卒論 ビットコインを擁護し、未来の貨幣を想像する 8 古典派の経済体制

2 古典派の経済体制

前章で、貨幣経済は貨幣の価値を安定化しなければ、市場の失敗を起こしてしまうことがわかった。ここで貨幣論・価値論を考えなおし。効率的市場を成り立たせるためになにが必要か考える。

 この章では、古典派の貨幣論及び価値論を紹介する。はじめに古典派の貨幣論を説明する。次に古典派の価値説である労働価値説を説明する。
 「貨幣とはなにか?」この問はあまりにも基本的すぎるあまり論じられることは少ないかもしれない。もちろん経済学でも貨幣の3機能や信用創造、貨幣数量説など間接的に貨幣に触れることはある。

 ここで経済学の父であるアダム・スミスの『諸国民の富』を紐解くとまさに「通貨の期限と利用」という章がある。スミスはこの章で酒屋とパン屋を引き合いに出し、それぞれ分業状態にあり自分の生産物以外の商品を得たいとき、「賢明な人はみな自分の生産財以外に、他人が各自の生産物と交換するのを断らないと思える商品をある程度持っておくだろう。この目的には様々な商品が使われてきた。家畜や塩、貝殻などである。しかしどの国でもやがて金属が選ばれる様になった。それは腐敗しないので保存によって摩耗しない、分割しても価値が下がらず、また溶解して一つにまとめることができるからである。」(アダム・スミス『諸国民の富』pp.135-136)⁴

 この教科書的な説明を続けると。いわくこの金属交換経済の金属を古代帝国が度量衡として量とその価値の定める、そのコインには神や皇帝の名や肖像が刻まれた。これが法定通貨の奔りだ。その金属兌換紙幣によって置き換え(銀行券)、やがて金属とのつながりを断った法と信用に基づく紙幣に、そして銀行券は帳簿決済→電子決済へ。
 この議論はあくまで商品のやりとりを仲介するとき取引コストを下げるためという見方だ。そうだとすると貨幣自体には価値がなく、その商品の価値を表示しているだけなので取引されたものに価値あるという認識になる。これを貨幣の中立性という。貨幣が中立的だからこそ人々は社会の分業化や産業の効率化を進めることができるのだ。

 ここで古典派の価値論にも触れる。古典派の価値論は労働価値説だ。労働価値説では、その生産物の価値が生産のために投下された労働量によって決まるとする説である。古典派は分業によって人々が効率的な生産をおこない、その生産物を交換することで社会全体の富が最大化すると考えた。

 効用価値説が消費者側の視点に立っているとすると労働価値説は生産者側に立っているといえるだろう。新古典派は効用価値説を前提としてきた。現在、労働価値説は経済学史のなかでかつて唱えられていたものとして認識されている。

 かくしてこの両説が統合されることはなかった。もし統合されるならばそれは、「労働量=効用量」となる。私はこれがゲーム理論における、完全情報ゲームだと考える。完全情報ゲームとは、ゲームに参加する全てのプレイヤーがそのゲームに関する情報を余すことなく知っていることである。完全情報ゲームは効率的市場仮説の前提である。しかし現実の経済は完全情報ゲームでない。情報は不完全、つまりゲームプレイヤーがそのゲームに関する全ての情報を得ておらず、偏りがある。それは売り手と買い手の間では非対称性でありレモン市場である。

 レモン市場とは、売り手は取引する財の品質をよく知っているが、買い手は財を購入するまでその財の品質を知ることはできない。ここに情報の非対称性が存在する。そのため、売り手は買い手の無知につけ込んで、悪質な財を良質な財と称して販売する危険性が発生するため、買い手は良質な財を購入したがらなくなり、結果的に市場に出回る財は悪質な財ばかりになってしまうのだ。このように情報が不完全な経済では誰もが酸っぱい思いをすることになる。誰もが酸っぱい思いをしないためには市場は完全情報ゲームであることが求められる。効率的市場は完全情報ゲームでなければならない。

 古典派の経済分析はその基礎に物々交換経済を前提としてきた。ここで実際歴史的に物々交換経済があったか否かは問題ではない。古典派の理想に先立って物々交換経済が想像されたということである。では物々交換経済と貨幣経済とは一体何が違うか?

 物々交換経済と貨幣経済の最も大きな違いは、生産と消費の分離にある。どういうことか、物々交換経済では生産と消費は直結されていた。生産者は生産物を市場に持って行き、すぐさま他の生産物、つまり商品に交換された。市場参加者は自身の欲望を誰より自分が知っておりそのために生産をしている。この状態がすなわち「労働=効用」状態なのだ。貨幣経済では生産物の売り手は、商品ではなく貨幣を得る。売り手は物を売ったからといってすぐさま他の商品を買い求めなければならないことにはならない。つまり貨幣経済下では貨幣が媒介することで、売り手が効用を得るまでに間延びした時間が発生する。この時間的猶予こそが生産と消費を分離する物々交換経済と貨幣経済の最も大きな違いである。前の章で貨幣経済が諸商品の価値を代表する間接資本主義であることを述べた。ここを踏まえて考えると物々交換経済は貨幣という代表者なしに市場を成り立たせる直接資本主義ということができるだろう。

 交換の時間的猶予は「労働=効用」状態を破壊する。貨幣は市場にある商品に対する請求権だ。とどのつまり権力である。権力は自身を周囲よりも優位に見せる。ここで交換のための貨幣、貨幣の中立性が成り立たない。貨幣を手にしたものは商品を消費した際に現れる使用価値よりも交換の時間的猶予、市場に対する請求権として交換価値を重視するようになる。交換価値を重視すると、その貨幣が機能の②価値保存について満たしているか敏感になる。本来交換のためであるのだから、ごく短期に価値保存が成り立っていればよかったものが、あたかも永遠性を長期的に確立しなければならなくなった。そのため希少性に対する欲望が肥大化した。「労働=効用」を成り立たせるには、ここから交換価値を引き。「労働量=効用(使用価値)」とならなければならない。しかし実際は交換価値が大きく介入している。このように考えると、交換価値つまり希少性を追い求める人々は自身が権力を手にするためだということがわかる。

 前までに古典派は労働価値説をとり、新古典派は効用価値説を採用していることを述べた。新古典派が労働価値説をとらなかった理由の一つに、労働価値説では投下された労働力が真に社会的なものか一体誰が判断するのか。という問題があった。例えば全く社会に役立たない事業に大量の労働力を投下しても消費者としての価値がないなら無意味ではないか。という批判である。一方効用価値説を取るなら、常に消費者側からの審判を受けるので確かな価値が確認できる。なんせ受容者自身がその価値を見出しているのだから。受容されたものこそ価値がある。このように労働価値説は廃棄されてしまった。労働価値説を復活させることはできるだろうか。

 私は現在の技術で労働が社会的なものか判断できない以上労働価値説を復古することは難しいと考える。しかし労働価値説が不能だからといって効用価値説を無批判に受け入れることもない。私は効用価値説が効率的市場仮説に合致しない点を二点挙げこれを批判する。

 第一点は上で述べた。希少性=交換価値によって、観念として効用が生成できる点である。

 第二点は依存症ビジネスなどから分かる通り、効用価値説に生産の哲学が含まれていないことである。効率的市場は完全情報ゲームである。であるなら価値は「労働価値=使用価値」でなければならない。消費と同時に生産の哲学がなければならない。

 効用価値説に厳密にコミットするならば、ドラッグに対する規制も突破しなければならない。ドラッグの中のドラッグであるヘロインは一度摂取すると3大欲望、食欲、性欲、睡眠欲を押しのけてヘロイン欲の一点に収束するほど大きな快楽にのまれる。効用価値説からはドラッグを規制する道理は出てこない。効用の最大化を目指す合理的な社会であればドラッグは解禁される。にも関わらずどこの現代社会でも規制がなされている。これはドラッグに生産の哲学が埋め込まれていないからだ。依存症ビジネスも希少性と同じように明らかに労働によらない過大な効用を生み出している。労働に基づかない効用は完全情報ゲームに合致しない。また依存症ビジネスは資本主義そのものを破壊しかねない。資本主義は消費者を必要とする。しかし効用価値説に則ると、消費者の再生産が困難に陥ってしまうことがわかる。資本主義が生存するためには、理想として労働価値説の復古が望まれる。

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