を通じて、自分の存在を確かめられた時代なのだ。

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