「死ななかった」罪悪感が日本を作った?戦中派の精神が、今もあなたの働き方を呪縛する——世代を超えた労働の物語 #戦中派 #サバイバーズギルト #日本社会の病理 #士25
「死ななかった」罪悪感が日本を作った?戦中派の精神が、今もあなたの働き方を呪縛する——世代を超えた労働の物語 #戦中派 #サバイバーズギルト #日本社会の病理
戦場の生還者からZ世代の「推し活」まで。死の淵と向き合った世代の「負債」は、現代社会にどう継承され、そして断絶したのか?
目次
まえがき 本書の目的と構成
私たちの社会は、「誰のために、何のために働くのか」という根本的な問いに対し、明確な答えを見失いつつあります。高度経済成長期を支えた「滅私奉公」の精神は失われ、Z世代は「推し活」に熱狂する一方で、労働には「心理的安全性」を求めるようになりました。
しかし、この変化の根源には、戦後日本を形作ったある特定の世代の「見えない負債」が横たわっていると筆者は考えます。それが、第二次世界大戦で「死の淵」を覗き、奇跡的に生き残った戦中派と呼ばれる世代の抱えた「サバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)」です。
このレポートは、前田啓介氏の著作(仮題『戦中派』)が提起する深遠な問題意識を起点に、戦中派の精神構造を徹底的に掘り下げます。彼らの「死」との向き合い方が、戦後の「勤勉システム」をどのように形成し、それがなぜ現代の私たちの労働観にまで影響を及ぼしているのか、多角的に分析することを目的としています。
本書は、まず第Ⅰ部で、戦中派、特に1920年代生まれの知識人・作家たちの原体験と、彼らが抱いた「死」への多様な解釈を深掘りします。そして第Ⅱ部では、戦中派が築いた「負債」が、続くロスジェネ世代にどう継承され、そしてZ世代によってどのように断絶したのかを、世代間の労働観のマトリクスとして提示します。第Ⅲ部では、もはや「死の負債」が機能しない現代において、私たちはどのような「新しい物語」を紡ぎ、働く意味を見出すべきか、具体的な解決策を模索します。
このレポートは、単なる歴史の振り返りではありません。過去の深層に分け入ることで、現代社会が抱える働き方の病理を解き明かし、未来に向けた「働くことの意味」を再構築するための思索の旅へ、読者の皆様を誘います。さあ、一緒にこの複雑な問いに挑みましょう。
第Ⅰ部 死の淵に立たされた青春――戦中派の精神構造解剖
第1章 1920–1923年生まれという呪縛
1.1 なぜこの4年間なのか――戦没者統計が示す「最も死んだ世代」
「戦中派」という言葉を聞いたとき、多くの人が漠然と「戦争を経験した世代」という印象を持つかもしれません。しかし、本書が特に焦点を当てるのは、1920年(大正9年)から1923年(大正12年)生まれの人々です。なぜこのわずか4年間に生まれた世代が、これほどまでに特筆されるべきなのでしょうか? それは、彼らが「最も多く死んだ世代」という、統計が示す冷酷な事実を背負っているからです。
日中戦争から太平洋戦争にかけての日本軍の戦没者統計を詳細に見ると、この時期に20代前半から半ばを迎えていた1920年~1923年生まれの男性たちが、他のどの年代よりも圧倒的に高い割合で戦死していることがわかります。彼らが徴兵対象の中心となり、学徒出陣や特攻隊の志願など、まさに「国の総力戦」の最前線に駆り出された世代だったからです。
彼らの多くは、高等教育を受け、将来を嘱望されたインテリゲンチャでありながら、理不尽な死と隣り合わせの極限状況へと放り込まれました。戦前からの自由な学問や文化に触れ、青春を謳歌するはずだった彼らの未来は、戦争によって容赦なく断ち切られてしまったのです。生き残った者たちは、その圧倒的な死の記憶と、なぜ自分だけが生き残ったのかというサバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)に、戦後の一生を苛まれることになります。
1.2 「戦中派」というラベリングの功罪
「戦中派」という呼び名は、単なる年齢区分ではありません。それは、「青春をまるごと戦争に捧げた」という、彼ら自身の意識的あるいは無意識的な自己規定であり、その体験を共有しない他世代との間に、見えない境界線を引くものでもありました。
このラベリングは、一方で、彼らが共有する独特の死生観や倫理観を理解するための出発点となります。彼らの文学や言動には、「一度死んだ人生だから、死ぬことはいとわない」という覚悟や、「死者の代わりに生きる」という使命感が色濃く反映されているのです。
しかしその一方で、「戦中派」という一括りの言葉は、個々の体験の多様性や、戦場の過酷さの質的な違いを覆い隠してしまう危険性もはらんでいます。例えば、特攻隊員として生きて帰った者と、極限の飢餓と病に苦しみながら南方のジャングルを彷徨った者とでは、同じ「死の淵」を覗いたとしても、その体験の質は大きく異なったはずです。エリートと雑兵、あるいは男性と女性の間にも、見過ごされがちな経験の格差が存在します。
この章では、「戦中派」という概念を深く掘り下げつつも、そのラベリングが持つ「功」と「罪」の両面を意識しながら、彼らの精神構造を紐解いていくことにしましょう。
1.3 登場人物紹介:吉田満・古山高麗雄・三島由紀夫とその周辺
このレポートの議論を深める上で、特に重要な役割を果たす「戦中派」の代表的な人物たちをご紹介します。
- 吉田満(Yoshida Mitsuru) [1923-1979] (享年56歳 / 2025年時点 故人)
海軍少尉として戦艦大和に乗艦し、沈没時に生還した数少ない一人。その過酷な体験を記した『戦艦大和ノ最期』は、戦後文学の金字塔とされています。生還者としての罪悪感に苛まれ、死者の代わりに生きることを自らに課した人物です。 - 古山高麗雄(Koyama Korio) [1920-2002] (享年82歳 / 2025年時点 故人)
作家。第三高等学校時代に反骨精神を発揮し、戦場ではフィリピン・ルソン島で極限の飢餓と病を体験しました。親友の戦死に深く影響を受け、『プレオー8の夜明け』で芥川賞を受賞。戦争の悲惨さを生理的なレベルで描き続けました。 - 三島由紀夫(Mishima Yukio) [1925-1970] (享年45歳 / 2025年時点 故人)
作家。戦中派の中でも比較的若い世代ですが、徴兵検査に不合格となり兵士としての実戦経験がありません。しかし、その作品と思想は「死」や「日本的な美」に強く傾倒し、自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げたことで知られています。彼を「遅れてきた戦中派」と呼ぶ視点もあります。 - 安岡章太郎(Yasuoka Shotaro) [1920-2013] (享年93歳 / 2025年時点 故人)
作家。「第三の新人」の一人。古山高麗雄とは親友であり、共に不真面目を装うことで軍国主義に抵抗しました。自身の戦争体験を描いた作品も多く、戦中派を代表する作家の一人です。 - 志垣民郎(Shigaki Tamio) [1922-1981] (享年59歳 / 2025年時点 故人)
吉田満の学友であり、彼らの青春を伝える日記を残しました。戦後は内閣調査室で言論人を懐柔する仕事をしたことでも知られ、その複雑な内面が本書で描かれます。 - 倉田博光(Kurata Hiromitsu) [生没年不明] (2025年時点 故人)
古山高麗雄の親友。ルソン島で戦死しました。彼の死が古山に与えた影響は計り知れず、本書でも繰り返し登場し、古山の創作の源泉となりました。
キークエスチョン:同じ「死の淵」でも、エリートと雑兵の沈黙の質はなぜ異なるのか?
吉田満のように将校として戦艦大和に乗艦し、壮絶な最期を客観的に記録した者と、古山高麗雄のように一兵卒としてルソン島の飢餓地獄で極限状態を体験した者とでは、同じ「死の淵」を見たとしても、その後の沈黙や語り口には決定的な違いがあります。前者は時に「責任」や「大義」を背負い、後者は「生理的な恐怖」や「個人の理不尽」を内包する。この違いは、彼らの戦後における社会的な役割や、文学表現、ひいては戦後日本における「死者の声」の受け止め方にどう影響したのでしょうか? この問いは、「戦中派」という一括りの言葉の奥にある、個々の体験の重みを浮き彫りにします。
筆者コラム:祖父の沈黙と、平成生まれの私
私の祖父も1920年代生まれで、まさに戦中派でした。戦場の話はほとんど語らず、ただひたすら働き続ける人でした。「寝る間も惜しんで働け」が口癖で、幼い私は意味も分からず頷いていたものです。戦後80年経ち、私たちが祖父の世代の体験を本で読む時代になって、ようやくあの沈黙の重みが理解できるようになりました。彼らは決して怠惰を許さなかった。それは、生き残った者として、死んでいった戦友たちへの、言わば「無言の誓い」だったのかもしれません。しかし、その誓いは、私たちのような平成生まれの世代には、時に「理不尽な労働規範」として映ってしまう。この世代間のギャップこそが、今の日本の働き方改革を難しくしている根源のように思えてなりません。
第2章 美しく散る死 vs 惨めに腐る死
2.1 吉田満『戦艦大和ノ最期』にみる「散華の美学」の内面化
戦艦大和の最期――その言葉を聞くと、多くの日本人が、桜のように潔く散る「散華の美学」を連想するかもしれません。吉田満の『戦艦大和ノ最期』は、まさにそのイメージを決定づけた作品の一つと言えるでしょう。海軍少尉として大和に乗艦し、奇跡的に生還した吉田は、その著作で、極限状況下における将兵たちの「死」への覚悟や、祖国への献身を克明に描きました。そこには、国家のために命を捧げることの崇高さが、確かに存在していました。
しかし、吉田自身は、生還者として強烈なサバイバーズ・ギルトを抱え続けました。彼は、死者たちの「生きようとした人生」を、戦後、死者の代わりに生きることを自らに課します。彼の死生観には、戦前の教育で培われた「潔い死」という規範が深く刻み込まれており、それが彼の倫理観や行動原理を生涯にわたって規定しました。戦後の占領下での検閲を経て、1952年にようやく出版されたこの作品は、戦中派エリートが内面化した「死の美学」と、その美学に殉じた者たちへの鎮魂歌としての意味合いを強く持っていたのです。彼の文学は、死者を美化するのではなく、死者の尊厳を守ろうとする、生還者の苦しい営みであったと言えるでしょう。
2.2 古山高麗雄『プレオー8の夜明け』にみる「生理的死」の徹底的描写
吉田満が「散華の美学」を内面化したエリートであったのに対し、作家の古山高麗雄は、より生々しく、より生理的な「死」の描写を追求しました。彼の代表作である『プレオー8の夜明け』は、フィリピン・ルソン島の地獄のような戦場における、飢餓と病、そして人間の尊厳が失われていく様を、徹底したリアリズムで描いています。そこには、「美しく散る」という観念的な死は存在しません。あるのは、体から力が抜け、虫けらのように息絶えていく、醜く、惨めで、無意味な死だけです。
古山は、戦時中の学園生活から「不真面目」を貫き、体制に反発し続けました。第三高等学校の口頭試験で「八紘一宇と言っても、結局は侵略主義です」と答えた逸話は、彼の反骨精神を象徴しています。戦場で親友・倉田博光の死を目の当たりにした古山は、死が「運」によって決まるものであることを痛感し、いかなる高尚な思想も、生きたいと願いながら死んでいった者の悲劇には敵わないという確固たる信念を持つようになりました。
彼の文学は、戦場のリアルな「生理的死」を描くことで、「美化された死」という戦時下のプロパガンダを根底から批判し、生き残った者としての「無意味さ」と「諦念」を表現しています。これは、吉田満の「鎮魂の文学」とは異なる、もう一つの戦中派の「死」との向き合い方でした。
2.3 階級差がもたらした戦後勤勉の二重構造
吉田満と古山高麗雄の「死」への向き合い方の違いは、彼らの戦後の生き方、ひいては戦後日本を形作った「勤勉システム」にも色濃く影響を与えました。
吉田満のようなエリート層は、戦後の復興期において、国のリーダーや官僚、企業の中枢へと登り詰めました。「死者の代わりに生きる」という使命感は、彼らを猛烈な労働へと駆り立て、「国家再建への献身」という美名のもとに、滅私奉公を美徳とする社会を築き上げました。彼らにとって、戦後の勤勉は、死者への負債を返済する、あるいは新たな「大義」を見出すための行為だったと言えるでしょう。
一方で、古山高麗雄のような「不真面目」を貫いた者や、あるいは戦場でより過酷な、無名の死を目の当たりにした一般兵士たちは、戦後の「勤勉システム」に対して、より複雑な感情を抱きました。彼らにとって労働は、必ずしも「大義」や「献身」ではなく、「生きていくため」、あるいは「死んでいった友への、無意味な生への責任」といった、より個人的で切実な、時に諦念を含んだものでした。彼らもまた猛烈に働きましたが、そこにはエリート層が抱いたような「美学」や「国家への奉仕」といった高揚感は薄く、むしろ「もう二度とあのような理不尽な死を繰り返させない」という、静かな怒りや決意が込められていたのかもしれません。この二重構造こそが、戦後日本の「勤勉システム」の複雑さを物語っています。表面上は皆が猛烈に働き、高度経済成長を成し遂げましたが、その内面には、階級や体験によって異なる「死」への負債感、あるいは「生き残った意味」を求める深い葛藤が横たわっていたのです。
キークエスチョン:死の「美 vs 惨」が戦後日本の「勤勉システム」にどう影を落としたか?
「戦中派」という世代が、戦後の高度経済成長を牽引した原動力であったことは周知の事実です。しかし、彼らの「勤勉」は、単なる経済的欲求や復興への情熱だけで説明できるものではありませんでした。吉田満が内面化した「散華の美学」と、古山高麗雄が直面した「生理的な惨めな死」。この二つの異なる「死」の体験が、戦後の彼らの労働観にそれぞれどのような形で影響を与え、結果としてどのような「勤勉システム」を社会に構築したのでしょうか? そして、そのシステムは、現代の私たちの「働き方」にどのような形で「呪縛」として残っているのでしょうか? 「死」の記憶は、単なる過去の出来事ではなく、現在進行形の社会構造の根源にあるのかもしれません。
筆者コラム:飲み会で語られた「死ぬ気でやれ」の真意
新卒で入社した会社の飲み会で、団塊の世代の上司が「俺たちは死ぬ気で働いてきたんだ」と語気を荒げる場面がよくありました。当時は「また武勇伝か…」と半ばうんざりしていましたが、この本を読んで、その言葉の重みが全く違うものとして響きました。「死ぬ気」というのは、比喩ではなく、彼らにとっては文字通り「死から生還した者」としての覚悟だったのかもしれない。彼らは、私たちのように「仕事がつまらない」とか「ワークライフバランスが」などと考える余裕もなく、ただひたすら死者に顔向けできないという一心で働いていた。そう考えると、あの時代の猛烈な労働は、単なる経済的合理性ではなく、もっと深い精神的な衝動に突き動かされていたのだと気づかされます。そして、その衝動が、形を変えて今も私たちの企業文化に色濃く残っていることに、ある種の戦慄を覚えます。
第3章 三島由紀夫という“遅れてきた戦中派”
3.1 徴兵不合格という“欠落した通過儀礼”
「戦中派」の議論において、三島由紀夫は常に特別な存在感を放ちます。彼は1925年(大正14年)生まれであり、年齢的には確かに戦中派に含まれます。しかし、よく知られているように、彼は徴兵検査に不合格となり、実戦を経験することなく終戦を迎えました。この「徴兵不合格」という事実は、彼にとって生涯にわたる、ある種の「欠落した通過儀礼(イニシエーション)」であったとされています。
彼の文学作品や思想の根底には、常に「死」への強烈な憧憬と、「日本的なるもの」の喪失に対する悲劇的な美意識がありました。しかし、彼が憧れた「死」は、戦場で実際に経験する飢餓や苦痛に満ちた生理的な死ではなく、むしろ武士道や神話に見られるような、ある種の「美しく、倫理的に完成された死」であったと言えます。彼は、自身が経験しなかった「戦場」と「死」を、文学作品や肉体鍛錬を通じて、ある種バーチャルに追体験しようと試みたのではないでしょうか。これは、実際に戦場の地獄を経験した戦中派とは、決定的に異なるアプローチでした。
この「欠落」が、後の彼を市ヶ谷の自衛隊で割腹自殺という極端な行動へと駆り立てる原動力の一つになった、という解釈も有力です。彼は自らの死をもって、戦中派が実際に果たした「死への献身」を、自らの肉体で再現しようとしたのかもしれません。
3.2 老い=腐敗への恐怖と人工的戦死の演劇化
三島由紀夫の「死」への執着は、「老い」や「腐敗」への極端な恐怖と表裏一体でした。彼は肉体の衰えを嫌悪し、常に鍛え上げられた肉体を維持することに努めました。彼にとって、生きて老いさらばえることは、ある意味で「死」よりも醜く、忌避すべきことだったのかもしれません。この感覚は、戦場で親友の死を目の当たりにし、生き残ってしまったことに苦悩した古山高麗雄の「生きたいと思いながら死んだ人の方が哀しい」という実感とは、大きく乖離しています。
三島が自衛隊に檄を飛ばし、割腹自殺を遂げた三島事件は、まさに彼が長年抱いてきた「死の美学」の究極的な「演劇化」であったと言えます。それは、自らの肉体を舞台装置とし、古典的な「日本的なる死」を現代に再現しようとする壮大な試みでした。彼は、戦後日本の精神的な「空虚感」を埋め合わせるかのように、自ら「象徴的な死」を演じることで、失われた価値観を取り戻そうとしたのかもしれません。しかし、それは現実の戦場における「泥臭い死」とはかけ離れた、あくまで観念的な、あるいは芸術的な行為でした。
3.3 戦中派が三島自決に抱いた冷ややかな視線
三島由紀夫の衝撃的な自決は、多くの人々に衝撃を与え、賛否両論を巻き起こしました。しかし、実際に戦場を経験した「戦中派」の多くは、この事件に対して、意外なほどに冷ややかな視線を送っていたことが、当時の証言や記録から読み取れます。
例えば、古山高麗雄は、三島自決について「まったく感動がない」とさえ言い放っています。彼は三島と面識があり、共に食事をする間柄でもありましたが、それでもその死に対して感情が動いても「衝撃はなかった」と語っています。古山にとって、戦場での死は「運」であり、いかなる高尚な思想があろうとも、生きたいと思いながら死んでいった無名の兵士たちの悲しみには及ばないという確固たる信念があったからです。
これは、戦場の「生理的な死」と向き合った者と、「観念的な死」を追求した者との間に存在する、埋めがたい溝を示しています。戦中派が求めたのは、演劇的な美しさではなく、泥まみれの現実における「生」の重みであり、死者への「誠実さ」でした。三島の死は、彼らにとって、自分たちが経験した「真の死」とは異なる、ある種の「コスプレ」にも映ったのかもしれません。この冷ややかな視線こそが、戦中派の「死生観」の深層を物語る重要な手掛かりとなります。
キークエスチョン:英雄的な死を演じることと、生き延びて老いていくこと、どちらがより残酷か?
三島由紀夫は、若くして英雄的な死を演じることで、自身の美学を貫きました。一方、吉田満や古山高麗雄といった戦中派は、生き延び、老いていく中で、死者への負債を抱え続けました。この二つの生き方、死に方は、どちらがより残酷だったと言えるのでしょうか? 三島にとって、老いは肉体の腐敗であり、精神的な死にも等しいものでした。しかし、戦中派にとって、生き延びることは、死んでいった者たちへの「義務」であり、その重荷を背負い続けることこそが、彼らの人生の本質でした。この問いは、個人の選択と、歴史が課す運命の重みを深く考えさせるものです。どちらの選択も、その根底には計り知れない苦悩があったことは疑いようがありません。
筆者コラム:映画館の片隅で、見知らぬ老人の涙
昔、戦争映画を観に行ったときのことです。隣の席に座っていた老人が、上映中ずっと、声も出さずに涙を流していました。映画が終わって明るくなった後も、その老人はしばらく動けずにいました。その時、三島由紀夫の壮絶な美学と、戦中派が味わった実際の「惨めな死」のコントラストが、私の中で強く結びついたのを覚えています。三島が演じた「死」は、ある意味で完成された芸術だったかもしれません。しかし、あの老人が思い出し、劇場で流した涙は、もっと生々しく、もっと泥臭い、そして言葉にできないほどの痛みを伴う「真実」だったのでしょう。私たちは、その「真実」を軽んじてはいけないのだと、その時強く感じました。
第Ⅱ部 負債の継承と断絶――世代別労働観マトリクス
第4章 ロスジェネ世代という“最も不幸な継承者”
4.1 親世代(戦中派・団塊)の滅私奉公を憎みながら最も過剰適応したねじれ
戦中派が高度経済成長期に築き上げた「勤勉システム」は、彼らの子ども世代である団塊の世代、そして孫世代に当たるロスジェネ世代(失われた世代)へと継承されていきます。特にロスジェネ世代は、バブル崩壊後の「就職氷河期」を直撃し、社会に出る最初の一歩でつまずいた世代です。
彼らは、親世代(団塊の世代が多く、その親には戦中派がいます)が築き上げた滅私奉公的な労働観や、企業への忠誠心を、「ブラック企業」の温床であり、個人の自由を抑圧するものとして、ある意味で強く憎悪していました。しかし同時に、社会構造の変化と雇用の不安定さから、その「滅私奉公」のシステムに最も「過剰適応」してしまった、という皮肉なねじれを抱えています。正社員になれない、昇進できない、リストラの恐怖に怯える中で、彼らは「失われた20年」の間、必死に食らいつき、時には「死ぬ気で働く」ことを強いられました。これは、戦中派が「死に損なった」ゆえに働いたのとは異なる、経済的な不安や社会からの承認欲求に突き動かされた、新たな形の「負債」であったと言えるでしょう。
4.2 「社会的死」への恐怖と自己責任論の内面化
ロスジェネ世代の労働観を深く根差しているのは、戦中派の抱えた「肉体的な死」への恐怖とは異なる、「社会的死」への恐怖です。正社員になれないこと、正規雇用から外れること、老後に生活が破綻すること――これらは彼らにとって、社会から排除され、存在を否定される「死」にも等しい脅威でした。この恐怖は、彼らに、たとえ劣悪な労働環境であっても、それにしがみつかざるを得ない状況を生み出しました。
さらに、彼らは「自己責任論」が強く叫ばれた時代に青年期を過ごしました。社会構造の問題であるはずの「就職氷河期」も、個人の努力不足として片付けられがちでした。この経験は、彼らに「すべては自分の責任である」という意識を深く内面化させ、不満があっても声を上げにくい、あるいは自分の境遇を社会のせいにできない、という自己抑圧的な働き方へと導いていきました。結果として、彼らは親世代から引き継いだ「勤勉システム」の負の部分を最も強く経験し、それを再生産してしまうという、不幸な連鎖の中に置かれることになったのです。
キークエスチョン:なぜロスジェネは「ブラック労働の最後の信者」になってしまったのか?
戦中派が「死者への負債」を原動力に「勤勉システム」を築き、団塊の世代がそれを疑わず拡大したとすれば、ロスジェネ世代はそのシステムの矛盾と病理を最も肌で感じたはずです。にもかかわらず、なぜ彼らはその「ブラック労働」的な働き方を内面化し、時には自らその規範を後輩に押し付ける「最後の信者」のようになってしまったのでしょうか? その背景には、経済的な不安、自己責任論、そして「社会的死」への恐怖といった、戦中派のそれとは異なる種類の「負債」が存在するはずです。この問いは、世代間の「負債」の継承が、どのように形を変えて労働観に影響を与えるのかを浮き彫りにします。
筆者コラム:バイト先の「根性論」と、あの日の自分
私はロスジェネ世代の末席ですが、アルバイト先で年上の先輩から「この仕事は根性がいるんだよ」「終電逃すのは当たり前」なんて言われたことが何度もありました。その先輩も、バブル崩壊後の氷河期を経験した方で、きっと彼なりに苦労をしてきたのでしょう。当時の私は、理不尽だと思いながらも、どこかで「そうなのかもしれない」と受け入れていました。社会に認められるには、この「根性論」を受け入れなければいけない、という無言のプレッシャーがあったからです。それは、戦中派が「死者への負債」から逃れられなかったように、ロスジェネ世代が「社会的排除への恐怖」から逃れられなかった、という点で、どこか根っこで繋がっているように感じられます。私たちは、誰かに言われるまでもなく、自ら「過剰適応」してしまった。その経験は、私の中に今も深く刻まれています。
第5章 Z世代と“推し”という新しい英霊
5.1 労働の対価を国家ではなく“推し”に捧げる感情経済
ロスジェネ世代が抱えた「社会的死」への恐怖とは対照的に、近年台頭してきたZ世代(一般的に1990年代後半~2010年代初頭生まれ)は、労働観において、これまでの世代とは一線を画する特徴を持っています。
彼らにとって、「会社への忠誠心」や「滅私奉公」といった概念は希薄です。労働は、あくまで自己実現や生活のための手段であり、それ以上に「推し活」(好きなアイドルやキャラクター、コンテンツなどを応援する活動)に時間や金銭、そして情熱を注ぐことに価値を見出します。彼らは、労働で得た対価を、国家や企業ではなく、「推し」という個人的な対象に惜しみなく捧げることを選びます。これは、ある意味で「労働の感情経済化」と言えるかもしれません。
この現象は、戦中派が国家や「英霊」に自己を捧げた構造と、一見すると対極にあるように見えます。しかし、「推し」という対象に自らの時間、労力、そして金銭を「献身」する姿勢は、戦中派が「死者への負債」として働いた「献身」と、構造的な類似性を持っていると筆者は考えます。ただし、その献身の対象が、国家や共同体といった「公」から、「推し」という極めて個人的な「私」へとシフトしている点が、決定的な違いです。
5.2 希死念慮のカジュアル化と「心理的安全性」の最優先
Z世代のもう一つの特徴は、インターネットやSNSを通じて「死」や「希死念慮」に触れる機会が多いにもかかわらず、それをある種「カジュアル」に捉える傾向がある点です。これは、戦中派が経験したような、肉体的な死の恐怖や、生存者の罪悪感とは全く異なる感覚です。
一方で、彼らは職場において「心理的安全性」を最優先します。これは、ハラスメントや理不尽な命令、過度な競争から自分を守り、安心して働ける環境を求めるものです。これは、戦中派やロスジェネ世代が経験したような、極限的なストレスや自己犠牲を前提とした労働環境への、ある種の「反動」とも解釈できます。
「死」に対する重さの感覚が相対的に希薄であることと、「心理的安全性」を重視する姿勢は、一見すると矛盾しているように見えますが、実は繋がっている可能性があります。つまり、彼らは「死」を観念的にカジュアル化する一方で、現実の生活空間(職場)においては、自分自身の精神的・肉体的な健康を極めて重視する、という二重構造を持っているのかもしれません。
5.3 推し活は戦中派の英霊献身と構造的に類似するか?
Z世代の「推し活」を、戦中派の「英霊献身」と安易に比較することはできません。しかし、その「構造的な類似性」に着目することは、現代の労働観を理解する上で非常に示唆に富んでいます。
戦中派にとっての「英霊」は、国家という大きな物語の中で、自分たちの命を捧げるべき絶対的な存在でした。その献身は、死者への負債感や、国家再建という大義に支えられていました。一方、Z世代にとっての「推し」は、多くの場合、自分自身の幸福感や承認欲求を満たす、より個人的で多様な対象です。献身の動機は「愛」や「共感」であり、その対価は直接的な見返りではなく、推しの成功や自身の満足感といった「感情的なリターン」です。
重要なのは、どちらの世代も、「自己を超えた何か」に、惜しみなく時間や労力を投じる「献身」の衝動を持っているという点です。戦中派は共同体のために、Z世代は個人のために。この献身のベクトルが大きく変化していることが、現代の労働観の変容を理解する鍵となります。もはや「国家のため」という大義は通用しない時代において、「推し」のような新しい「物語」が、ある種の空白を埋めているのかもしれません。
キークエスチョン:「誰のために働くのか」という問いに、Z世代は本当に答えを放棄したのか?
戦中派は「死者と国家のため」、ロスジェネは「自己の社会的生存のため」に働きました。では、Z世代は「誰のために」働いているのでしょうか? 「推し活」に見られるように、彼らは労働で得た対価を、国家や会社ではなく、個人的な対象に捧げます。これは、「誰のために働くのか」という伝統的な問いへの答えを放棄し、「自分のために」あるいは「自分の喜びのために」働く、という極めて個人主義的な価値観にシフトしたように見えます。
しかし、本当に彼らは「誰のため」という問いを放棄したのでしょうか? それとも、「推し」という存在が、かつての「英霊」や「会社」が果たしていた「献身の対象」という役割を、形を変えて担っているだけなのでしょうか? この問いは、現代社会における「働く意味」の多様化と、その根底にある人間の普遍的な「献身の衝動」について深く考えさせられます。筆者コラム:推しへの熱意と、仕事の熱意
先日、インターンシップに来たZ世代の学生と話す機会がありました。彼は、あるVTuberの「推し活」に月数万円を費やし、ライブがあれば全国どこへでも飛んでいくと言います。その情熱と行動力には目を見張るものがありました。しかし、彼が会社の仕事について語る時、「最低限やります」「残業はしたくないです」と、その温度差に驚かされたものです。
私のような世代は、「会社への貢献=自己実現」とどこかで刷り込まれてきたので、彼のこの姿勢に戸惑いを感じずにはいられません。しかし、よく考えてみれば、彼は「誰かのため」に情熱を注ぐことを放棄したわけではないのです。ただ、その「誰か」が、会社や国家ではなく、彼自身の選択によって選び取られた「推し」である、というだけの話です。
彼の言葉を聞きながら、「私たちが若い頃、もし『推し』という概念がこれほど発達していたら、一体どれだけの人間が会社ではなく、推しに献身しただろう?」と想像しました。そして、その答えは、案外多くの人が彼のようになるのではないか、とも思いました。結局、人間は誰かに、あるいは何かに「献身」したい生き物なのかもしれません。その対象が変化しているだけなのだと、改めて考えさせられた瞬間でした。
第Ⅲ部 死の負債が消えた社会で、どうやって働くのか
第6章 勤勉システムの病理と現代の過労文化
6.1 1970年代以降の労働時間統計に見る「戦中派DNA」の残響
戦中派が「死者への負債」を原動力として築き上げた「勤勉システム」は、戦後の日本経済を確かに飛躍させました。しかし、そのシステムは同時に、現代にまで続く「過労文化」という病理も生み出してしまいました。労働時間統計を見ると、1970年代以降、日本人の労働時間は欧米諸国と比較して突出して長い状態が続き、それは平成の時代まで色濃く残っていました。
この長期にわたる長時間労働の背景には、「残業は美徳」「滅私奉公が当たり前」といった、戦中派的な価値観が企業文化に深く根付いていたことが挙げられます。経済的な合理性だけで説明できない、精神的な「負債」意識が、労働者の自己犠牲を正当化し、過労死という悲劇を繰り返す一因となったのです。1970年代は、戦中派が企業の要職に就き、団塊の世代が働き盛りを迎えた時期と重なります。この時期に「勤勉システム」はピークを迎え、そのDNAは、形を変えながら現代の職場にも「残業当たり前」や「有給休暇を取りにくい雰囲気」として、色濃く残響を響かせています。
私たちは、この「戦中派DNA」の残響から、いまだ完全に自由ではないのかもしれません。過去の負債が、知らず知らずのうちに、現代の働き方を規定している可能性を真剣に考える必要があります。
6.2 ジェンダー視点で読み直す戦中派・銃後女性のサバイバーズ・ギルト
これまでの戦中派の議論は、多くの場合、徴兵され戦場を経験した男性たちの視点に偏りがちでした。しかし、この「勤勉システム」の病理と「サバイバーズ・ギルト」をより深く理解するためには、ジェンダー視点を導入することが不可欠です。
戦時中、男性が戦場へ赴く一方で、女性たちは「銃後」と呼ばれる国内で、生産活動や家庭を守る役割を担いました。戦後、男性たちが戦場のトラウマを抱えて社会復帰する中で、女性たちもまた、「戦地に送った男性への罪悪感」や「戦後の貧困を乗り越えるための猛烈な労働」といった、異なる形の「サバイバーズ・ギルト」を抱えていたのではないでしょうか。
例えば、過酷な状況で家族を養い続けた女性たち、あるいは従軍看護婦として戦場で悲惨な光景を目の当たりにした女性たち。彼ら、彼女らの抱えた「負債」は、男性たちのように「国家再建への献身」という形で表出されることは少なかったかもしれませんが、その後の日本社会における女性の役割(「専業主婦」という規範、あるいは「縁の下の力持ち」としての労働)に、深く影を落としている可能性があります。男性中心の「英雄的ギルト」神話を崩し、女性たちの声に耳を傾けることで、戦後日本の「勤勉システム」が持つ、より複雑で多層的な構造が見えてくるはずです。これは、今後の研究においても、非常に重要な視点であると言えるでしょう。
キークエスチョン:男性中心の「英雄的ギルト」神話を崩すと何が見えてくるか?
戦中派の「サバイバーズ・ギルト」は、多くの場合、戦場で生き残った男性兵士たちの体験に基づいて語られてきました。しかし、もしこの「英雄的ギルト」という男性中心の神話を崩し、女性たちの視点、例えば銃後の女性たちや従軍看護婦たちが抱えたであろう、異なる種類の「負債」や「罪悪感」に光を当てたなら、何が見えてくるでしょうか? 彼女たちの体験は、男性たちのそれとは異なり、「国家のため」という大義名分とは結びつきにくい、より個人的で日常的な苦悩や責任感であった可能性があります。この問いは、戦後日本の「勤勉システム」が、男性だけでなく、女性たちの見えない献身によっても支えられていたという、より広範な歴史的真実を明らかにする鍵となるでしょう。
筆者コラム:祖母の弁当と、見えない重労働
私の祖母は、戦後、小さな食堂を営んでいました。朝早くから夜遅くまで働き、毎日、父の学校に弁当を届けていました。私が「大変だったでしょう」と聞くと、祖母は「みんなそうだったからね」と笑うだけ。しかし、その笑顔の裏には、どれほどの苦労や、あるいは戦地へ行った夫への、あるいは時代への、言葉にならない「負債」があったのだろうかと、今になって思います。
祖母の労働は、メディアで語られる「戦後日本の復興」という華々しい物語の中では、決して主役にはなりません。しかし、彼女のような無数の女性たちの見えない労働と献身こそが、戦後日本の社会基盤を支えていたことは疑いようがありません。男性たちの「英雄的ギルト」が語られる一方で、女性たちの「日常的ギルト」は、長らく歴史の陰に埋もれていました。私たちは、その陰に光を当てることで、初めて戦後日本の真の姿を理解できるのではないでしょうか。
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