卒論 ビットコインを擁護し、未来の貨幣を想像する 3 ビットコインは貨幣か
3 ビットコインは貨幣か
まず①価値の尺度について検証する。ビットコインは2009年に創世記ブロックが作られてから相場価格は微増していたが、ユーロ危機や中国のビットコインの規制などでその価値は大きく変動した。この変動幅は一時的なものか、それとも本質的なものだろうか?
為替相場はそこで取引される通貨がどのように供給されるかによって均衡点が移動する。現在取引される法定通貨は多くは通貨当局が管理する管理通貨である。当局は自国の経済規模や金融政策として通貨供給の指針を策定する。尺度としての通貨はこのような政策によって管理されている。ではビットコインはいかなる指針でもって通貨供給しているのだろうか。
ビットコインを新たな通貨として考えるとき、マクロ経済学的には新たな通貨供給として認められる。法定通貨との交換レートが存在している以上ビットコインの流通は、そのまま新たなマネーサプライと考えられる。
ビットコインは発行枚数の上限が決まっており、その発行枚数は最終的に2100万枚となる設計で、暗号解読によりブロックを生成する報酬は21万ブロックごとに半減していき(1ブロックあたり50枚、25枚、12,5枚…)、現在の発行枚数は14924050枚(「Crypto-Currency Market Capitalizations」http://coinmarketcap.com 2015年12月6日アクセス)ほどだ。
供給枚数には上限がある。1ブロックは10分ほどで生成される。初めてビットコインが採掘されたのは2009年でその時の報酬は50枚(BTC)である、創生期において採掘は低調であったが近年は最大限に採掘されるので10分に1ブロック、つまり現状で21万ブロックの生成に要される時間は約4年間だ。2017年までは1ブロックあたりに報酬は25BTCだ。その後4年毎に半減していき、2140年に全2100万枚が採掘される。
その上限に至るのは遠い未来であって今を生きる人々にとっては、実感としてビットコインは常に増えていると感じられる。10分間に1ブロック=25BTCとおくと1年間に131万4千BTCだ。ここ4年間の増加率は約12%であり、これはインフレ率として考えられる。今後順調に採掘が進めばストックが増え供給フローが減っていくため。このレートは漸減してゆくだろう。この供給設計は金融政策になぞらえると初期の数年間で通貨の半数を供給し、その後は市場の規模の拡大ゆるやかにつれてそのサプライもゆるやかに絞ってゆく。これは新興国経済の、ナカモトサトシが意識していていたかは分からないが、優秀なモデルとしてみえる。
発行枚数の上限に至るのは遠い未来なのだが、システムとしてデフレ性をはらんでいると言える。上限に達したあとは死蔵されたりすることを考えるとビットコインは漸減する。発行枚数の上限に達したならばマイニングが行われずビットコインが破綻するのではないか、と考えられるがそうはならないビットコイン取引の手数料が報酬として支払われるからだ。
しかし順調に採掘の進まないストーリーも考えられる。非現実的だが当局が規制したり、ビットコインに深刻な脆弱性が発見されたり、エネルギー単価が上がったりと様々なケースが考えられるが、最もありうるのはより魅力的な暗号通貨が開発されることである。ビットコインはコンピュータ上のプログラミングであり名前だけ変えて似たようなコインを開発するのは容易である。しかしそれだけでは始祖であるビットコインを超えることはできない。現状ビットコインに改良を加えたコピーコインが無数に開発されているが(時価総額順に10位までRipple,Litecoin,Ethereeum,BitSharers,Dash,BanxSheres,Dogecoin,Stellar,Peercoin(「Crypto-Currency Market Capitalizations」http://coinmarketcap.com (2015年11月14日アクセス)、どれも時価総額でビットコインの20分の1以下であり、そもそもビットコインと補完的な改良である。ビットコインの脅威になりえそうなものはない。これはビットコインの先行者利益的な面、特に知名度、も大きい。だがもし仮にビットコインより低エネルギーに技術的担保がとれかつ価格が高騰するような暗号通貨が開発されるなら計算資源がそちらへ向かうことが考えられる。その時が暗号通貨の世代交代の時期だ。
このようにビットコインの供給計画は極めて予定的である。通貨当局のように気にかけるべき自国経済がないので、恣意的な操作がなされない。その供給は将来予測が容易だ。この点、政府や通貨当局が信用されないとき投資家は自国通貨よりもビットコインを好むことが考えられる。これは②の価値の保存でも同様である。供給計画が前もって示されているがゆえに人々はビットコインが1単位でどれほどの価値になるか予想することが可能になる。現在投機によって乱高下していても発行上限が決まっているのでいずれ収束すると考えられる。また投機による通貨危機は管理通貨においても、管理通貨であるがゆえに、起こりえる。それはポンド危機やアジア通貨危機などで見られる。従ってビットコインは管理通貨と同等の、或いはそれ以上に価値尺度として用いることが可能である。
次に②の価値の保存について検証する。価値の保存は上記の通り、そのものが腐敗したり摩耗しないことである。ビットコインは電子データであり、そのデータは特定の一つのサーバーに保存されているわけではなくp2pネットワークにおいて分散して記録されている。よってビットコインそれ自体が消耗することはない。しかしビットコインそのもの自身ではなく、それの持つ購買力としての価値の保存も考えられる。①の価値尺度と被るところだが発行上限が定められていることから、人々の予想する変動幅からは大きく外れることはないだろう。むしろ上限設定があるがゆえにデフレ的に価値が高騰することも考えられる。将来的に有事の際のビットコインと呼ばれることがあるかもしれない。よって、現在の管理通貨と同レベルの価値の保存機能が果たされる。
最後に③の交換の手段、についてビットコインに当てはまるか検討する。いかに価値の尺度機能と価値の保存機能を果たしていたとしてもその存在が交換の手段として多くの市場参加者に受容され認知されなければならない。現在日本では全くと言っていいほどビットコインは受容されてはいない。決済できるのは2015年11月14日現在、実店舗で44件、通信販売で21件(「Bitcoin日本語情報サイト」 http://jpbitcoin.com/shops)となっている。世界全体では7410件だ(「coinmap」https://coinmap.org/#/world)これを多いと取るか少ないと取るかは意見の別れるところだろう。また麻薬の密売サイト「シルクロード」がビットコインを決済手段として用いていたり最近ではイスラム国がビットコインで資金収集しているとする報告が上がったりと表に出ない形での使用や個人間の取引は草の根で広がっていると考えられる。
この現状はビットコインのみで生活しようと思うと満足できるものではないだろう。しかしビットコインで支払い可能な店舗は年々増えており、これからも増えるだろうと予想できる。将来的にビットコインは交換の手段の一つになると考えられる。
もう一点ビットコインに特有の問題がある。ビットコインは紛れも無く電子的データでありこの状態は他の一般的な財に比べると実体がなく所有の概念に対して理解し難い面がある。全く実体のないものが交換の手段となりえるだろうか。現在PASMOやSUICAなど電子決済が生活の一部になっているが、これらの電子マネーは法定通貨が確実に背後にあり、それによって価値を担保する仕組みになっている。
ここを比較するとビットコインは価値を担保する仕組みが脆弱に見える。これはそもそもビットコインそれ自体に価値がある信じる人々によって成り立っている。人々がなぜそれを信じるのかというと、理由は様々であろうが、気軽に送金できるシステムを欲していたり、政府の政策よりもビットコインのプロトコルを信頼していたりとあるだろう、確かにこれらのユーザーにはなんら価値を担保できる権威は持っていない。では一方で法定通貨は一体どのような権威によって成り立っているのだろうか?事実、法定通貨は法権力によってその強制通用力が認められている。強制通用力はそれによる決済を受け手が拒否できないとする国家が自国通貨に対して与える特権である。この特権があれば自国内で交換の初段としての確かな地位を確立できるとされる。本当にそうだろうか。強制通用力さえあれば交換の手段となりえるだろうか、いやそうではない実際ジンバブエドルやドイツマルクは強制通用力を持っていたにもかかわらず交換の手段足りえずうち捨てられてしまった。我々が法定通貨を交換の手段として認めているのは、それが強制通用力を持っているからではなく、その通貨を管理する管理者を信頼するからである。法貨の管理者を信用するのと同じように、ビットコインのプログラムを実体がなくとも信用できるのであれば、それは交換の手段として使用できる。
「たんなるモノでしかないモノが「本物」の貨幣へと跳躍している、さらに大きな断絶である。無から有が生まれていたのである。いや、貨幣で「ない」ものの「代わり」が貨幣で「ある」ものになったのだ。」(岩井克人『貨幣論』pp.141-142)²
「「本物」は「本物」、「代わり」は「代わり」として、「本物」とその「代わり」とを峻別するこの二項対立的思考のはたらきこそ、軽いままの金貨や不換紙幣やエレクトロニック・マネーを金や金貨やや紙幣といったそのときどきの「ほんのも」の貨幣の「代わり」として流通させるきっかけをうみだしてきたのである。」(同上)岩井は、本物のモノが本来代わりのものであり、本物と代わりの二項対立が代わりのものを貨幣にせしめていると述べている。岩井は貨幣がその成り立ちからバーチャルなものとして捉えている。実体がなんであれ、実体がなかったとしても、それが流通するならそれは貨幣である。ということがいえよう。
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