卒論 ビットコインを擁護し、未来の貨幣を想像する 11 おわりに

おわりに

私はこの論文で、効用価値説に疑問符をつけてきた。労働価値説、効率的市場仮説、トリクルダウンが否定されるなかで効用価値説が疑問視されることはあまりない。現代経済学でこの事について考えることはタブーなのかもしれない。

 効用価値説の発想から出た学問に行動経済学や神経経済学がある。これらは脳科学から効用や幸福さを割り出そうという試みだ。GDPに代わる新たな指数として編み出されたGNHも心理学や社会学から持ち込まれた概念だ。この分野からは幸福さは相対的なものである、という提言がよくなされる。「集団の不合理は、仮に人々が最上位をめざすことが合理的であだとしても、地位競争の論理からすれば全員が最上位にはなれない点にある。いやむしろ地位競争自体が不快だとすれば、総和は減ることになる」(ロバート・スキデルスキー&エドワードスキデルスキー『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』p.154)⁶確かに格差の少な社会のほうが幸福度は高い。しかし格差の少ない社会とはなにも北欧や資源国だけではない。北朝鮮やキューバですら幸福度は高いだろう。極論を言ってしまえば映画『マトリックス』よろしく人をカプセルに漬け込んで、頭に刺さったチューブから延々快楽物質を投下するところまで行くだろう。しかし大事なのはよき暮らし、よき人生なのであって、幸福さは幸福さに任せておけばよい。幸福さは個人のものであり、社会がそれがなんであるかは考えなくてよいと私は考える。しかし個人のものとしてもこれを効用価値で思考すると困難さが登場する。ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーによって展開されたプロスペクト理論では人々は富そのものではなく、富の変化量で効用を得る。また損失回避的であり、これは利益による幸福さより損失による不幸さをより大きく見積もるということである。人々がこのような関数を持つとき、人生にランダムに利益と損失が発生すると人生の平均的幸福決算は負債のほうが大きくなる。この議論を突き詰めると反出生主義に陥る。反出生主義はショーペンハウアーやエミール・シオランが積極的に擁護する思想、人生においては最終的に不幸さのほうが多く、生まれてこなかった者が最も幸福であるとする思想である。人口論から考えても人口が増大すると一人あたりの使用可能な資源が減ることは明らかであり。合理的に考えると出生するという現象そのものが不幸さになってしまう。効用価値説がいかにろくでもないかわかってもらえたと思う。

 経済学は富、つまり資本の最大化を目標とすべきであり、貨幣量や幸福さ、つまり効用ではない。幸福さは心理的要素でありそれは相対的な物差しに測られるから、やがて統制経済に収束する。それは人間のためかもしれない、が本当に人間のためになっているだろうか。
 
 近年トリクルダウンが否定されている。それはフランスの経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本論』に詳しい。「1910年から1950年にかけてほとんどの先進国で生じた格差の提言はなによりも戦争の結果であり。戦争のショックに対応するため政府が採用した政策の結果なのだ。同様に、1980年移行の格差最高もまた、過去数十年における政治的シフトに依る部分が大きい。特に課税と金融に関する部分が大きい。格差の歴史は、経済的、社会的政治的なアクターたちが、何が構成で何がそうでないと判断するか、さらにそれぞれアクターたちの相対的な力関係とそこから生じる集合的な選択によって形成される。これは関係するアクターたちのすべての共同の産物なのだ。」(トマ・ピケティ『21世紀の資本論』pp.22-23)⁷彼は膨大な統計データを用いて経済規模が拡大しても分配政策を怠ると低所得者に所得がトリクルダウンせずに格差が拡大していることを指摘した。確かに50年前、30年前、10年前とは格差がかわらず存在する。しかし50年前誰もが自動車を買える社会だっただろうか?30年前一部屋一部屋にエアコンが完備されただろうか?10年前スマートフォンでいつでもどこでもインターネットにアクセスできただろうか。所得の面ではトリクルダウンは実現しなかったのは事実だ。だが技術革新の形をして富はトリクルダウンをしているといえるだろう。資本主義は人間のためのものではない富のためのものである。そして富のための資本主義が最も人間のためになっている。

 富のための資本主義は資本そのものを価値としてその交換によけいな貨幣などというものの介入を許すべきではない。資本を資本というだけでそれ同士を直接交換すべきである。貨幣経済という間接資本主義から、直接資本主義への革命が望まれる。

 ビットコインはそのための橋頭堡だ。資本と既存の貨幣には非対称性がある。それは貨幣が国家を求めるが。資本は国家無しに活動できるということである。グレシャムが認めたように貨幣がマテリアルなものであっても紙幣、法貨であっても通貨として使われる以上額面を定めたならそれを保証する義務が発生するからである。国家以前の貨幣であっても伝統や文化という形で共同体が貨幣の価値を保証する必要がある。一方資本は国家なしに存在できる。無政府資本主義は理論上可能であるが無政府貨幣経済は困難である。金貨など極めて物自体に価値を認められる貨幣であれば無政府であっても機能するように思えても金貨の削り取りがある以上難しい。取引するごとに量を計るとでも言うのか?とても経済合理性に合致しているとは思えない。民間による金兌換通貨も保管している金を防衛できるほどの軍事力を持つなら、それはもう国家といえるのではないのか。あるいはその存在を国家に認められているときもやはり国家なしには貨幣は活動できない。国家もまた貨幣と同様に永遠性を掲げて現れる。しかしそれは共同幻想だ。

 ビットコインは国家なしに機能する。それは確かに既存の貨幣を一部超越してはいる。しかしその価値から交換価値を排除できない、なぜならそれが効用価値説に則っているからだ。ビットコインは既存の貨幣から貨幣形態Xにいたるまでの中間的な形態といえる。もしビットコインが貨幣形態Xにより近づくならば、暗号の解読に費やされた電力が担保になっている現状から、電力の使用枠を担保にするように構造を逆転する必要がある。果たしてそのような機能を暗号通貨の構造に繰り込むことができるかはわからない。あくまで思考実験である。

 経済学は、現実世界をただ分析するのではない。完全情報ゲーム=効率的市場仮説の理想が実現するとしたら、それはどういったものか。そのための舞台を整えるのが経済学者なのだ。貨幣形態Xは古典派が貨幣経済に先立って想像した物々交換経済を厳密な形で創造するものである。そしてその物自体はエネルギーなのだ。

引用文献
(1)読売新聞東京夕刊3面 2014年2月28日
(2)岩井克人 『貨幣論』 1998年 ちくま学芸文庫
(3)ハイエク 監修 西山千明 訳 池田幸弘・西部忠 『ハイエク全集Ⅱ-2 貨幣論集』 2012年 春秋社
(4)アダム・スミス 訳 大内兵衛・松川七郎 『諸国民の富』 1959年 岩波文庫
(5)マックス・ウェーバー 訳 梶山力・大塚久雄『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下巻』 1962年 岩波文庫
(6)ロバート・スキデルスキー・エドワードスキデルスキー 訳 村井章子『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』 2014年 筑摩書房
(7)トマ・ピケティ 訳 山形浩生・守岡桜・森本正史 『21世紀の資本論』 2014年 みすず書房

参考文献
Nakamoto,"Bitcoin:A Peer-to-peer Electoronic Cash System.".(November 2008)
岡田仁志 他 『仮想通貨 技術・法律・制度』 2015年 東洋経済新報社
野口悠紀雄 『仮想通貨革命 ビットコインは始まりにすぎない』 2014年 ダイヤモンド社
吉本佳生・西田宗千佳 『暗号が通貨になる「ビットコイン」のからくり』 2014年 講談社
アンドレ・オルレアン 訳 坂口明義 『価値の帝国』 2013年 藤原書店
ジェイムズ・バカン 訳 篠原勝 『マネーの意味論』 2000年 青土社
フェリックス・マーティン 訳 遠藤真美 『21世紀の貨幣論』 2014年 東洋経済新報社
プルードン 訳 斉藤悦則 『貧困の哲学 上・下』 2014年 平凡社
参考資料
「Crypto-Currency Market Capitalizations」http://coinmarketcap.com (2015年12月6日アクセス)
「Bitcoin日本語情報サイト』http://jpbitcoin.com/shops  (2015年11月14日アクセス)
「coinmap」https://coinmap.org/#/world (2015年11月14日アクセス)

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