卒論 ビットコインを擁護し、未来の貨幣を想像する 7 貨幣における市場の失敗

1 貨幣における市場の失敗

恐慌やハイパーインフレーションがなぜ貨幣的な市場の失敗であるのだろうか?これらの問題は貨幣がその持つ機能を失っているからである。

 まず恐慌においては、貨幣機能①の価値尺度が大きく崩れる。それは貨幣が価値を失うのではなく、むしろ価値を大きく引き上げるのである。価値が大きく引き上げられた貨幣は流通現場から一時的に退出する、すると市場においては貨幣需要が高騰する。これに対抗するためケインズは財政出動などで有効需要の創出を提唱したのだ。貨幣を市場から引き上げればその貨幣の価値も伴って上がるとき、貨幣を引き上げれば引き上げるほど貨幣退蔵者は資産を増すことになる。しかし本来人々に効用をもたらすのは、貨幣ではなく商品なはずだ。であるならば退蔵された貨幣もいずれ放出されることが予想できる。この回答はあまりにも貨幣が死蔵されると③の交換の手段としての機能も失ってしまいその財がうち捨てられる危険性もあるため、貨幣退蔵のチキンレースは突っ切らないことが支配戦略になる、ということが前提となっている。このように考えると事後的にはいずれ恐慌は収束するだろう。

 私が考えたいのは、なぜ始まりに貨幣の退蔵が起こるのかという点で、私はそれが貨幣という商品そのものに効用が内在しているからと考える。
 貨幣とは本来、商品の取引のためにある。と考えられてきた。ここで経済学の父であるアダム・スミスの『諸国民の富』を紐解くとまさに「通貨の期限と利用」という章がある。スミスはこの章で酒屋とパン屋を引き合いに出し、それぞれ分業状態にあり自分の生産物以外の商品を得たいとき、「賢明な人はみな自分の生産財以外に、他人が各自の生産物と交換するのを断らないと思える商品をある程度持っておくだろう。この目的には様々な商品が使われてきた。家畜や塩、貝殻などである。しかしどの国でもやがて金属が選ばれる様になった。それは腐敗しないので保存によって摩耗しない、分割しても価値が下がらず、また溶解して一つにまとめることができるからである。」(アダム・スミス『諸国民の富』pp.135-136)⁴

 しかし、そうではなく貨幣そのもの価値を見出すようになってしまった。それは貨幣が長期的な蓄財を可能にしたからである。
 古代、狩猟採集民や遊牧民などの遊動民の社会では蓄財は不可能だった。そもそも手にする財が少ないしそれは共同体内で平等に分けられた、またヒト一人が所有できる財産に限りがあった。例えば一人羊30頭が限度ならば31頭目は捨てるか贈与するしかなかった。この交換様式に注目すると贈与経済と貨幣経済との間は深い断絶があることがわかる。
 貨幣の開発が要請されたのは人類が定住を始めたころからだろう。定住により農業が可能となると財の蓄積も可能となる、また農耕社会ではより多くの人々を動員することによって開墾・灌漑がおこなわれる。人々を動員するために政治や宗教が始まり法律がより厳密に整備される。この社会でも財産の貯蔵は行われるがあくまで使用可能な範囲に収まっている。されは飢饉のときのためにとっておく、戦争のためにとっておく、という程度のものである。

 定住社会では宗教が発達する。発達した宗教はそれまで無為だと考えられていた時間という概念を変更する。遊動民社会では時間というのは循環するものであった。過去は昨日であれ10年前であれ等距離な過去であり未来に対しては不確定としか言いようがなかった。そもそも遠い未来など考えなかっただろう。常に遊動しているので墓やゴミ捨て場などはなく、そこに穢れが過去の時間の積み重なりとして蓄積されたりはしない。定住社会は定住それ自体が宗教である。新たな宗教の時間軸は蓄積し登りつめるものだ。繰り返すことはない。何もかもが蓄積され拡大し進歩する。定住民にとってその目に映る風景は全て人の手が介入したものである。開墾された農地、治水された河川、道路、建築(住居、墓地、ゴミ捨て場)。それらの背後には我々の綿々と続く先祖の威光が、そしておそらく子孫にも受け継がれるだろう。どんな自然現象、自然災害が起ころうと人類はそれらを受け止め分析した後、やはりそれらもある程度コントロール下に置いた。これらの記憶も技術として蓄積された。このような祖先崇拝(祖先と言うより先人、どんな宗教も教祖でないなら宗教実践の先人がいる)が共同体をただの寄り合いの集まりではなく、永遠性を孕んだ宗教共同体に昇華させる。この永遠性・神性が人の手に渡った時、人の創りだしたものが人自身にそのものの無限の蓄財を可能にしている。

 しかし可能になったからといって実際蓄財するとは限らない。蓄財はその生活様式から禁欲的である。しかし蓄財は何者からか強制させられてするのもではない、使いたければいくらでも使えるからだ。蓄財は自らを厳しく律する操作が必要である。ここから蓄財者が現象として物質的に(商品的に)無欲であるように見える。マックス・ウェーバーはとの倫理をキリスト教のプロテスタントから見出した。「プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、無頓着な所有の享楽に全力をあげて反対し、消費、ことに奢侈的消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理効果として財の獲得を伝統的倫理の障害から解き放ち、利潤の追求を合法化するのみではなく、これを(上述した意味で)直接神の意思に沿うものと考えることによって、その桎梏を粉砕してしまった。」(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下巻』p.222)⁵

 蓄財者が無欲に見えるのは、しかし無欲さ故ではない。むしろ自身の欲望に対して妥協しない姿勢が彼を禁欲的に見せている。蓄財者の真の欲望はおおよそ他の人間の生産物で慰められるようなものではない。ミクロ的に時間選好率として現れるが蓄財者本人にとってもその財がいつ市場に出現するか定かでない。到達し得ない欲望がその到達し得なさによって回帰的に強化され無限遠に据え置かれた財はその価値を人の想像限界を超えて引き上げられる。来るべき決済の日に備える蓄財者は極めて合理的な戦略をとっている。時間選好率はひとによって違うので、もちろん突飛に長期なそれを持つものもいるだろう。しかしその人がいるだけでは何も起こらない。実際それを可能にする技術の開発が再び長期的展望を見せ、相互に伸長しあう。
 
このような蓄財者が合理的に行動しているならば商品によって欲望を妥協できる人々は非合理的なのだろうか?いや、そうではない今まで見てきたように人々は合理的に行動しているがそれぞれの欲望に対してその時間的選好がどう見積もられるからによるからである。それが長い人もいれば、短い人もいる。ただし短い者は短いだけだが、長期さには限界がない。

 資本主義は物質主義や短期的な利益の追求等の批判をよく受けるが、しかし資本主義発展のトリガーであった蓄財者本人は全くの反対に位置していることがわかる。
 一方で他者の生産物である商品によって十分効用を得られないような財を待望するとして、はたしてその欠乏は解消しうる問題なのだろうか?資本主義が人の欲望を刺激することはよく批判されること(成長の限界論)であるが最も強力な欲望は人に消費されうるものなどではない。人はどんなに消費しても消費し切られない崇高さ、この崇高さを手放すことができない。このように常に欠乏をもたらす消費されない欲望は資本主義以前のものだ。金融危機後、資本主義の終焉が囁かれているがこの資本主義以前のこの欲望を超克しうる哲学が示されないなら願望以上のものにはならない。

 このように、貨幣は崇高さに近づくための階段であった。しかしいくら貨幣を退蔵したところで崇高さに辿り着ける確証は審判の日まで、ない。やがて人々は崇高さに近づく階段となっている貨幣そのものに永遠性、そして効用を見出してゆく。ここまででなぜ始まりに貨幣の退蔵が起こるかわかってもらえたと思う。それは貨幣がある時点から退蔵されるために開発されたと言っていいものだからである。

 貨幣は市場参加者とのコミュニケーションによって成り立つ。他者がその貨幣を受け取ってくれるだろうという予想があるからだ。そしてその他者もまた受け取った貨幣が次の他者も受け取ってもらえるだろうと予想する。そしてその他者も・・・と半ば永遠に他者を想定、或いは信憑せしめる。取引相手である他者はその対象として二人称ということと無限の他者という二重性を孕んでいる。しかし無限の他者との信憑は容易に崩れうる、単に文化が違ったり流行が変わったり、貨幣は人々が信ずる限りにおいてなんでも良いがゆえにその事物に普遍的な信頼は成り立ち得ない。取引はこのようなコミュニケーション不全の恐怖を跳躍しなければならないが、いずれにせよ将来この審判が下ることは確信できる。金や銀ですら、それらを交換の媒体にしない文化と対峙すれば、ただの石としてしか認識されないだろう。また将来において低コストで金を製造することが可能となった時、はたしてそれは以前までの一般的等価性を保持し得るだろうか。重金主義者の持つ金価値の神話も確実に死期が訪れるのだ。にも関わらずその審判を彼方に先送りにすることが市場に参加することの前提になっている。

 貨幣に信用が求められるのは、すでに死刑が宣告された被告(貨幣)を如何に延命させるかという知恵が求められるからである、先取りした死刑宣告を先送りにする知恵そのものが貨幣の信用そのものだと言える。知恵はときにその信用を確固たるものにするため法を要請しがちだ。しかしこの信用に価値を置きすぎたがゆえにもはや貨幣はその背後にあるべき商品(労働)を代弁してはいない。貨幣の価値は「信用の知恵」が代弁し、それが虚構であっても自ら神性を帯び、その地位を確固たるものにするため外部にそれを要請する。人々が神的なるものに魅了されるのは、人が死すべき宿命にあるがゆえに、死してなお輝く貨幣に救いを見出すからだ。貨幣は消費せずとも主人に効用を与えることができる。

 ここでこの貨幣の神性に対して異議を唱えた社会運動家シルヴィオ・ゲゼルのユニークな貨幣システムを紹介する。 
 貨幣の機能の一つに「価値の保存」がある。貨幣は他の財と違って腐敗も摩耗もしない。腐敗しないことが貨幣に必要な機能なのかという点にゲゼルは疑問だった。ミクロ経済において財には効用低減の法則がある。例えばビールの一杯目は1000円くらいの価値があるが2杯目になるとそうでもない、せいぜい800円ほどにしかならない3杯目は・・・と効用は逓減していく。しかし貨幣は1回目に使用(入手)しようが2回目に使用(入手)しようが効用は変化しない。このような一般商品と貨幣の非対称性を解消するべきだとゲゼルは考えたのだろう。ゲゼルはこの貨幣の特殊性を解消し貨幣を普通の財と同等に扱おうとした。

 ゲゼル型通貨は一定期間ごとに額面の1%に相当するスタンプの捺印を受けさせることで貨幣にマイナス金利を付加したものだ。のこんなものは夢物語に聞こえるかもしれないが、そこまで非現実なものではない。通貨発行益が正しく運用されるならその貨幣の価値は上昇する、この点でただの地域振興券以上のものであることがわかる。しかしそれだったら普通の通貨と変わらないのではないか?確かにマイナス金利がついて且つその価値が上がるのならば、ただ計算が面倒なだけの通貨だ。

 おそらくゲゼルが考えたのは、不況時に需要を掘り起こすのを容易にできるということだろう。スタンプの値段を上げればいいだけだ。しかしもっと深く考えるならばこういった仕組みを貨幣に予め仕込んでおくことによって貨幣の永遠性を脱色したかったのではないか、永遠性を感じさせる通貨は極めて個人的である。それは神と一対一の関係性だからだ。一方ゲゼル型通貨はその設計思想においてフロー性が内在している。これは共同体志向であり自発的な法的強制力が生まれる。ここで求められるのは古かろうと新しかろうと強い共同体意識だ。そういう意味でゲゼル型通貨は社会よりも国家と親和性がある。国家や民族は前記したように環境の整備や消費者の生産のために資本主義から解体されることはない。法定通貨の最後の形はゲゼル型通貨かも知れない。ゲゼル型通貨は強い共同体意識と厳格な貨幣規律によって暗号通貨と共存することができるだろう。しかしその通貨圏外との貿易においては外貨準備を積みあげなければならないだろう。もちろん鎖国するという選択肢もある。いずれにせよ、この通貨は内国的に通用しても世界経済では流通しない。よって世界経済の貨幣は自己撞着的に自身が効用を持つものだ。

 上記の事から、貨幣が蓄財を可能にした時点で、人々は蓄財するインセンティブがあることがわかった。この現象は貨幣経済にはつきもので、それはいずれ恐慌を引き起こすだろう。集団的な共同体内ではその誘引を緩和することができるが世界経済においては不可能だ。次にハイパーインフレーションについて考える。恐慌が死蔵による貨幣経済の凍結だとするとハイパーインフレーションは貨幣の老衰現象、グレシャムの法則における悪貨と言える。

ハイパーインフレーションは、急進的なインフレーションのことを指す。インフレーションはその経済圏で使用されていた貨幣が何らかの理由で減価し、相対的に物価が上昇する。人々は貨幣を一刻も早く商品と交換するため。その貨幣の流通速度が極大化する現象だ。

 ハイパーインフレーションは貨幣がその要件である3機能を満たせなきなった時に発生する。貨幣が減価するのは、受容よりも供給が過多になっているからだが、その要因は様々である。マテリアルな通貨は貿易や自然的要因、技術革新など外部的要因によって貨幣が大量に供給される場合がある。流通している貨幣が管理通貨の時、通貨当局自身が需要を超えて供給したりする。このとき人々が自身の保持している貨幣が瑕疵を負っていると考えると、すなわち悪貨とみなされ、一刻も早く他の資産に交換する。このような取引が感染的に拡がると、貨幣機能の①②、価値の尺度と保存が不能となる。この状況が明らかになり、商品の売り手がその貨幣を受容しなくなると、貨幣機能③交換の手段を満たさなくなり、貨幣は寿命を終える。

 恐慌とハイパーインフレーションはその原因を貨幣が代表している事がわかった。貨幣経済は、貨幣が市場にある諸商品を代表する。間接民主主義において、代議士が国民の意思を代弁するように、貨幣は商品を代表している。つまり貨幣経済とは商品が貨幣を媒介として取引される間接資本主義といえる。間接資本主義にとって貨幣の信任が揺らぐ、つまり貨幣が商品の正しい価値を表せなくなることは経済体制の信任が揺らぐことになる。貨幣の振る舞いによって市場が失敗してしまうのである。だとしたら貨幣なしの経済であれば市場の失敗は起こらないのだろう。

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